そして彼女はいなくなった

石野 章(坂月タユタ)

そして彼女はいなくなった

 無機質な白の端末に社員証をかざすと、「ピッ」という冴えない音が事務的に空気を裂いた。


 時刻は、午前八時三分。ほんの五分、いつもより遅い。でも気にするほどのことでもない。始業三〇分前に会社に着けば文句は言われないのだから。


 俺は社員証を胸ポケットにしまい、無言のまま事務所の奥へ歩き出す。誰もがキーボードを叩く音と、空調の低い唸りが混ざり合う中、俺の席は事務所の片隅で静かに待っている。


 全ては、決められたレールの上にある。打刻、着席、メールチェック、そして際限なく続く仕事の山。終わりの見えないルーティン。ひとつこなしても、またすぐ次が生まれる。毎日は、まるでループする夢のように、同じ風景のなかを進んでいく。


 変わらない日々。それが俺の人生だった。誰にも何も言われず、ただ正確に、静かに流れ続ける歯車のひとつ。そんな感覚が、最近になってようやく肌に馴染んできた気がする。悪くはない。けれど、良くもない。今日もまた、その一日が始まる。


 ただひとつだけ、今日はいつもと違うことがあった。


 それは、午前九時半ぴったりに鳴った一本の電話だった。反射的に、俺の右手が受話器へと伸びる。若手が電話に出るのが、この会社の暗黙のルールだ。


「はい、グロースギア株式会社、早川です」


 いつも通りの応対。声も手も、無意識に動いていた。しかし、その次に続いた相手の声が、何かをひどく逸脱していた。


「失礼いたします。私、株式会社サヨナラサポートの澤部と申します。御社の藤井理央様より、退職に関する正式なご依頼を受け、本日ご連絡差し上げております」


 ――え?


 何かの聞き間違いかと思った。言葉が、耳の奥に届いた瞬間、靄のようにぼやけていった。数秒間、意味を咀嚼できず、口がきゅっと固まったまま動かない。


「え? あの、今、なんと――?」


「藤井理央様から、弊社を通じて退職の意思表示がございました。本日付での退職を希望されており、以後のご連絡はすべて弊社を通してお願いしたく存じます」


 世界が、すっと音を失った気がした。


 理央が……退職? うちの部署でただ一人の同期の、あの藤井理央が? つい昨日も、何気ない雑談を交わしたばかりだ。それが、何も言わずに……そんな馬鹿な。


「……本人から……は……」


 掠れた声を絞り出す俺に、事務的な声が答える。


「ご本人の強いご希望により、御社との直接のご連絡はお断りしております。業務上のご質問がある場合も、弊社窓口までお願い申し上げます」


 俺はただ、机の向こう――理央の空席を見つめていた。そこに人がいたはずの重みだけが、目に見えない影のように残っている。


「……今日……もう、来ないんですか?」


「はい。本日より出社されません。また、退職届・私物等については、追ってご案内を差し上げますので――」


 その先の言葉は、もう耳に入ってこなかった。まるで水中に沈められたみたいに、音が遠のいていく。


 俺は慌てて、受話器を隣の山本さんに回した。


「ちょっと……これ、代わってもらっていいですか」


 山本さんも、一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着いた声で対応し始めた。その声だけが、微かな救いのように、現実の輪郭を繋ぎとめていた。


 その後の処理は、淡々と進んでいった。星野さんが人事に連絡を入れ、退職の正式な対応はそちらで引き取ることになった。理央からの連絡は、一切なかった。


「本人の意思は固いそうです」


 人事から返ってきたのは、まるで書類に押された判子のように冷たい言葉だった。

もう彼女が顔を見せることはないという。それはつまり、昨日の「じゃあまた明日」が、最後だったということだ。


 昼休みを少し過ぎた頃、俺は山本さんに話しかけた。


「なんで、こんないきなり辞めちゃうんですかね」


 山本さんは即答しない。かくいう俺も、山本さんが答えを持っているとは、初めから思っていなかった。ただ、どこにも置き場のない感情を、誰かと少しでも分け合いたかっただけなのだ。


 しばらくして、山本さんが少し語気を強めて言った。


「知らねーよ。ていうか、退職代行とか正気かよ。使う奴って、頭のおかしい異常な人間だと思ってたけどさ。まさか、藤井がそんな奴だったとはな」


 画面を見つめたまま、彼の口調には、苛立ちとも、困惑ともつかない色が混ざっていた。悔しさなのか、寂しさなのか、それとも裏切られた気持ちなのか。本人にもきっと、まだ整理がついていないのだろう。


「……一言くらい、言ってくれてもよかったのに」


 ぽつりと漏れた俺の言葉に、星野さんは鼻で笑うように応じた。


「だよな。俺だって、あいつに三年間みっちり教えてやったんだぞ。報告・連絡・相談って、口が酸っぱくなるほど言ってきたのによ。なのに最後は、何も言わず、会社の外の人間を通して……。薄情な奴だよ、まったく」


 山本さんは、若手の教育担当だった。俺も理央も、名刺の渡し方からメールの書き方まで、彼に叩き込まれてきた。厳しいけれど面倒見がよくて、案件が終わるたびに近くの焼き鳥屋に連れていってくれた。仕事とは、結果だけじゃない。過程も、人も、大事にしろ。そう言って、ずっと俺たちを見ていてくれた人だった。


 その山本さんが、理央のいない空席をちらと見やって、また視線を画面に戻す。誰かがいなくなるというのは、こんなにも、音がないのか。ドアが閉まる音もなければ、最後の挨拶もない。ただ、空気の密度だけが少し変わって、気づくともうそこにいない。


 何もかもが、腑に落ちなかった。


 これだけ技術が発達した今でも、多くの人が会社に出向き、顔を合わせて働いている。たぶんそれは、言葉にしなければ伝わらないことが、まだこの世にはたくさん残っているからだ。困ったことも、辛いことも、正面からぶつけ合ってこそ解決するものがある。少なくとも、俺はこの三年間、そうやって社会人をやってきたつもりだった。だからこそ、理央が退職代行なんて手段を選んだことが、どうしても理解できなかった。


「ま、早川がいるなら何とかなるからな。俺たちは俺たちで、頑張ろうぜ」


 山本さんが、いつもの調子でにっと笑った。やっぱり頼れる人だ。仕事もできて、何でも丁寧に教えてくれて、まさしく目標にすべき立派な先輩。だからこそ、そんな山本さんを裏切るような形をとったことも、理央のことが理解できない理由のひとつだった。


 俺は何も言わず、ただ黙ってうなずいた。


***


 理央とは、数少ない同期の中でも、よく話す方だった。


 新人研修で隣の席になったのがきっかけだったと思う。最初は、その見た目に少し驚かされた。丸顔で、どこか少女っぽい雰囲気。けれど話してみると、芯の通ったまなざしと、遠慮のない言葉が飛び出してくる。外見とのギャップに、俺は何度も驚かされた。強気で、だけどどこか無理をしているような、それでも誰にも甘えないような、そんな理央の生き方が、いつのまにか印象に残っていた。


 何度か、二人でご飯にも行った。別に特別な関係というわけじゃなかったけれど、仕事帰りに寄ったラーメン屋や、終電近くまで話した駅前のベンチ。一つひとつが、今になって、妙に鮮明によみがえる。


 だからなのかもしれない。あまりにも静かにいなくなった理央を、俺は許せなかった。自分でも驚くほど、彼女を"連れ戻したい"と思った。


 その感情が何なのかはわからない。けれど、何もしないでいるには、あまりにも気持ちの置き場がなかった。


 他の同期を捕まえて、彼女の家の住所を聞き出すことにした。


「なんで早川に、理央の家を教えなきゃいけないのよ?」


 疑うような視線。そりゃそうだ。突然の退職、それに妙な熱のこもった俺の態度。怪しまれても仕方ない。


「いや、ほら……渡さなきゃいけない書類があってさ。山本さんとか、あと松井部長にも行けって言われてて」


 上司の名前を借りて、体裁を取り繕う。同期はしばらく無言で俺の顔を見つめていたが、最後には渋々ながら理央の住所を教えてくれた。


 仕事を終えて、夜の街を抜けて、理央のアパートへ向かった。駅から少し離れた、細い路地に建つ古びた二階建て。オートロックなどなく、共用廊下を通って、部屋の前まで行くことができた。女子の一人暮らしにしては不用心だ。でも、うちの給料じゃ、そんなものだろう。贅沢は言えない。


 部屋の前に立つと、やけに静かだった。インターホンを押す。反応はない。留守なのか、それとも無視されているのか。


 俺は仕方なくスマホを取り出して、画面をいじりながら、時間をつぶすふりをした。でもどこか落ち着かなくて、通知の文字も、アプリのアイコンも、頭の中には何一つ入ってこなかった。


「……何してるのよ、あんた」


 顔を上げると、そこに理央がいた。スーツではなかった。いつものきちんとまとめられた姿とは程遠い、くたびれたグレーのパーカーにジャージのズボン。その頬に化粧の跡はなく、髪も束ねられず、無防備なまま肩に流れていた。睨むような目つきだけが、唯一、彼女らしいと思えた。


「……は、話がしたかったんだ。ただ、それだけ。急に辞めたから、心配で」


 本音を言えば、もっと他に言いたいことがあった。でも、口に出せたのは、そんな月並みな言葉だった。


 理央はため息をついて、腕を組む。


「はあ? なんであんたに心配されなきゃいけないのよ。ていうか、どうしてうちの住所知ってるわけ?」


 その問いは当然だった。俺だって逆の立場なら怒るかもしれない。それでも、引くわけにはいかなかった。


「……それは、まあ……いいだろ。とにかくさ、俺たち同期だろ? せめて、事前に相談してくれたってよかったんじゃないか」


 理央の目が、すっと細くなった。


「そしたら、あんた絶対に止めたでしょ。私、そういう無駄なことしたくないの」


「……無駄って、おまえ、それ……ひどくないか!」


 咄嗟に声が荒くなる。怒りというより、言葉を足場にしないと、足元が崩れてしまいそうだった。


 理央は視線を逸らして、あたりをきょろきょろと見回している。


「……うるさい。近所迷惑でしょ」


 その言い方に、どこか怯えのようなものが混ざっていた気がした。一歩踏み込もうとするたび、目の前の扉がまた少しだけ固く閉じられるような感覚。


 理央は、たぶんいま、俺と距離をとることで、自分を守っているのだ。それがわかっていても、俺にはまだ諦める気にはなれなかった。


「……何か、悩んでることとか、辛かったことがあったんだろ? だったら、俺が聞くからさ。話してくれよ。きっと一緒に考えれば――今までみたいに、また働けるようになるって!」


 声が少し裏返っていた。言葉が先に転がり出て、気持ちがそれを追いかける。それでも止まれなかった。目の前で扉を閉じかけている理央に、何か、たったひとつでも届けばと思っていた。


「ちょ……なに、勝手なこと言って……」


 理央は目を見開き、言葉を詰まらせた。俺は畳みかけるようにして続ける。


「図々しいのはわかってる。でもさ、俺たち同期だろ? 最初から一緒にやってきたじゃん。困った時こそ、助け合おうって、そういうの――間違ってないだろ?」


 あまりにも拙くて、稚拙で、それでも俺の全力だった。胸の奥から引きずり出した言葉たちは、どれも頼りない。でも、その一つひとつが、理央と積み重ねてきた三年間の記憶に、どうしても背を向けたくないという気持ちだった。


 理央は小さく息をつき、またあたりを見渡した。夜の静寂は思ったよりもずっと薄くて、ふたりの会話は容易に壁を越えて届いてしまう。


「いったん、私の部屋に入って。このままだと、ほんとに苦情来るかも」


 そう言って、彼女は鍵を取り出した。俺の視線など気にするふうもなく、手慣れた仕草でドアの鍵を回す。カチャリという音が、やけに大きく響いた気がした。


 そして、理央は先に中へと入っていった。俺は、ごくりと唾を飲み込む。小さな玄関の向こうに灯る淡い照明の気配に吸い寄せられるように、無言でその後を追った。


***


「はい。茶菓子とかは特にないから」


 そう言って、理央は麦茶の入ったグラスをテーブルの上に滑らせた。俺は「ありがとう」と小さく言って腰を下ろす。


 理央の部屋は、予想よりもずっと女の子らしかった。ふわりと甘い柔軟剤の香り。カーテンは淡いピンクで、机の端にはぬいぐるみが並んでいた。きっちりしていて、強気で、隙を見せない――そんな彼女の印象とは、どこかちぐはぐな、やわらかな空間だった。


 女子の部屋に入るのなんて、いつ以来だろう。少なくとも、理央の部屋に来ることになるなんて想像すらしていなかった。そう思うと、背中にじんわりと汗が滲んでいくのがわかる。


 理央は俺の前に座ると、まっすぐにこちらを見据えて言った。


「……あのね。私は会社に戻る気なんて、さらさらないから。心配してくれてるのかもしれないけど、正直、それも迷惑なの。だから、お茶飲んだら帰って」


 言葉の一つひとつが、曖昧さを許さない硬さを帯びていた。まるで、これ以上は踏み込ませないという境界線を、自ら引いているようだった。


 でも、それで引き下がれるわけがなかった。俺がここに来たのは、ただ麦茶を飲むためじゃない。理央のなかにある何か、言葉にならずに溜まっていったものを、聞いてやりたかった。


 いや、きっと、自分でも答えがほしかったのだ。彼女がなぜ去ったのか、なぜ俺たちに何も言わず、背を向けたのか。


 グラスの水面に、自分の顔がぼんやりと映る。


「それでも、帰れないよ」


 言葉は喉の奥で引っかかりながらも、どうにかして絞り出した。


「俺は、理央の気持ちを聞きに来たんだ。逃げるように辞めてった理由を、ちゃんと知りたい」


「聞いてどうするのよ」


 理央はそう言って、グラスの縁にそっと指を滑らせた。


「何度でも言うけど、私はもう戻るつもりなんてない。だから、理由を聞いたところで意味なんかないと思う」


 声は淡々としていたが、微かにくぐもっている。それが妙に苛立ちを募らせた。


「なんで、そうなるんだよ。あんなに色んな人に世話になったじゃないか。そういうの、恩を仇で返してるって言うんじゃないのかよ」


 思わず声が上ずった。自分の中にある怒りが、どこから来ているのか、自分でもよくわからなかった。


 理央は一瞬だけまばたきをして、それからほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。


「たしかに、お世話になった部分もあるよ。感謝してないわけじゃない。でもね、そうじゃないことの方が、私には多かったの。だから、辞めることが不義理だなんて、私は思わない」


「でもさ。色んな人が、あれこれ教えてくれたじゃないか。山本さんだって、理央のこと、本当に心配してたんだぞ」


 理央の表情が、じわじわと険しくなっていくのがわかった。何かを言い返そうとして、でも言葉にならないまま飲み込んでいる。その沈黙が、何より雄弁だった。


 きっと彼女の中では、もう結論は出ているのだ。どれだけ思い出を引っ張り出しても、どれだけ過去の情に縋っても、そこには届かない。


 けれど、それでも俺は――あの日々が、全部ただの過去として片付けられてしまうのが、耐えられなかった。


 きっと理央にも理由があったのだろう。突然、何も告げずに会社を去るというのは、衝動だけでできることじゃない。それは、何かを飲み込んで、黙って耐えて、そしてようやく出した結論のはずだ。でも、それを誰にも言えなかったという、その事実こそが、きっと一番彼女を苦しめている。


 俺は、どうにかしてそこに手を伸ばしたかった。理央の中にある痛みの断片に、触れてやりたかった。


「聞いた話は、誰にも言わない。何があったのか知らないけど……こんな辞め方、やっぱり間違ってるよ。辞めるにしても、ちゃんと話をして、顔を見て、そうやって、終わらせようよ。逃げるみたいな終わり方じゃなくてさ。そうすれば、後悔も、少しはしないで済むかもしれない」


 俺は、理央の顔をじっと見つめた。反応が返ってくるまでの時間が、やけに長く感じた。その沈黙の中で、ふいに思い出が蘇る。


 事務所の片隅で、ふたりして書類の山に埋もれながらも、他愛のないことで笑い合った午後。クライアントに怒られて、帰り道で缶コーヒーを渡してくれた理央の、不器用な優しさ。その笑顔を、もう一度見られるなら、俺は何でもする。そう本気で思った。


 しばらくして、理央は深いため息をついた。


「……あんた、何か勘違いしてない?」


 その言葉は、淡々としていて、強かった。


「私が会社を辞める理由は、パワハラとセクハラよ。……あと、単純に労働条件が悪すぎるっていうのもあるけど」


 ぽつりと落とされた言葉は、麦茶のグラスよりも冷たく、底の見えない深さを孕んでいた。俺は、まるで胸の奥を素手で掴まれたように、息を飲んだ。


「……なんだって?」


 声が出ない。いや、出てはいるのだが、自分の耳にはほとんど届かなかった。


「そんなの、あるわけ……」


「あるわよ」


 理央の声が被さった。抑揚はなかったが、そこに否応なしの重みがあった。


「というか、うちの会社って、そういう人ばっかりじゃない。わかってないのは、あんたたち一部の“安全地帯”にいる人だけよ」


 その言葉が胸に突き刺さる。自分がそんな風に思われているなどと、今の今まで考えたこともなかった。


「……だったら、会社に相談すればよかったじゃないか」


 しがみつくように、そう言う。


「何度もしたわよ。松井部長にだって、もう数え切れないくらい報告した。でも、毎回握りつぶされた。“面倒ごとは起こすな”ってね。加害者に注意するどころか、私の方が“空気を読め”って叱られるのよ。会社にとって都合の悪いことは、最初からなかったことにされる。それだけ」


 言葉が、喉の奥で錆びついていく。何も言い返せなかった。


「それで、耐えかねて退職願を出した。でも、それすら受け取ってもらえなかった。

“今は人が足りないから”って、そんなのばっかり。私の気持ちなんて、一度だって聞いてくれなかった」


 理央の声は、感情を抑えていた。もうずっと怒り続けて、感情が枯渇してしまったかのように。


「……だったら……俺とか、山本さんとかに相談してくれれば、何とかなったかもしれないじゃないか」


 言い終えた瞬間、理央が大きく、今日一番深いため息をついた。


「――あのね」


 一拍置いて、彼女はまっすぐに俺を見た。その目はただ、伝えるべき言葉を機械のように吐き出すためだけに開かれていた。


「私にパワハラとセクハラをしていた“張本人”が……山本さんなのよ」


 時が止まったような気がした。視界が、ぐにゃりと歪んだ。喉がからからに乾いて、言葉も、呼吸も、どこかに置き去りにされたままだった。


 山本さんが――? あの、誰よりも面倒見がよくて、理央の成長を誰よりも喜んでくれていたように見えた人が?


 目の前の現実が、音もなく崩れていく。


「あんたも見てたでしょ。私が、大勢の前で怒鳴られてた時。みんなの前で、仕事のミスでもない些細なことで吊し上げられて。なのに、誰も何も言わなかった。あんたも、そうだった」


 その視線はまっすぐで、逃げ場を与えてくれなかった。


「それだけじゃない。送られてくるメールの端々には、ねちねちとした嫌味や、人格を否定する言葉が散りばめられてて……。毎朝、メールを開くのが怖かった。文字のひとつひとつが、心を刺してくるみたいだった」


 俺は、言葉を失ったまま、理央の言葉をただ受け止めるしかなかった。言い訳も、疑問も、口に出すことができない。


「それなのに、仕事が終われば“お疲れ”なんて笑いながら、当然のように飲みに誘ってきて……。断れば機嫌が悪くなるから仕方なく行ってたけど、二軒目は毎回カラオケで、暗い個室で、隣に座って、勝手に肩を抱いたり、腰に手を回したり。笑ってごまかすしかなかったけど、心の中ではずっと、気持ち悪いって思ってた。あんたが見ていた“いい先輩”は、私にとってはただの加害者だったのよ」


 理央の声は静かだった。静かだったからこそ、その奥に押し込められた感情の重みが、ひしひしと伝わってくる。怒り、悔しさ、孤独、そして――諦め。


「だからね。私、もうあんな会社に、恩義なんて微塵も感じてないの。やっと抜け出せたのに、なんで今さら“戻れ”なんて言われなきゃいけないの?」


 俺は何も言えなかった。


 自分が何も知らなかったこと。見えているつもりで、何一つ見ていなかったこと。

傍にいるつもりで、誰よりも遠くにいたということ。


「あんたも大概よ。変な気でも起こしていたのか知らないけれど、何度も、何度もしつこくご飯に誘ってきてさ。そのたびに“同期だし”とか“たまには息抜きしようよ”とか、もっともらしい理由つけて。でもね、あれ、正直ぜんぶ鬱陶しかった」


 心臓を指先で掴まれたような感覚が走った。そんなつもりじゃなかった――でも、そんな言い訳が通じる空気じゃないことは、すぐにわかった。


「で、今日だってそう。何で私の家まで来るのよ? 勝手に住所調べて、勝手に来て。普通に考えて、ストーカーでしょ、それって」


 言葉の刃が、容赦なく突き刺さる。それは大声でも、怒鳴り声でもなかった。ただ静かに、確信をもって告げられるだけの――拒絶だった。


 俺は、言葉を失っていた。いや、もう返す言葉を持ってすらいなかった。


 麦茶の氷が、小さくカランと鳴る。理央の部屋に流れる空気は、もうずっと前から、ひとつの結論へ向かって冷えきっていたのだ。


「で、でも……それでもさ、理央」


 俺は苦し紛れに言葉を探し、喉の奥からどうにか押し出す。


「だからって……あんなやり方で、突然、会社を辞めるなんて……やっぱり、おかしいよ……」


 声に力はなかった。正論のように見せかけたその言葉は、どこか空虚で、頼りなかった。


「……なによそれ。“正しく辞めろ”って言いたいの?会社のルールに則って、上司に頭を下げて、退職願いを提出して、送別会で花束もらって――そういう“まとも”な辞め方じゃないと納得できないってこと?」


 理央は、あきれたように小さく鼻を鳴らした。


「その理屈が通じるのはね、相手も人の言葉を聞く余地がある場合だけよ。私は何度も話した。説明もした。お願いもした。でも、全部無視されたの。だったら、こんなやり方をとるしかないじゃない」


 俺は黙り込んだまま動けない。代わりに、理央が言葉を重ねる。


「どうせ“退職代行”って言葉に、条件反射で嫌悪感持ったんでしょ。会社への忠誠を裏切るもの、非常識な選択、卑怯な逃げ道。そう思いたいだけじゃないの? でもね、それって結局、弱者の選択肢を奪うことなんだよ。自分で声をあげられない、あげても握り潰される、そんな立場の人間が、自分を守るために放つ、有効な一手がこれだったってだけ。それの何が悪いの?」


 答えは返せなかった。ただ、自分の浅はかさを突きつけられた、それだけだった。


「……あんな会社、異常よ」


 理央は、ぽつりと吐き捨てるように言う。


「そこに平気な顔して通ってる人たちも。何事もないふりして、黙って、見て見ぬふりして。異常を見慣れて、“日常”にすり替えてる。あなたもそう。その中に、無自覚のまま埋まってる。……異常を煮詰めて、濃縮して、その中で呼吸してる」


 俺は、もう何も言えなかった。理央の言葉はすべて、真っ直ぐに俺の中の甘さや無知を撃ち抜いていた。何かを言い返す資格なんて、とうに失っていた。


 気づけば、立ち上がっていた。理央が玄関まで歩き、扉の前に立つ。開かれた玄関を出た、そのすぐ後ろで、扉が勢いよく閉まる音が響いた。それきり、世界は静かになった。


 一歩ずつ、夜の歩道を歩いていく。靴底がアスファルトを踏む音だけがやけに大きく響く。


 誰かを理解したつもりでいた傲慢さと、何も知らなかったという無力さが、足取りを鈍らせた。


 灯りはあっても、道は暗かった。


***


 翌日も、現実はほとんど変わっていなかった。朝の通勤電車の混み具合も、エレベーターの鈍い上昇音も。全てが、いつもと同じように流れていた。ただ、一つを除いて。


 理央が座っていた席が、綺麗に片付けられていた。


 デスクの上に置かれていた文房具や付箋、彼女が好んでいた小さなマグカップさえ、跡形もなく消えていた。そこにあったのは、ただの「机」だった。まるで最初から誰も使っていなかったかのような、無表情な天板と椅子だけが、取り残されるように存在していた。


 それが、ひどく異物に見えた。


 隣には、山本さんがいた。パソコンのモニターをじっと見つめているが、目はまるで光を失ったように沈んでいた。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのかもわからない。


 それもいつも通りだった。どこかが確実に壊れているのに、誰も気づかないふりをして、何事もなかったように過ごしている――そんな、異常な日常が、今日もまた始まる。


 無機質な白の端末に社員証をかざすと、「ピッ」という冴えない音が事務的に空気を裂いた。

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