第10話 おわりに

 昭和三十年(一九五五)頃の春だったと思います。戦死した兄達の遺族や生存者等三〇余人が、岐阜の護国神社で慰霊祭を行いました。その時、兄達初年兵を指導してくださったNさんを招待しました。

 兄達は昭和十五年二月、当時の*郡から十七人が現役兵として、海拉爾ハイラルにあった関東軍の国境守備隊に入隊し、そこで兵隊としての訓練を受け十八年に満期除隊になりました。引き続いて希望者四名のほかはすべて除隊し故郷に帰りました。兄は兵隊になる前にA県警察官でしたのでそこで勤めていました。翌年の十九年四月、同期の人達と一緒に招集され、全く内密でN港を出向しサイパン島の守備に就きました。その六月、アメリカ軍の陸・海・空の物凄い攻撃を受け、守備隊全員戦死し約四万人が玉砕。七月に戦死の公報が入りました。

 兄達の入隊したハイラルは、今の中国の東北部の内蒙古自治区東部で当時満州といっていた所です。地図で見ますと北緯四七度・東経一二〇度にある砂漠の中で物凄い大陸気候で、特に冬は厳しかったと兄は言っていました。今、日本の最北地が北海道の稚内ですのでそれよりも北になります。その現役時代の3か年、内務班で訓練を受け、その指揮者がNさんでした。N班長と言っていたので、お名前は今でも覚えておりません。そのNさんに岐阜でお目にかかった時、四十五歳位、少し小柄で色が白く、静かな言葉遣いでした、ご出身がT県であるとのほかは何も知りません。その後、十数年経った時、お亡くなりになったということを風の便りで聞きました。

 

 慰霊祭が終わって懇親会が引き続いて行われました。私の兄の現役時代の写真を生存者や遺族の方々、そしてNさんにも差し上げました。会ではNさんから満州時代のこと、特にの厳しい生活のお話を聞く機会があり、それらの内容はこの歌集に詳しく書いてあります。そして解散する前にと書かれた印刷物をくださいました。それは差し上げた写真のお礼とも思われますし、ほかの方にもお渡しになったかもしれません。その短歌集はノートにも書かれてあり、コピーして冊子にしてありましたので、帰ってから兄の仏前に供えました。が書いてあるものは全部が短歌であって、その素養の全くない私には読めません。その上、走り書きやら軍隊用語もたくさんあって、折角いただいたものが読めなくて困っていました。二十数年経った時、ある知人が「折角の宝物だから何とかして読もう」と持って行かれましたが、結局読めないまま返ってきたきました。どしても読めないのでそのままにしておきました。好意にしていただいている知人可児一郎氏が、このことを聞いて超多忙の時間を割いて読んでくださったのが、この短歌集『思い出の満州』です。会の時、一時間、Nさんがお話になったことが詳しく出ています。


国際条約で禁止しているにもかかわらず、ソ連が約六十万人もの日本軍人を無理矢理にソ連へ連れて行き、数年間、激しい労務をさせ六万人もの人がかの地で亡くなりました。Nさん達が連れて行かれたノボシビルスクは、これも地図で見ますと北緯五五度、東経八五度、日本から何千キロも離れている西の西の方の土地です。

西垣さんのお話では「」と言われました。軍隊は軍隊ともよく言われますが、幸いにして運が良かったよかった私はこうした会に出られますが、


 戦争というものは「人」という結論でした。


 私が終戦の時は小学校を卒業した頃で、兄を戦争で亡くした悲しみや、生活の全部が苦しかったことを体験していますので、Nさんのお話が身にしみて分かりました。世界中が、戦争のない平和な時代を何時までも続けなければとこの歌集を読むたびに、Nさんのお話を思い出すたびに強く感じます。

 戦後の昭和二十年代に、ラジオでよく『異国の丘』という歌が放送されました。今、時々ふとあの歌を歌います時、平和な国の日本で生活ができる喜びを強く感じます。

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想い出の満州 ブリさん @burie758

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