第5話お仕置き
「だから、今すぐ動くべきなんです! あの子は……もう限界なんですよ!」
高橋明日香の声が、公園の片隅で静かに響いた。児童相談員の佐々木は腕を組み、難しい顔で黙っていた。
「気持ちは分かります。でも、正式な手続きが必要なんです。勝手に引き離せばこちらが不当介入と訴えられる恐れもある」
「でも、沙耶ちゃんが……。あの子の目を見たこと、ありますか?」
佐々木は目を伏せた。彼も分かっている。ただ、制度の中で動かなければならないということも、痛いほど分かっていた。
その頃、沙耶と誠は、午後の陽ざしがやわらかく差し込む公園やって来ていた。ブランコの軋む音と、小鳥のさえずりが、風に乗って静かに響いていた。
沙耶は、一人で滑り台の階段を登っていた。木漏れ日の中で、その小さな背中は、どこか頼りなく見えた。
ベンチには誠が座り、スマートフォンを弄っている。時折、目を上げて娘の姿を確認するが、その眼差しには、以前のような厳しさも、優しさもなかった。
沙耶の足が滑り台のてっぺんで止まる。滑るでもなく、降りるでもなく、ただ静かに、父の方を見ていた。
その時、誠の隣に一人の女性が現れた。春らしい薄手のワンピースを身にまとい、にこやかに誠に近づく。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」
「いや、私達も今来た所だよ」
誠が立ち上がり、その女性と自然に並ぶ。まるで、昔からそこにいたかのような親しげな空気が、沙耶の胸を締めつけた。
滑り台から駆け下りてきた沙耶が、おずおずと尋ねる。
「……この人、だれ?」
誠は、笑って答えた。
「今日、紹介しようと思ってたんだ。……新しいお母さんになる人だよ」
その言葉が、沙耶の耳に落ちた瞬間、世界がふっと静まり返った。
それは、風の音も、遊具の軋む音も、消えてしまうほどの衝撃だった。
沙耶の目は、女性の笑顔に釘づけになった。その笑顔が、なぜかお母さんの笑顔と重なって見えてしまった。けれど、それはまるで、絵本の中のにせもののようだった。色も匂いも温度もない、ただ表面だけをなぞったような笑顔。
胸の奥に何かが崩れる音がした。サクサクと、雪の上を誰かが歩いているような、静かで冷たい音。
お父さんなんで…沙耶の心の声がこだまする。
父の横に立つその人は、まるで何も奪っていないかのような顔をしていた。何も壊していない、何も踏みにじっていないとでも言いたげに、明るい声で沙耶の名前を呼んだ。
その瞬間、沙耶の心の中にあった「お母さんの場所」が、バリバリと音を立てて崩れた。
世界が、終わった。そう感じた。
陽ざしのぬくもりも、空の青さも、もう沙耶には関係なかった。まるで、ガラスの箱の中に閉じ込められたようだった。外の音が届かず、自分の声も外に出ていかない。誰も、沙耶の悲鳴に気づかない。
そのあとは、カフェでお茶をしたり、ショッピングモールで三人で歩いたりした。女性は沙耶に服やお菓子を買ってくれたし、終始やさしく声をかけてくれた。
だが——沙耶の耳には、何も入ってこなかった。
沙耶の小さな心は、その時もう、ぽっきりと折れていた。
まるで水の中にいるような感覚。父の声も、女性の声も、モールのざわめきも、遠くで誰かが話しているだけだった。
帰宅後、沙耶はすぐに自室へこもった。
部屋の隅に置かれたぬいぐるみに向かって、ぽつりと呟く。
「……お母さん……ごめんなさい……」
真夜中。時計は午前一時を過ぎていた。
誰もいない暗い台所で、沙耶は冷たい床に膝をついていた。背中は小刻みに震えている。足元には、お母さんの遺影の写真があった。
——お母さんのために、悪い子にならないようにしてた。ちゃんと我慢してたのに。
「なんで……なんで……お母さん、いなくなったのに……なんで……」
ぽろぽろと涙がこぼれる。
「天国で……お母さん、泣いちゃってるよ……」
そのとき、沙耶の手が引き出しに伸びた。
カチャリ、と音がした。
取り出されたのは、台所の包丁。
「悪い子は、お仕置きだよね?」
その言葉が、頭の中で何度もこだまする。
「お仕置きだ……お仕置きだ……お仕置きだ……」
足音も立てず、沙耶は父の寝室へ向かう。
扉を開けると、誠がベッドで寝息を立てていた。
一歩、また一歩と近づく。
沙耶の唇が震えた。
「お仕置きだ……」
次の瞬間——
ザシュ。
そして、何度も。
「お仕置きだ……お仕置きだ……お仕置きだ……!」
何度目かの刃が振り下ろされたあと、包丁がカランと音を立てて床に転がった。
その音は、まるで何かが終わったことを告げる鐘のように、台所の空気に重く響いた。
父の体は、もう動かない。赤い液体が静かに広がっていく。その中心に、沙耶は膝をついていた。
小さな手には、血のぬくもりがじんわりと残っていた。でも、それが誰のものなのか、もう考えられなかった。ただ、ずっと震えていた。寒くもないのに、体の奥からぶるぶると震えが止まらなかった。
沙耶は、その上に力なくのしかかり、まるで何かに縋るように、父の胸に顔をうずめた。
「……なんで……」
声にならない声が唇からこぼれる。涙は出なかった。出るはずもなかった。涙はもう、ずっと前に枯れていたから。
心の奥では、何かが凍っていた。冷たく、硬く、二度と動かない何かが。
「……これで、お母さん……泣かなくてすむ?」
呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。天井を見つめるように、どこか遠くを見つめながら、沙耶はぽつりと呟いた。
頬に何かが触れた。それが父の血なのか、汗なのか、自分の涙なのか、沙耶にはもう分からなかった。
時間だけが、静かに流れていた。
——そのとき。
高橋明日香のスマートフォンが鳴った。
真夜中の無言電話。相手は沙耶だった。
「……沙耶ちゃん?」
返事はない。けれど、明日香の胸に、何か重たい不安がこみ上げてきた。
急いで身支度をし、タクシーで沙耶の家へ向かう。
玄関を開けた瞬間、異様な空気が明日香を包んだ。血のにおいが、廊下に立ちこめている。
寝室のドアを開けると——
生ぬるい鉄の匂いが、ふわりと鼻をついた。
月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、赤黒い染みがじゅくじゅくと広がっていた。その中心に、小さな影がじっと座っている。
沙耶だった。
彼女は、血まみれの父の上に乗っていた。白いワンピースは紅に染まり、手も、顔も、血で濡れていた。
その小さな背中が、かすかに上下している。
高橋の足が、その場に凍りついたように止まった。
そして——
沙耶の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
目が合った瞬間、ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
その顔に、恐怖も、後悔も、罪悪感もなかった。ただ、どこか遠い世界を見ているような、ぽかんとした表情。けれど、その目の奥には、壊れてしまった少女の哀しみが、深く沈んでいた。
「先生……来てくれたんだね」
弱々しく、それでも確かに届く声。
高橋は、口を開こうとして、言葉が出なかった。
「……先生、沙耶……いい子になれたよね……?」
その唇がゆっくりと歪む。
笑っていた。
でもその笑顔は、まるで仮面を貼りつけたように不自然で、ぎこちなくて——あまりにも、いびつな笑顔だった。
いびつな笑顔 ikki @Adgjkl33
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます