プールの塩素

祐里

眠い帰り道、痛いつま先

 学校のプールは嫌い。小学校六年生で、女子にしては背の高い私には浅すぎて。それに、女子の視線が痛い。

「何その水着? スポーツクラブって書いてあるけど。へぇ、スポーツクラブって水色の水着なんだ?」なんて、水着にケチをつけてくる子が必ずいる。本当は青色の水着が、毎週塩素が入っているプールに浸かるせいで色褪せて水色っぽく見えるだけなのに。

 市営プールも浅いけれど、そんな嫌なことは言われない。いろんな水着の子がいるし、同じスポーツクラブの水着の子も時々いる。一緒に水泳教室に通っている妹と行けば、少なくとも二人は同じ水色の水着の子がいるということになる。市営プールの帰り道にプールの匂いを焼けた肌に感じながら、駄菓子屋でアイスを買うのが楽しみ。妹はオレンジ色の棒状のやつ。私は水色のソーダ味のやつ。どちらも半分こできるから、妹と分け合うのが楽しい。


 夏休みに入って、お父さんが遊園地のプールに連れていってくれることになった。大喜びで車に乗り込み、出発。私と声を合わせて歌を歌っていれば、妹は機嫌が悪くならない。車酔いで気分が悪くなることもない。だから私はいつも歌えるように、頭の中で歌のリストを作っておいた。もちろん、小学校三年生の妹にも歌える歌の、だ。

 高速道路を通ってしばらく車に揺られていると、遊園地の大きな看板が見えてくる。お父さんと私は妹を気遣いながら車を降りた。妹は気分が悪くなっていないようで、ほっとする。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と付いてくる妹がかわいい。「早く行こ!」とせっついて入場し、お父さんとは違う更衣室に入った。室内の木製のすのこを踏むとむっとした暑さが襲ってきたが、早く着替えを済ませてしまえばいい。私も妹も、着替えるのには慣れている。

 着替えたらさっそく水の中に……というのはよくない。準備運動をしないといけない。スポーツクラブで教わった準備運動をお父さんにも教えて、しっかり体をほぐしておく。足がつって泳げなくなるなんて嫌でしょ、なんて言いながら。


 いつもと違う大きいプールには、普段はあまり見ない高校生くらいのお姉さんたちも多い。フリルが付いていたり、ミニスカートのようなものが付いていたり、華やかな色の水着が視界にちらつく。そんな光景を眺めながら、私は妹と潜水や平泳ぎで水を思う存分楽しむ。スポーツクラブに通い始める前、泳げなかった頃には味わえなかった楽しさだ。

 お父さんも平泳ぎですいすい進んでいる。やっぱり泳ぐ速さでは敵わない。ちょっと悔しいけれど、付いていこうとすると途中で待っていてくれる。お父さんが笑いながらこちらを振り向いた瞬間、私の目の前にきれいなお姉さんがすいっと泳いできた。「あ、ごめんね」ぶつかりそうになった私に、お姉さんは言ってくれた。淡いピンクと白のチェック柄のセパレートの水着が、とてもかわいく見えた。

 お父さんのところに行って、太い腕を掴む。「お父さん、水着、かわいいの欲しいな」と言いそうになったけれど、何だかよくないことのように思えて口をつぐんだ。私が子供だからお父さんはこうして待っていてくれていた、子供だから遊園地に連れてきてくれている。妹はまだ九歳の子供で、私がお姉さんみたいな水着を着たら一緒にプールに行けなくなるかもしれない、そんな考えが一瞬で頭の中をぐるぐると駆け巡った。


 妹はマイペースにふよふよとダルマ浮きしている。私もダルマ浮きは大好きだ。でも何だか落ち着かない気分になって、「ちょっと休憩したい」とお父さんに言い、プールサイドに上がった。強い日差しで熱くなったざらざらの床が足の裏を気持ちよく刺激する。走って怒られないように注意しながら早足で屋根のある休憩エリアへと急いだ。

 私に続いて、お父さんと妹もプールから上がってきた。そうして、お父さんが買ってきてくれた小さなパックジュースにストローを差す。桃とオレンジのミックスジュースは、気持ちよく喉を滑り落ちた。妹が飲んでいるものも同じ。違う種類にしないなんて気が利かないな、と思うが、口にはしない。お父さんが飲んでいるものは緑茶。一口もらったら、いつも飲んでいる緑茶より少し苦く感じた。


 ぼうっとプールを眺める。派手な水着の男の人は少ししかいない。あのお姉さんのようにかわいらしい水着の女の人はいっぱいいる。私と違って、肌が白い人もいる。いつも日焼け止めを塗っているのだろうか。腕の内側と同じくらいの白さの顔を不思議に思う。

「珍しいな、もう疲れるなんて」お父さんの言葉に、私は首をぶんぶんと振った。「平気だもん。楽しいよ!」明るく笑うとお父さんは安心したようで、「じゃあまた行くか」なんてニコニコしている。妹もその向こうでニコニコしている。泳ぐのは嫌いと言っていたお母さんはお留守番だけど、家に帰って「楽しかったよ」と報告したら、きっと喜んでくれる。

 再びプールの水に浸かると、妹がふよふよとダルマになった。その下を潜水でくぐり抜けるのは楽しい。深いところでしかできないから、ここに来られてよかったと思う。


 たくさん遊んで体が少しだるくなってきた頃、お父さんが「帰ろうか」と言ってきた。うなずいてプールを上がり、更衣室へ。塩素で色が抜けてしまった水着から普通の黄色いシャツに早く着替えたくて、妹を振り返ることもなく急いで更衣室へと入る。その瞬間、左足にものすごい痛みが走った。慌てていて、すのこの角に左足の小指をぶつけてしまったのだ。

 何かに足の小指をぶつけることなんてよくある。でも裸足だったせいか、とてつもなく痛く感じる。さすがに少し涙が出てきてしまったけれど、妹の前で泣くわけにはいかないと我慢し、まずは着替えに専念した。妹は心配そうに「お姉ちゃん、大丈夫? お父さんに知らせてこようか?」なんて言っている。「大丈夫だよ」と答えて着替えてしまうと、更衣室を出た。

 怪我をしてしまったことをお父さんに伝えるとお父さんは私のサンダルの足をじっくり見て「爪が剥がれてるじゃないか」と言った。「えっ」とびっくりして言うと、そばを通った知らないおばさんが絆創膏をくれた。親切なおばさんにお礼を言ってティッシュで血を拭いてから絆創膏を巻く。すごく痛いけれど、涙はもう出てこない。「やだなぁ、ドジっちゃったよ」と明るく言って駐車場のほうにひょこひょこと歩き出す。お父さんと妹も。


 帰りの車の中で、妹は眠ってしまった。私は左足のつま先に痛みを感じながら、プールで会ったお姉さんのかわいい水着を思い出していた。ピンクじゃなくてもいいからかわいいのが欲しい、でもたぶん言い出せない、どうしよう、なんて痛みと全く関係のないことを考える。


「そう、楽しかったの、よかったわね。でも怪我するなんて……気を付けないと」

 家に帰って今日の出来事を話したら、お母さんはきっとこう言うだろう。

 かわいい水着は来年ねだってみようか。中学生になったら買ってくれるかもしれない。青が水色に見えるようになってしまったスポーツクラブの水着は、つるつるしているところが気に入っている。でも、チェック柄じゃない。かわいくはない。


 鼻に残る塩素の匂いの中、左足のつま先の痛みは、いつしか疲れた体と車の揺れが与える眠りに負けていった。

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プールの塩素 祐里 @yukie_miumiu

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