第4話 雨の記憶


雨の音が、窓を打ちつける。

リビングの仏壇の前で、誠は膝をついていた。真理子の遺影に向かって、手を合わせる。


「真理子...私は間違っていないよな...」


問いかけに、答えはない。ただ、過去の記憶が鮮明に蘇ってくる。


---


三年前。俺たちは幸せな三人家族だった。


「パパ、ちょっと見てよ!沙耶ちゃん、ひらがな書けるようになったの!」


真理子が興奮した声で呼ぶ。リビングのテーブルで、四歳の沙耶が一生懸命鉛筆を握っていた。


「どれどれ」


俺は沙耶の横に座り、紙を覗き込んだ。「さや」と書かれている。少しゆがんだ文字だが、確かに読める。


「すごいじゃないか!」


俺は沙耶の頭を撫でた。沙耶は嬉しそうに笑う。


「ママに教えてもらったの」

「そうか。ママはすごいな」


俺は真理子を見た。彼女も笑っていた。日差しが差し込むリビングで、真理子の笑顔が眩しかった。


「今度は『まりこ』って書けるように教えるね」


真理子が沙耶に言った。沙耶は大きく頷いた。


そんな日々が、いつまでも続くと思っていた。


---


「パパ?、ちょっといい?」


医師の声が重い。真理子の検査結果は最悪だった。進行性の難病。治療法はある。しかし、完治は難しい。


「どのくらい...?」


俺の声は震えていた。


「正確には言えませんが...一年、持つかどうか...」


俺は崩れ落ちそうになった。真理子が入院している部屋の前の廊下。沙耶は病院の中庭で看護師と一緒に花を摘んでいる。


「治療は?」

「もちろん最善を尽くします。ですが...」


医師は言葉を選びながら説明を続けた。俺は頭の中が真っ白になった。


病室に戻ると、真理子はベッドで窓の外を見ていた。俺の足音に気づき、振り返る。


「先生から聞いた?」


真理子の声は静かだった。俺は何も言えず、ただ頷いた。


「パパ...」


真理子が手を伸ばした。俺はその手を握り、ベッドに膝をついた。


「どうして...どうして君なんだ...」


涙があふれ出た。真理子の手を握る俺の手は震えていた。


「パパ…泣かないで」


真理子は俺の頭を優しく撫でた。それなのに、俺は泣き続けた。


「私がいなくなったら、どうすればいいんだ...」

「そんなこと言わないで」


真理子の声は病人とは思えないぐらい力強く感じた。俺は顔を上げ真理子を見ると泣いていなかった。強い目で俺を見つめていた。


「沙耶がいるでしょ。あなたには、沙耶がいる」

「でも...」

「沙耶をちゃんと育ててね。約束して」


真理子はそう言って、微笑んだ。その笑顔に、俺は言葉を失った。


「お父さん、お母さん、見て見て!」


部屋のドアが開き、沙耶が入ってきた。小さな手には、黄色い花の束。


「わあ、きれいね!」


真理子は嬉しそうに声を上げた。俺は急いで涙を拭った。


「ママにあげる!」


沙耶は真理子にそっと花を渡した。真理子はそれを受け取り、沙耶を抱きしめた。


「ありがとう。大切にするね」


その光景を見ながら、俺は決意した。真理子がどうなっても、沙耶を守る。沙耶を幸せにする。それが、俺にできる唯一のことだった。


---


あれから一年。真理子は懸命に闘った。しかし、病魔には勝てなかった。


春の雨が降る日、真理子は静かに息を引き取った。沙耶は五歳になったばかりだった。


葬式の日も雨だった。黒い傘の群れの中で、沙耶は俺の手をぎゅっと握っていた。小さな黒い服を着た沙耶は、真理子が眠る棺を不思議そうに見つめていた。


「ママ、起きないの?」


沙耶の問いに、俺は答えられなかった。ただ沙耶の手をもっと強く握った。


式の後、親族が集まっていた。


「沙耶ちゃんのことは、どうするの?」


真理子の母が言った。


「私が育てます」


俺は膝をついて正座した。雨に濡れた地面が冷たかった。


「一人で?仕事はどうするの?」

「なんとかします」

「無理よ。女の子なのよ」

「沙耶ちゃんは私たちが引き取るわよ...」


親族たちの声が雨音に混じって聞こえる。俺は膝の上で拳を握りしめた。爪が肉に食い込む痛みで、涙を堪えた。


「私が責任を持って育てます」


俺は強く言った。震える声を必死に押さえて。


俺の横で、沙耶がそっと服の裾を掴んだ。顔を上げると、沙耶が不安そうに俺を見ていた。


「お父さん?...」


その小さな声に、俺は決意を新たにした。


「沙耶は、俺が育てる。真理子との約束だ」


---


あれから一年。俺は沙耶を必死に育ててきた。


仕事を調整し、早く帰れるようにした。料理を覚え、沙耶の好物を作れるようになった。洗濯、掃除、すべて真理子がやっていたことを引き継いだ。


しかし、それだけでは足りないと思った。真理子がいない分、沙耶には二倍、いや三倍の教育が必要だ。そう思い込んでいた。


「お父さん、遊びに行っていい?」

「宿題は終わったのか?」

「まだ...」

「じゃあ、ダメだ。宿題が終わってからにしなさい」


こんな会話が増えていった。俺は沙耶に厳しくなった。将来のため、真理子がいない分を埋めるため、と自分に言い聞かせていた。


そして今、沙耶は部屋にこもるようになった。笑顔が消え、俺との会話も減った。


「俺は間違っているのか?」


仏壇の前で、再び問いかける。真理子の写真は答えない。


「パパ...」


沙耶の声がした。振り返ると、沙耶が部屋の入り口に立っていた。


「なに?ドリルは終わったのか?」

「うん...でも...」


沙耶は何か言いたそうに俺を見ていた。


「でも?」

「ママに...会いたい...」


その言葉に、俺の胸が締め付けられた。沙耶の目に涙が浮かんでいた。


「こっちにおいで」


俺は腕を広げた。沙耶は走ってきて、俺にしがみついた。小さな体が震えている。


「お母さんはね、いつも見てるよ」

「ホント...?」

「ああ。ここにいるんだだからちゃんといい子にしないとな…お母さんの為に…」


俺は仏壇を指さした。


「一緒に手を合わせよう」


沙耶と一緒に手を合わせる。沙耶は真剣な顔で目を閉じた。


「ママ、見てる?沙耶は頑張ってるよ。」


俺は言葉に詰まった。沙耶が俺を見上げた。


「お父さんも頑張ってるよ」


沙耶がそう言った。俺は沙耶を見つめ返した。


「そうか?パパ、厳しいだろう?」

「うん...でも、パパは寂しいんだよね?」


沙耶は真剣な顔で言った。俺は沙耶をぎゅっと抱きしめた


「明日から公園で遊ぼうか」

「いいの?」

「ああ。宿題は...遊んだ後にやればいい」


沙耶の目が丸くなった。


「いいの?」

「いや、ちゃんとやろうな。でも、合わせたい人もいるからな」

「?」


沙耶は、首を傾げる、誠は沙耶の頭を撫でた。沙耶は久しぶりに笑った。その笑顔は、真理子にそっくりだった。


「ママも喜ぶよね?」

「ああ、きっと喜んでくれるよ」


俺たちは再び仏壇に向かい、手を合わせた。雨は止んでいた。窓の外から、かすかに夕日が差し込んでいる。


「私たち、幸せになれるよね?」


沙耶の問いに、俺は迷わず答えた。


「ああ、きっとなれる」


真理子の写真が、優しく微笑んでいるように見えた。


---


その夜、沙耶は、安心したように眠った。


「俺たちは、きっと幸せになる。約束するよ」


窓の外では、星が輝き始めていた。雨は完全に上がっていた。


「ありがとう、真理子」


心の中で、真理子の笑顔が浮かんだ。


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