旅立ち

槙野 光

旅立ち

 パパは管理職に就いている――と言うことは、当然誰かを指導したり間違いを指摘したりすることもあるわけで。でも、キリッとしたパパなんてそんなの全く想像が付かない。だって私が知っているパパは、ちょっぴり情けないんだ。


「――さくくん、何してるの?」


 ぴしゃり、とママの雷がパパに落ちて、パパは押し入れに突っ込んでいた身体を慌てて引いた。


「な、菜々なな


 ママを見て狼狽えたパパの手の中には、お雛様が入った桐箱がひとつ。

 三月四日。ひなまつりの翌日。

 私とママが大事にしまったお雛様が、一日も経たない内に起こされようとしている。


 本当、パパって馬鹿なんだから。


 夕食後のリラックスタイム。いつもはソファに腰掛けて私の隣でぐだぐだテレビを観るくせに、今日のパパは挙動不審だった。

 なんか眠くなっちゃったなーあははーなんて棒読みで言って、そそくさとリビングから出て行って。怪しいなと思ってこっそり後をついて行ったら、来客スペースという名の和室の物置部屋だった。


 私は速攻ママに告げ口。

 パパ、現行犯逮捕。


「これはだな、その、お雛様がだな、その」 


もごもごと言葉になってない言い訳に、私はママの背中から顔を出してあっかんべーって舌を出す。するとパパはがん、と衝撃を受けたように青ざめて、手に持っていた桐箱を戻して襖を閉めた。


「悪かった! でも、優希ゆうきがお嫁に行く時のことを考えたら……もう、いてもたってもいられなくて」


 パパ 私とママの方を向いて端座し、畳に額を付ける。それは土下座じゃなくてもはや平伏で。一拍二拍三拍。顔を上げたパパの瞳は、バンビみたいに潤んでいた。


 パパが職場の人の結婚式に参列したのは、一昨日の三月二日。ひなまつりの前日のことだ。

 お月様が顔を出した頃に帰ってきたパパは、玄関で私の顔を見る否や「優希もいつかお嫁さんに行っちゃうのか」って縋り付くようにめそめそと泣き出した。

 その時は呆れ混じりの笑みを浮かべたママが「仕方ないわね」って言いながらも愛おしげに目を細めて、慰めるようにパパの背中を摩っていた。


 立ち直ったと思っていたけど、パパはまだ夢の中にいたみたい。

 

「朔くん」


 仁王立ちになったママが腰に手を当てると、ママの腰と腕の合間に三角形の窓が出来る。

 そこから見えるのは項垂れたパパの姿で。ママが長いため息を吐くと、パパは窓越しに両肩を跳ね上げた。

 

 威厳の『威』の字は、我が家にはきっとやって来ない。


「朔くんの気持ちはわかるけど、朔くんのそれは優希が誰からも愛されなければ良いって言ってるのと一緒だからね?」

「そんなことは――」

「最後まで聞いて」

「……はい」


 ママ強し。ママに逆らうのはやめておこうと胸に硬く誓う。大人の一歩だ。なんて私が心の中でうんうんと頷いていると、ママが二度目のため息を吐く。でもそれは一度目のため息とは違っていて、少し短くて、マシュマロみたいに柔らかかった。

 ママはいつも冷静で、パパはいつもママに叱られている。でも私、知っているんだ。パパがママを愛しているように、ママも何だかんだでパパを愛しているんだって。

 パパとママを見ていると、私の心はいつも暖かくなる。


「優希の幸せを朔くんが狭めちゃだめでしょ? 私は朔くんと結婚して優希を産んで、今幸せなの。朔くんは? 朔くんは今、幸せじゃないの?」


 ママの諭すような落ち着いた声に、パパがぐっと言葉を詰まらせる。そして肩を落として、こもっていた息を吐くようにゆるゆると口を開いた。


「……幸せ、です」


 パパの小さな声に、ママが満足そうに頷く。


「あのね朔くん。お雛様をずっと飾っていたって、優希はきっと幸せになる。だけど優希の幸せを願うなら、きちんと片付けてあげなくちゃ」


 ママに嗜められて、パパが身体を縮こませる。そして一拍後、私を見て弱々しい視線を向けた。


「……ごめんな、優希」


 しゅんとしたパパの顔。眉も目も口もパーツひとつひとつがお辞儀をしているみたいに元気がなくて。でも、ママの三角形から顔を出して「……パパの作ったクッキーで許してあげる」って私が言うと、雲間から陽光が差し込んだみたいにパパの表情がぱあっと一気に輝いた。


「優希の為なら、五十個でも百個でもいくらでも作ってやる」

「そんなにいらないってば」


 全く。パパはすぐに調子付くんだから。

 私がため息を吐くとママも同時にため息を吐く。それは少し短くて、柔らかい吐息で。私はママの背中に隠れて、ふふっと笑った。


「ねえママ、パパは馬鹿だよね。お嫁さんに行っても、私はパパのことが大好きなのに」


 パパがクッキーを作っている間、私とママはソファに腰掛け女王様気分。ドラマを観ながら寄り添って、こそこそ内緒話だ。


「それ、パパに言ってあげないの?」


 ママが小さく笑う。私は身を乗り出して、右を向く。キッチンには水玉エプロンを纏ったパパの後ろ姿があって、私は唇の前で人差し指を立てる。


「まだだめ」

「なんで?」


 ママが小首を傾げると、テレビの中に淡い光が溢れた。

 シニヨンヘアの女性が清楚で煌びやかなオフショルダーのウェディングドレスを纏って、父親と一緒にバージンロードを歩いている。

 私は目を細めて笑みを浮かべる。そして、ママの耳元に口元を寄せた。


「結婚式でね、パパに言うの。パパありがとう、大好きって」

「そうなの?」

「うん。それまではパパに言ってあげないんだ。だって、パパ泣いちゃうでしょ? パパの涙は、一番幸せな時だけで良いんだよ?」


 私が頬を緩めて言うと、ママはふふっと笑って「そうね」と顎を引く。

 キッチンからは甘いお砂糖の匂いと、パパの楽しげな鼻歌。ゆらゆらと揺蕩う空気は、まるで春の日差し。


「……ママ」

「なあに?」

「あのね。少しだけなら、お雛様出しても良いよ?」


 私が言うとママが虚を突かれたように目を丸くして、軽やかに笑った。花が開くようなママの笑顔はパパと同じ。

 我が家には、威厳の『威』の字はやって来ない。でも、代わりにいつだって春がやって来るんだ。


「優希! 菜々!」


 安穏とした空気にパパの場違いな大声が響く。私とママが釣られてパパを見ると、オーブンの前に立ったパパが万歳するように伸ばした両腕を大きく左右に振っていた。


「もうすぐできるぞー! 楽しみにしてろよー!」


 私とママが顔を見合せて「はーい」と同時に笑って言うと、パパが頬を緩めた。

 パパの笑顔。それはクッキーみたいに甘くて、愛情たっぷりなんだ。


 パパは管理職に就いている。私の知らないパパパは、部下に慕われる格好良いパパなのかもしれない。でも私の知っているパパは、信じられないくらいに威厳がなくて少し頼りない。

 それでも私は――。家族を、私を全力で愛してくれるパパが大好きなんだ。


 ねえパパ。私の夢はパパみたいな旦那さんを見つけて、パパと一緒にバージンロードを歩くことなんだよ。

 そんなことを言ったら、パパはきっと泣いちゃうよね。だから今はまだ内緒だよ。 

 でもその時が来たら、多分私はパパに負けないぐらいの大きな涙をこぼして、そしてパパに向かって笑うんだ。


 でもね、パパ。


 私はまだ十二歳で、今はまだパパとママの腕の中にいる。大人になるにはちょっぴり早いから。だからねえ。

 もう一度、ひなまつりをしても良いよ?

 いつか旅立つその日は、きっとやってくるから。だからもう少しだけ。いつかくるその時まで。


 もう少しだけ、パパの隣で――。


「――行ってらっしゃいませ」


 ホテルの式場。重厚な扉の前。式場スタッフの温かな言葉。シニヨンヘアに添えられた青い小花に、オフショルダーのウエディングドレス。

 私の左腕にパパの手がそっと触れて、私は化粧が崩れないよう涙を堪えてパパの隣に立つ。

 パパを盗み見ると緊張したように肩を張るパパの姿があった。

 淡い光の中で、ひなまつりの想い出が巡る。


 押し入れから慌てて身体を引いたパパ。

 ママに諭される情けないパパ。

 鼻歌を歌って大きく手を振ったパパと、その夜一緒に飾ったお雛様。


 今にも泣き出しそうな、春みたいなパパの笑顔――。


 私は震える唇を開く。合間から漏れた吐息は少し塩っぱくて、声は微かに揺れていた。


「――大好きだよ、パパ」


 扉が、開く。


 参列席に座ってデジタルカメラを構えるママと友人の武ちゃんと愛美ちゃん、沢山の人の笑顔が瞳に映る。私は顎を引き、前を向く。そしてバージンロードを進み――。


「――愛しているよ、優希」


 確かな声が、耳に届いた。

 私の腕には、サテン生地のウエディンググローブ。でも、パパの温もりに扉なんてなくて。

 私がベールの中で唇を引き結ぶと、隣から鼻を強く啜る音が響いた。

 ――ずるいなあ、パパは。

 目の縁から堪えきれない涙が溢れ落ちていく。それはきっと真珠みたいな涙で。私は喉を鳴らし、瞼を下ろした。

 眼裏に広がる木漏れ日。胸の奥を叩く切ない気持ち。心に響く、暖かな笑い声。


 瞼をそっと、持ち上げる。


 そして私は、白い光に包まれながら赤いバージンロードをパパと並んで歩く。百本の薔薇を敷き詰めたような光輝く道を、パパと一緒に歩くんだ。


 ――ねえ、パパ。


 ママと出逢ってくれて、私を育ててくれて。

 沢山の幸せをくれて、ありがとう。


 パパ。


 これからもずっと、大好きだよ。

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