笑う泥

誰かの何かだったもの

善意の死骸

田島(たじま)は、いつも「いい人」でいようと心がけていた。

職場では誰よりも早く出社し、後輩には優しく接し、飲み会では笑顔で皿を下げた。

誰もが口を揃えて言った。「田島さんは、ほんとに人ができてる」って。


だが田島は、そう言われるたびに、なぜか吐き気がした。


——お前ら、俺がどれだけ“計算”して生きてるか、知らねぇくせに。


愛想笑いひとつ、謝罪ひとつ、すべては「好かれるため」の演技だった。

嫌いな奴にも頭を下げた。バカにされても黙ってニコニコした。

田島は、自分の中にある“本音”を蓋で押さえ込み続けた。


そしてある日、その蓋が壊れた。


きっかけは、後輩の山村(やまむら)が昇進したことだった。

ミスが多く、要領も悪く、田島が何度もフォローしてきた相手だった。

それなのに、上司は言った。「山村の方が、勢いがあるからな」って。


田島は笑った。職場ではいつも通り、静かに拍手した。

だが帰宅後、浴室の鏡の前で、拳で自分の顔を殴った。


次の日から、田島は少しずつ変わった。

昼休みにトイレの個室で、誰かの悪口を匿名で書き込むのが日課になった。

「部長の息が臭い」「営業の女、枕してるらしい」——デマも平気で混ぜた。

会社のチャットツールで、ミスを見つけるたびにわざと目立つように書き込んだ。

誰かが困っても、見て見ぬふりをした。

そのとき田島の心に浮かぶのは、濁った快感だった。


“これが俺の、本当の顔だよ。見せてやるよ、お前らに。”


ある日、田島が匿名で送った中傷メールが発覚した。

犯人探しが始まり、同僚たちはお互いを疑い始めた。

「信じてたのに」「あいつ、怪しくない?」

田島はその様子を、まるで観客のように見つめていた。


誰も、田島を疑わなかった。

「田島さんがそんなことするわけないよ」

そう言われた瞬間、田島はひどく冷めた顔で笑った。


——お前ら、ほんとバカだな。

俺が一番汚ねぇんだよ。


半年後、田島は会社を辞めた。

表向きは「家庭の事情」とされたが、本当は自分から辞表を出した。

何もかもに飽きていたのだ。

「いい人」を演じるのも、「悪い人」を隠すのも、疲れ果てていた。


今、田島は狭いアパートで、一人ぼっちでテレビを眺めている。

ついている番組も、よくわからない。

何も感じない。

ただ、笑っている誰かの声が、うるさいだけだった。


彼は小さくつぶやいた。


「俺は、何をしてたんだっけな……」


窓の外では、今日も世界が「善人」のフリをして回っていた。

田島はそれを見て、久しぶりに笑った。

泥水のような笑いだった。

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笑う泥 誰かの何かだったもの @kotamushi

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