終:君と共に、酒を酌みて


孟極モウキョク九尾キュウビ……いるんだろう?また黙って見てるつもりか?」

 楚湛言ソタンゲンは、何もない空間に向かってそう言い放った。


 その瞬間、紫色の靄がふわりと広がる。


「はいはい、わかってるってば。だって、伝説の白澤様がどんなものか、ちょっと遠くから拝見したかっただけだし?」

 九尾キュウビが姿を現す。片手で長い髪を整えながら、もう片方の手では蘅音コウインとお揃いの狐媚の耳飾りをくるくると回している。ゆっくりと、優雅な足取りで近づいてきた。


 そして、蘅音コウインの体がふらりと傾いたその瞬間——

「それにさ、堂々たる天下無双の白澤様が、五千年モノの老いぼれに助けられてんじゃねーよ、情けねぇなぁ?」

 いつの間にか背後に現れた孟極モウキョクが、にやりと笑ってそう言った。


「……え? 九尾キュウビのお姉さん?」

 蘅音コウインは首を傾げながらそう尋ねた。


「はーいよ♪」

 九尾キュウビはにっこり笑って、ひょいっと蘅音を引き起こす。


 その瞬間、カンがびくっと反応して、思い出したように怒鳴った。

「てめぇ……幻術最強のくせに、やっぱり知ってたんだな!? 白澤ハクタクの正体、なんでわしに教えなかった!」


「はあ? だってアンタ、あの日調子に乗って私に幻術かけ返してきたでしょ? 尻尾の毛むしったくせに~。そんなヤツに親切に教えてやる義理ある?」


 九尾キュウビはどこからともなく扇子を取り出し、ぱたぱたと煽ぎながら、カンの頭をコツンと叩いた。


「ほらほら、自分で自分に癒しの歌でも歌っとけっての。」


 カンは「ちっ」と舌打ちすると、不承不承ながらも自力で尻尾を治した。


「ちょっと待て。今こっちは一人で師叔の術式支えてんだけど? お前ら、こんな状況でおままごとか始めるなよ!」

 楚湛言ソタンゲンは前線で結界を支えながら、思わず後ろを振り返ってツッコんだ。


「えへへ。でもね、なんだか今、すっごく心強い気がするんだ!」

 蘅音コウインは太陽みたいに笑いながら答えた。その笑顔には、まるで傷ひとつないような明るさがあった。


 楚湛言はちらりと目線を逸らし、わずかに目尻を下げてから、カンに視線を送った。

「はいはい……わかってるって。」

 カンはちょっとだけ面倒くさそうに返事をすると、ふっと息を吸い、歌いはじめた。


灯火トモシビの下に影ふたつ、酒をみて、星を語らん。

 君の手が灰を払えば、我はその前に、業火を防がん。


 百の妖が風を起こし、ひとり人の隅を護る。

 誰ひとり信ぜぬとも、人を守る、それが我が義。」


 ふしぎなことに、カンの歌声が流れるたびに、刻一刻と蘅音コウインの傷が癒えていった。

 それは蘅音コウインだけではない。傷ついたハクも、目の前の白澤ハクタクも、銀色の光輪をまといながら、少しずつ回復していくのだった。


「無能な人間って、群れるのが好きって言うじゃない?まさか、無能な妖まで寄り集まるとはね!」

 師叔が嗤いながら手をひらりと振ると、その背後に並ぶ御妖師たちが一斉に呪を唱え始めた。空中に符が次々と現れ、彼らを包囲するように舞い散っていく。


「師叔、蘅音コウインを傷一つなく連れ帰るって、そう言ったのはあなたでしょう?」


「——フッ。お前も分かってるだろう? この『姫様』が皇后陛下にとってどれだけ厄介な存在か。彼女が死ねば、それはお前……白澤ハクタクが『主を裏切って殺した』ってことになるだけさ!」


 師叔の笑い声が空に響いた。

 その瞬間、すべての符から剣が姿を現し、一斉に蘅音コウインたちへと襲いかかった。


 だが——

 誰も、反撃の構えすら取らなかった。


 蘅音もまた、目を閉じることなく、ただ静かにそこに立っていた。

 まるで、この結末を最初から知っていたかのように。


 そして。


 無数の剣は、その体をすり抜けた。

 痛みもなく、血もなく。

 幻のように通り抜け、やがてゆっくりと地面へと落ちていった。


「……これが、師叔の『望んだ結末』じゃなかったのか?」

 楚湛言ソタンゲンが低く言った。


「見ての通りだ。カンが歌っている限り、蘅音コウインは傷つかない。

 ——いや、誰もだ。人も、妖も、誰ひとりとして傷つかない。」


 その言葉に、師叔の表情が凍りつく。

 一歩、また一歩と、無意識に後退っていた。


「……これ以上、誰も傷つけさせない。」

 楚湛言ソタンゲン——いや、白澤ハクタクが、そう言った。

 その瞳は、青い炎のように静かに、けれど揺るぎなく燃えていた。


「師叔。あなたの呪いも、御妖師の剣も、すべて——終わりにする。」

 その瞬間、彼の背に銀白の翼が広がった。


 空が、鳴った。

「これが、私の『知』だ。これが、師の『願い』だ。」


 楚湛言ソタンゲンは、ゆっくりと師叔に歩み寄る。

 その手に握られたのは——柄のない、銀色の剣。


 氷のように澄みきっていて、炎のように揺れている。

 ただ、その存在は、冷たくて、圧倒的だった。


 次の瞬間。


 剣が振るわれる。

 すべての符が、断ち割られた。

 空間ごと、咒の構成が一瞬で崩壊する。


 そして——

 剣先が、師叔の顔すれすれまで届いた、その瞬間。


 楚湛言ソタンゲンは、その手を止めた。ただ一言だけ残す。

「お前を、今は殺さない。それも、私の『選択』だ。」


 そう言って、彼はくるりと背を向ける。そして、振り返らずにもう一言、低く告げた。

「生き延びられるかどうかは……お前ら自身の『心の魔』が、どれほど深いかにかかってる。」


 言い終えると、彼はそっと九尾キュウビの方へ目を向け、黙って小さく頷いた。


 その瞬間——


 紫の靄と幻術の波が、ぶわっと街一帯に広がった。

 だがすぐに、それは潮のように引き、やがてひとつの紫色の球体へと凝縮されていく。


 九尾キュウビはそれを手に取り、くるりと軽く上へ放り投げた。


「っとと、任せなって!」

 孟極モウキョクが嬉しそうに叫びながら、前へと飛び出す。

 その雄々しい虎の額で幻球をどん、と突き上げた。


 空へと弾かれたその球を——


 カンがくるりと尾を一閃、空高く振りぬくように打ち上げた。


 次の瞬間、すべての幻と靄が、風に溶けるように……きれいさっぱりと、消え去った。


「ええ?」

 蘅音コウインは目をぱちくりさせながら、くるりと一回転。もう一回転。

「……え? えええ?」

 そして信じられない様子で楚湛言ソタンゲンの目の前に歩み寄り、思わず鼻先を指差した。

「これで……終わり?私、まだ出番なかったんだけど!?」


 楚湛言ソタンゲンはふっと笑い、蘅音コウインの額を軽くこつんと叩いた。

「本気で殺し合うつもりなんて、最初からないさ。それに、君をあいつらに渡すなんて……ありえないだろ?」


「なーに言ってんの!」

 九尾キュウビが酒館の奥からずしんと大きな酒樽を持って現れた。

「出番がなかったぁ? だったら、今こそ出番でしょ?さぁ、私たちに最高の一杯を調えてちょうだい——秘蔵のやつ、全部ね!」


「ええっ……?」

 蘅音コウインはぽかんとしながらも、すぐに笑みを浮かべた。


「お嬢様、まさかこの街でまだ店を続ける気じゃねえだろうな?」

 孟極モウキョクがひょいっと老人の姿に戻りながら、ちゃっかり酒を受け取ってぐいっと一口。

「行動バレバレだぞ? せっかくの狐媚こびも台無しだわ。」


「えええ〜〜っ!?」


 そこへカンも現れて、蘅音コウインの隣で壺を手に取りながら聞いた。

「で、姫様。まさかとは思うけど……皇宮に戻る気、あるのか?」


「帰るわけないじゃん!」

 蘅音コウインは胸を張って、ぱっと満開の笑顔を見せる。


「次は別の場所で、『酒館・蘅』をもう一度始めるの!

 私は――自分の人生を、自分で決めて、自分で楽しむって、もう決めたんだから!

 カンも、楚湛言ソタンゲンも、みーんな一緒にねっ!」


 ーーーーーーーーー

 カンが途中で歌った歌:


「君と共に還らん」

 千年風にウタを乗せ、

 名もなく姿も定かならず。

 山河サンガを見て流れし時、

 ただ君の心に波が立つ。


 ヨウとて居場所はなく、

 孤にして冷たさを知る。

 だがそのに春の光、

 怯えず、拒まず、初めての願い。


 もし人の世が拒もうとも、

 我は橋とならん、君の道を。

 善も悪も超えし上で、

 ただ君を守らん、孤独もイトわず。


 主など求めぬままに、

 ただ君と在るこのトキを。

 妖として生まれし身でも、

 君と共に、朝な夕なを歩まん。


 灯火トモシビの下に影ふたつ、

 酒をみて、星を語らん。

 君の手が灰を払えば、

 我はその前に、業火を防がん。


 百の妖が風を起こし、

 ひとり人の隅を護る。

 誰ひとり信ぜぬとも、

 人を守る、それが我が義。


 万の声が我をナジろうとも、

 君ひとり、我を識ればよし。

 誉れも名も望みはせぬ、

 ただ君の笑みの傍に在らん。


 チリと還る日が来ようとも、

 忘れぬでくれ、我が姿を。

 人と妖、道は違えど——

 心が通う、このエニシに悔いはなし。


 ーーーーーーーーーー

 後書き:

『百妖百酒』第一部、これにてひとまず完結です。「酒館・蘅」の新たな物語が、またいつか、ここから始まる――そんな予感を残して。


 正直に言うとね、『山海経』ベースの妖怪たちを整理するの、けっこう時間かかるんです~~この一ヶ月で全30話、さすがにちょっと疲れたので(笑)、しばらくお休みをいただいて、自分が本当に書きたい妖たちをもう一度見つめ直すつもりです。


 なので、いったんこの作品は「完結」にしますが、まだ迷ってます。続きをこのリンクで更新するか、それとも第二部は別作品として立ち上げるか……うん、ちょっと考えさせてね。


 もしこの物語を気に入ってくださった方がいたら、「フォロー解除」はしないでいただけると嬉しいです!第二部を書くときは、例えリンクが違っても、こちらの作品で更新通知をお届けするつもりなので。


 そして、上に登場したカンの歌、実は音楽バージョンも作ってみました!リンクはノートに貼ってありますので、ぜひ聴いてみてください♪

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436632860984

 人でも、妖でも。

 幸せで、美しく、自由な生を歩めますように。

 縛られず、望むままに、生きられますように。


 また、どこかで。


(追伸:前に書いた後書きも、正直ぜんぶ物語の一部だと思ってるんだけど……ちゃんとカウントしてみたら、後書きを抜きにしても、この小説、もう10万字を超えてたんです!だから、後書きもそのまま残すことにしました♪)

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【第一部完結】百妖百酒、ただひとり酌むは音なり 栗パン @kuripumpkin

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