小さな切り傷
4月の暖かい日の光が差し込む名北中学校の関係者用駐車場。
そこに停めた車内で僕は三十分前から待機しながら、全身をよどんだ澱のようなものが包んでいるのを感じつつ、バッグからウェットシートを取り出し顔を拭いた。
運転中に居眠りなんかしたら大変だ……
だが、そんな気持ちと裏腹に気を抜くと意識が飛びそうになる。
参ったな……
昨夜は涼香のスケジュールの確認や、テレビ局への連絡なんかがかなり立て込んでしまった。
だけどまだ自分なんていい方だ。
子役ともいえる年齢の涼香と他3名の担当程度なのだから。
これが他の……例えば大手の芸能事務所みたいにある程度売れているタレントを何十名となったら、撮影も深夜に及ぶ。
マネジャーに最も求められる才能は体力、と言うがさもありなんだ。
そして次が精神力なのは言うまでもない。
さて、そろそろかな……
顔を拭いて少しスッキリした顔を両手でこすると、車を出て校舎へ向かう。
タイミングはバッチリだった。
着いてから数分で生徒たちが出てきて、その中のひときわ大人数の集団の笑い声の中心に涼香が見えた。
この中学校は芸能コースもある芸能人ご用達の学校なので、生徒も容姿端麗な子が多いが、その中でも涼香の儚げだが愛嬌もある美貌は際立っていた。
そして、実績もトップクラスなのだから自然と取り巻きも増える。
まあそのほとんど……いや、ほぼ全員があわよくば涼香に、どこかのテレビや雑誌で自分の名前を「仲良しの子」として出してもらって、おこぼれの出演を狙おうという営業活動目的なのだが……
涼香は全員を均等に見つつ話をしていたが、僕の顔を見るとパッと顔を輝かせて手を振った。
「塚本さん!」
僕も涼香に手を振り返す。
すると周囲の取り巻きの子達がにわかにざわつく。
「え! 涼香ちゃん、あの人誰? すっごいイケメン」
「いいな~あんないい感じの人に迎えに来てもらえて! お兄ちゃん? うわ……私もあんなお兄ちゃんが良かった……」
その声を聞きながら僕は内心苦笑いをした。
自分がどう贔屓目に見ても「イケメン」と言われる人種じゃない事は分かっているし、あの子たちほどの美少女ぞろいのなかで「いい感じの異性」にはまず引っかからない事も知っている。
ならなぜか?
答えは、あの子達は僕が涼香のマネジャーである事を知っているからだ。
そして、涼香が僕を恐らくビジネスパートナーとして表面上だろうが慕っている事も。
そして、僕はまずその見込みはないが、マネジャーは担当が芸能界に置いて序列が上がると、それに伴い業界内での地位が上がることがあるからだ。
そうなった時のいわば「保険」。
その時に顔を覚えてもらえてれば……いや、正しくはその時に嫌われていたなら、どれほどのリスクが襲ってくるか知っているからだ。
もちろん、それは担当タレントがそのマネジャーを絶対的に慕い、その人に一心同体といえるほどついていくならの話だが。
だが、そんな事はまずありえない。
マネジャーも芸能事務所の営業職に過ぎない。
事務所の商品であるタレントとは、近いようで遠い。
涼香は取り巻きの子達に頭を下げて離れると、僕のところに駆け寄ってくる。
「お疲れ様です。学校、どうでしたか?」
「今日もお陰さまで平和でした。すっごい楽しかったです」
「なら良かった。じゃあ行きましょうか」
涼香はうなずくと、口々に声をかけてくる取り巻きの子達に手を振って歩き出した。
●○●○●○●○●○●○●○●○
「今日はこの後事務所に戻って社長と面談を行い、17時から19時半まで『少女よ、鬼となれ』の本読みが入ってます」
「了解です。そっちはもう覚えちゃったから、今日は大丈夫かな……社長、早く切り上げてくれるといいんですけど」
「いつも長いですもんね、あの人」
そう言うと、鈴鹿はイタズラっぽい笑顔で言った。
「いいんですか? 社長に言っちゃいますよ」
「え!? いや……」
いつもの冗談だろうな、と思いながらも口ごもると、涼香はクスクス笑いながら言った。
「冗談です。すぐ騙される」
一瞬焦ったけど、涼香は本当に楽しんでるっぽかったので、ホッとして僕も笑顔になる。
「すいません。昔からこうで……」
「もっとずるくならなきゃ。でないと、悪い奴に利用されちゃいますよ。……私みたいな」
……これは笑うところなのか!?
焦りながら、僕は曖昧な笑顔を浮かべることにした。
もっと分かりやすくしてくれよ……
●○●○●○●○●○●○●○●○
「あっ、涼香! 学校お疲れ様。今日はどうだった?」
我が事務所「クイーンズ・アベニュー」の
「はい、お陰さまで今日も楽しく過ごせました」
「なら良かった。今からお仕事なんだよね? いつも有難う、お疲れ様だけど無理し内容にね」
「はい、社長や塚本マネジャーのためにも体調管理とお仕事のクオリティはバッチリにしますので」
その言葉にウンウンと頷くと、涼香の背中を優しく撫でる。
佐々木社長は元々某アイドルグループのメンバーだったが、グループ自体がパッとせず数年で解散。
その後、知り合いの社長と今のクイーンズ・アベニューの前身の事務所を立ち上げた。
いまや業界内では公然の秘密となっているが、同性愛者である佐々木社長は自らが専務となると、ティーンの少女のみを集めた事務所へ方針転換し、社名も変更し病死した前社長に代わり自らが社長となった。
そんな中で最初に発掘したのが涼香だった。
普通の少女だった涼香の髪型や服装、立ち居振る舞いまで徹底的に教育し、不眠不休で売り出しに駆け回り、時には表ざたには出来ない事も行いながら涼香を駆け上がらせた。
その後も社長は自ら数十名を発掘しているが、中々涼香ほどの人気には至っていない。
それでも一発ヒットを当てれば御の字の業界にあって、涼香ほどの当たりはもはや充分すぎるほど。
そのため、社長の涼香への思い入れは尋常ではない。
「お願いね。あなたに何か会ったら私、おしまいだから。……塚本君もお願いね、彼女をしっかり支えてあげて」
社長の射抜くような目に心臓の鼓動が酷くなるのを感じながら僕は頷いた。
●○●○●○●○●○●○●○●○
その後涼香と社長が応接室で面談をしている間、僕は休憩がてら缶コーヒーを飲みながら少し離れたリフレッシュスペースの椅子に座って、ぼんやりと高層階からの景色を眺めていた。
この景色は僕のお気に入りだった。
涼香と社長は三十分ほど話すと言ってたから、もう二十分はゆっくり出来るな。
僕はコーヒーを飲みつつスマホをボンヤリと見ていると、急に耳たぶを触られて驚いて振り向いた。
「ふふっ、ぼんやりしすぎ」
そこには同じ営業部のマネジャーである
そして、彼女とは密かに付き合い出して二年になる。
うちの事務所はマネジャーの社内恋愛は禁止だ。
もしばれたら著しい減給やいわゆる窓際部署への放逐が待っている。
なぜここまで厳しいかと言うと、所属事務所とタレントとの契約の中に「恋愛禁止条項」が盛り込まれており、法的有効性には乏しいがタレントにとっての枷となっている。
そんな中で最も身近で支えるべきマネジャーが率先して恋愛をするのは、タレントのメンタルに良くない、と言うこと。
思う所はあるが、社での決まりは仕方ない。
美雪は少し離れた所に座ると、周囲を見回して言った。
「大丈夫? 昨日はちゃんと寝れた?」
「う~ん、あんまり。でもしょうがないよ。今日は瀬名さん、ドラマの本読みだけだから、夜はゆっくり出来ると思う」
「なら良かった。私も今夜は空いてるから……ね?」
僕は笑顔で頷く。
前回は涼香のきまぐれでパアになったけど、今回こそは……
そう思っていた時に、ふと美雪の右手の甲が赤くなっているのが見えた。
「どうした……それ?」
「あ、テレビ局の大道具で切っちゃったの。絵里ちゃんがうっかり引っ掛けちゃって、倒れそうになったから焦って支えたら……」
「大丈夫か。結構血が出てるぞ」
「うん、でもこの後も香苗ちゃんの雑誌撮影あるから……」
僕は周囲を再度注意深く見回して誰も居ない事を確認すると、バッグからガーゼと消毒液を取り出して美雪の隣に座った。
「手、出して」
そう言うと、彼女の手の傷の手当を始める。
「いいよ……見られたら……」
「その時は手当てしてた、って言うよ」
美雪にはいつも寂しい思いばかりだったので、せめてもの埋め合わせのつもりだった。
この程度じゃ埋められるものじゃないけど……
そして、数分で手当てを終わると美雪の手を再度確認する。
「これでオッケー。でも傷、結構深かったから時間出来たら病院行けよ」
「うん……ありがとう」
頬を赤らめながら俯いてお礼を言う美雪を僕は愛おしさを感じつつ見ていたが、背後から聞こえた声に心臓が止まりそうになった。
「何されてるんですか?」
慌てて振り向くと、そこにはキョトンとした表情の涼香が立っていた。
嘘だろ、もう二十分は面談じゃ……
僕は慌てて笑顔を作るとさりげない風に言った。
「瀬能マネジャーがスタジオの大道具で手を怪我したらしくて。彼女、この後も仕事があるので急遽手当てを」
まさか今の会話聞かれてなかっただろうな……
スーツの下に多量の冷や汗を流しながら、自然に美雪から離れると涼香は心配そうな表情で言った。
「嘘……瀬能さん、大丈夫ですか! うわ……結構なお怪我だったんですね……」
「あ、いえ……塚本マネジャーの手当てのお陰でもう……有難うございます」
そう言って美雪は僕から離れた。
「ただ……すいません、瀬能マネジャー。手当てとは言え、近づきすぎました。今後は気をつけます」
「くれぐれもお願いします。まだ事務所内だから良かったけど……」
美雪も僕の芝居に合わせた。
そんな僕らを見て、涼香は不満そうに唇を尖らせた。
「それ、どうかと思いますよ。確かに私たちは誤解される振る舞いは厳禁だけど、お二人は一般の方じゃないですか? 怪我の手当て程度……やましい事してるわけでもないのに」
「有難うございます。でも……気をつけます」
僕らは涼香に頭を下げた。
「本当にいいんですよ。ところで……塚本さん、怪我の手当てもお上手なんですね。ビックリしちゃった」
●○●○●○●○●○●○●○●○
その数日後。
この日は学校を休んで朝からドラマの撮影だったが、涼香の撮影分が終わり戻ってきた彼女はしきりに足元を見ていた。
「どうしました?」
「う……ん、何か足に……でも、大丈夫です。車。行きましょう」
何故か急いでいる様子の彼女に戸惑いを感じながら、僕は涼香と共に社用者に戻った。
そして駐車場に着くと、奥のほうから「涼香ちゃん!」と女の子の声が聞こえた。
「あ、絵里ちゃん」
涼香はうれしそうに答える。
涼香の翌年に事務所に入った子で、同じく女優志望だが、涼香と違って端役が多く涼香のバーター(抱き合わせの出演)で出ることも多い。
そして隣には担当の美雪が居た。
彼女は僕には目もくれずに涼香に視線を向けると頭を下げた。
「お疲れ様です、瀬名さん」
「お疲れ様です」
そう言ってにこやかに返事をした鈴鹿は少し絵里ちゃんと話していたが、徐々に表情を曇らせ始めた。
「……どうしたの……涼香ちゃん」
絵里ちゃんと美雪が不安そうに表情を曇らせ……いや、半分泣きそうな表情だ。
もしかしたら自分たちが何か気を損ねる事をしてしまったのでは……そんな不安が表情からにじみ出ている。
そんな二人に目もくれず、涼香はしゃがみこむと靴を脱いだ。
そして右足の親指を見てつぶやく。
「あ……切って……る」
見ると、親指の爪の近くに二ミリ×二ミリの切り傷が出来ていた。
いつの間に……
驚く僕に涼香は言った。
「塚本さん……お願いしても、いいですか?」
僕は慌てて消毒液を出したが、美雪がそれを制して言った。
「瀬名さん、私が……塚本さんだと、誰かに見られてネットに書かれたら……」
そうだ。
確かにその危険が……
慌てて離れようとしたら、涼香がハッキリした口調で言った。
「塚本さんにして欲しいです。私のマネジャーさんなので」
そう言うと、彼女は車のドアを開けてシートに腰を降ろすと、開けっ放しのドアから靴を脱いだ右足を突き出した。
「手当て……お願いします」
僕は涼香の前にしゃがみこむと、彼女の素足をそっと手に取る。
そして、右足に消毒液を塗る。
だが、この格好は……ヤバイだろ。
両足を組んで裸足の右足を突き出す少女。
その前にひざまづいて捧げ物を持つようにして、つま先を見る自分。
その背徳感さえ感じる姿に自然と緊張感が増すのが分かる。
「あれ……どうしたんですか? 消毒液上手く塗れてませんよ? それに離れすぎじゃないです? もっと……近づけて下さい」
そう言うと彼女は僕の口のすぐ近くに足を突き出した。
「これならどうです。この位置で支えて下さい」
「いや……瀬名さん、人に見られたら……」
「その時は社長に対応をお願いします。……所で足、疲れちゃうんですけど」
僕は慌てて彼女の足に手を添える。
ふと、涼香の顔を見ると僅かに頬を紅潮させ、微笑んでいた。
早く……やらないと。
「終わりました。これで……」
「有難うございました。さすがですね! お陰ですっかり痛くない」
そう言って僕の手をギュッと握ってきたので、思わず振り払ってしまった。
警戒心、無さすぎだろ!
「じゃあ僕らはこれで……絵里ちゃん、瀬能マネジャー、お疲れ様でした」
そう言って二人を見ると、絵里ちゃんは顔を赤くしてポカンとして、美雪は無表情で顔を伏せている。
後で美雪にラインしないと……まあ、さすがに誤解はしてないだろうが。
そう思いながら車に乗り込み、車を走らせると少しして涼香が言った。
「さすがですね、塚本さん。やっぱり手当てお上手です」
「いや……でも良くなったみたいで良かったです」
「はい、ところで……」
そこで言葉を切ると、涼香が静かに言った。
「この前の瀬能さんの手当て……ご自分でも出来たんじゃないですか?」
「え?」
「瀬能さん、さっき『私が……』って言ってましたよ? あの人も出来るんだ……って。何で塚本さんがしてるのかな? って思っちゃった」
「いや……やっぱり、人にするのと自分では違うので……」
自分の口調が震えているのが分かった。
しまった……
だが、涼香は急に笑顔になると、楽しげな感じで言った。
「今度から私だけにしてくださいね。ああいうの……誤解されますよ? 親しそうなお話しも込みで」
僕は心臓の鼓動が酷くなるのを感じながら言葉を搾り出した。
「分かりました……そうします」
「お願いします。あの方もきっとその方がいいですよね。色々と」
キング&クイーン 京野 薫 @kkyono
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