第9話 シベリア抑留生活(終了)

 今年こそはと胸膨らむ春が来た、私は既に三十四歳の春であった。

 収容所を移動する、それは帰国への第一歩のような心地よさを感じせしめる。食事事情もソ連側の警戒もよく、毎日ナホトカ〜ヴラジヴァストーク間の鉄道施設工事を続ける、海岸線の崖を切り開く難工事であった。


 人海の限りを尽くす難工事

     高き崖切りトロを走らす


 一本の丸太のブレーキに命を託し、急斜面のレールを次々と連ねて海に埋め出す、鑿岩機さくがんき、発破の騒音の作業場だった。

 ナホトカの夏は今までになく暮らし良い。海に出て昆布・海苔など収穫して食料にした、初めソ連側軍医は海草を食べることに反対した。


 打ち寄せる波に漂う昆布拾う

     竿に重たき幅広き昆布

 海草を食さぬ露人の習わしか

     岩に波打ち青海苔茂る

 草むしり食いし昔の思い出は

     遠くなりたり海草の汁


 こうして七月に入ったあるやかん、土工作業中(私は小隊長をしていた)突如、帰還命令の通報を受けた。千秋の思いで待ったその報に胸の高ぶりを押さえることはできない。長く聞かなかった万歳の声が全員の口から出た途端、土を満載したトロがひっくり返って一名土の中に埋没した。さぁ大変、全員が集まって手で一生懸命土を掘り出し救出した、幸い負傷もなかった。

 せいしんは完全に動揺している。早速作業中止を命じ、ありたけの薪に火をつけて大いに語り、夜明けて収容所に帰る、所内は上を下への大騒ぎであった。


 喜びに駆けて来たらし伝令は

     帰ると一言肩で息せし

 歓声に沸き立つ顔は赤々と

     たき火に映えて夜の明けを待つ

 苦しみも悲しき事も遠く去り

     希望明るく肩叩きあう


 しかし今回もまた例外でなく、帰還名簿に漏れた人々がいてしょんぼり取り残された。私も何回となく経験したことだけにその心境を察し、暗澹あんたんたるものを感じた。


 手を振りて我等見送る残留を

     励ましつつも涙にじみし


 いよいよ本格的だ身体検査、被服支給、予防注射、所持品検査等々、次々に収容所を変わること三回、その度に必ず名簿漏れがあって、連れて行かれる戦々恐々たる思いであった。


 錯乱の頭の中に日を忘れ

     一日の中に幾度か数う

 気味悪気点呼の前に直立し

     我の名前を息とめて聞く


 出発の日は晴天で海が青い朝だった。朝風は冷たかったが、震えが止まらないのは寒さのせいではなかった。極度に緊張した顔が並ぶ。誰も頬が固く血が引いていた、喜ぶべき乗船風景にしてこれである。最後の点呼で、一人一人タラップを踏んで登って行く。私もその一人に加えられた。乗り終わると一秒でも早く船が動いてくれと念じたのは、私一人ではなかったであろう。


 かすかに山が動き始め、次第に村が動いてくる時初めて帰るのだなぁと実感が湧き始めた。しかしまだ前を走る誘導船に一抹の不安を感じる、港湾を出て誘導船が船首を回し走り去る姿を見て、一斉に甲板に駆け登り歓声が爆発した。それは五年間、押さえに押さえた第一声であった。


 自由!

 自由!


 自由と平和への声であった。

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