桃の歌

黒いたち

桃の歌

 荒れた庭を突っ走り、桃歌ももかは垂れてくる鼻血をこぶしでぬぐう。

 枯れた池を迂回うかいし、苔むした庭石を飛びこす間も、遠くで金切声が響いている。


 伸び放題の植木のなか、しずかにたたずむ石灯篭いしとうろうの、台座にそっと腰をおろす。

 うごくたびに、頬がズキズキと痛んだ。

 溜まった唾を吐きだせば、オオバコの平たい葉に、血が点々と散った。


 桃歌は庭を熟知していた。

 事実、母とのかくれんぼは、いつも桃歌の勝ちだ。

 金切声が始めの合図で、甘えた泣き声が終わりの合図――母は桃花を探すより、男に甘えるのに忙しい。

 そうして桃歌に、つかの間の平穏がおとずれる。まるで庭に守られたかのように。


 日本庭園と呼ばれた時代の、古い写真を見たことがある。

 雨染みのない清廉せいれんな塀。ほわんと丸い、植木たち。枯山水かれさんすいの波は連なり、葉の一枚すら落ちてはいない。

 そこにある清浄な空気までを感じさせる美しい造形に、桃歌の心はひどく揺さぶられた。


 この時代に生まれたかった。そうしたら、庭をながめているだけで幸せなのに。嫌なことや苦しいことがあっても、美しい庭はただそこにあって、そのままの私を受け入れてくれる。

 泣き寝入りする時分、桃歌は決まって、心をそこに飛ばした。

 夢心地で目をつむり、目覚めて変わらぬ地獄の日々に、心は簡単にすり減っていく。


 父が亡くなって、二度目の冬のことだった。

 庭を整える金すらないくせに、体裁ていさいにこだわる母は、多くの金持ちがそうするように、若い青年を書生として家に住まわせた。

 愛人であることは、十才の桃歌でもわかった。


 青年はたまに菓子をくれた。

 それは決まって母が不在のときで、

「知り合いが送ってくるのです、桃歌さん」

 細い目を更に細くして、桃歌を自室に招く。

 母は甘味を節制しており、ともすれば桃歌も口にする機会はない。

 豆大福や団子の、ふっくらとしたあんこの甘さに、すり減った心が戻っていく幸福を噛みしめた。


 桃歌の喜びようをあわれんでか、青年は約束をくれた。

「桃の節句に、金平糖をさしあげましょう」

 桃歌は目を輝かせ、それまで絶対に母にバレないようにしようと誓った。青年から口止めされたことは無かったが、母に知れると甘味が食べられなくなることは、容易に想像がついた。


 事件は三月三日に起きた。

「桃歌さんのことを、好いております」

 土下座する青年に、いちばん面食らったのは桃歌だ。ふすまを開け放った母が、おおきく戦慄わななくのが見えた。

 母は桃歌を押し倒し、髪をつかんで平手を打った。文卓ぶんたくが倒れ、半紙から金平糖がたたみに散らばった。

 桃歌はあっ、と声をあげた。母に殴られる日常ではなく、金平糖がきらめく非日常が、桃歌に声をあげさせた。


 青年と母がもみあう間に、桃歌は金平糖をひっつかんで逃げた。

 石灯篭に腰かけ、オオバコに唾を吐き、にぎったままのこぶしをあける。

 たった数個のちいさな星は、桃歌の幸せを願った欠片かけらだ。

 赤を選んで舌で転がす。桃歌の心は震えだす。

 母の号泣が聞こえるなか、かくれて食べる金平糖は、あまりに甘美だ。

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桃の歌 黒いたち @kuro_itati

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