第9話 饅頭の夜

哲也は、社の中央に敷かれた座布団にそっと腰を下ろした。

 その瞬間、風が止んだ。音が消えた。世界から、自分だけが切り取られたような静寂。

 前に広がるのは、闇。

 けれど、その奥には、確かに“観客”がいた。

 輪郭も目もない。ただ、白く膨らんだ“顔”。饅頭の顔をした何かたちが、ずらりと並んでこちらを見つめている。

 哲也は、喉の奥に詰まった何かを押し流すように、口を開いた。

 「えー……今日は一席、『饅頭こわい』を……」

 言葉が、かすれた。

 喉が、震える。

 けれど、逃げなかった。

 

* * *

 

 「男は言いました。“俺が一番怖いのは……饅頭だ”」

 扇子を静かに開く。動作が、わずかに震えていた。

 「みんな、笑いました。“饅頭が怖いなんて、バカだな”“変わってんなあ”って。だけど、男は本当に怖かったんです」

 観客の気配が、ざわりと揺れる。

 饅頭たちの目が、哲也の中を覗き込むように、じっと向けられていた。

 「昔は、好きだったんですよ。饅頭。甘くて、柔らかくて……。母親がよく買ってきてくれた。でも、ある日……あの日。あれを見てから、饅頭が怖くなった」

 自分でも気づかぬうちに、哲也の声に熱がこもっていた。

 「でも、誰も信じてくれない。“そんなもん、笑えるよ”って。“面白いじゃん”って。……笑えるかよ。怖いんだよ。ほんとうに怖いもんを笑われたら、どうしたらいいかわかんなくなるだろ」

 

* * *

 

 その瞬間——哲也自身の記憶が、呼び覚まされる。

 あの春の高座。

 頭が真っ白になった瞬間。誰も笑ってくれなかった。

 自分のすべてを否定されたような、あの絶望。

 それを、“たいしたことない”と言われた。

 “天才だろ、お前?”と。

 哲也は、苦笑した。

 「男は思った。自分の怖さなんて、誰にも理解されないんだって。だから、強がった。“ああ、怖いよ、怖いよ、饅頭が一番怖いんだ”って。面白がられるために、自分を売った。そして、本気で怖がってみせた。だって、本当に怖いんだから。笑いたいなら笑ったらいいさ。」

 饅頭の顔たちは、笑っていない。

 それどころか——泣いているように見えた。

 

* * *

 

 「その夜、まわりの男たちは、その男が寝た後、男の部屋に入り、枕元に、山ほどの饅頭を置いたんです。男が起きて怖さにおののく姿を見てやろうと、いたずらでね。」

 哲也の声が、少しだけ掠れた。

 「寝ていた男は、枕元の甘い匂いに驚き、目が覚めた。山ほどの饅頭。目がくらむ。恐怖で声も出ない。でも、分かったんです。隣の部屋で人の気配がする。”さっきのやつらが、おれの怖がる姿を楽しみに待ってやがる。畜生ッ。”」

 

* * *

 

思い出す。もう一度高座に上がろうとしたときの観客の視線。

 "あいつ、また、失敗するんじゃないか?"

 嘲笑にも似たなんとも言えない、足の底から力を吸い取られる感覚。しかし、今はダメだ。強がりでもいい。語れ。食え!

「食べた。怖くて怖くて仕方なかったけど、全部、食べた。“怖がってなんかねえ”って顔をして。……それは、自分の中の怖さと、好きだった記憶を、もう一度確かめたかったからなんです」

 扇子をそっと膝に置き、手を重ねた。

 「甘いのか、苦いのか、もうわかんなかった。……ただ、口の中いっぱいに、あの味が広がって……」

 喉の奥が、震えた。

 それでも語った。

 「食べ終わったとき、周りの男が聞くんです。『おまえ、本当は何が怖いんだ!』って。そして、男は言った。“ああ、今度は熱いお茶が怖い”って。精一杯の強がりでね。笑い話に変えてやったんだ。本当に怖いんだよ。饅頭がさ。」

 

* * *

 

 沈黙。

 けれど、その沈黙の中に、哲也は確かに笑いを感じた。

 それは、観客の笑いではない。

 自分自身の中から漏れた、涙混じりの笑いだった。

 「笑ってたんだよ。男は。“俺、怖いけど、食べてやったぞ”って。……それは、精一杯の強がりで、精一杯の“語り”だった」

 闇の中、饅頭たちが、ゆっくりと笑った。

 その笑みは、かつての哲也に向けられたものと、

 今この場で語っている“語り手”への、赦しのようにも思えた。

 

* * *

 

 哲也は深く、深く頭を下げた。

 「……ご清聴、ありがとうございました」

 

 ——その瞬間。

 闇が、砕けた。

 森に風が戻り、水音が消えた。

 夜が、ただの夜に戻った。

 遠く、沙耶の泣き声が聞こえた。

 哲也の頬にも、温かい涙が流れていた。

 それが、甘いのか、苦いのか。わからなかった。

 ただ一つわかっていたのは——

 語れた。

 自分の言葉で、自分の恐怖を、語って笑わせられた。

 それこそが、彼の落語だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本当に怖い饅頭怖い 盛運院 @bigbus_infi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ