憧れのハイヒール

時輪めぐる

憧れのハイヒール

 六歳のカエコはハイヒールに憧れている。

 テレビや映画の中で綺麗なお姉さんが、格好良くカツカツカツと音を立てて歩くのを見て、履いてみたいと思う。

 ママのハイヒールを靴箱から出して足を入れてみるが、ブカブカで歩けずに転ぶ。玄関の土間に尻餅を突いていると、物音に気付いてやってきたママに怒られた。

「こら、カエコ何してるの! ママのハイヒールを悪戯しないで」

 ママは、いつもは底のペッタンコの靴を履いているが、ドレスアップしたときだけ、ハイヒールを履く。余所行きのハイヒールなのだ。

「わたしも、ハイヒールが、ほしーいっ!」

 ねだってみても、母親は「大人になったらね」の一点張りだ。

 不満ではあるが、大人になるまで待つしかないのか、とも思う。

 何故なら、ママと見たネットカタログのキッズハイヒールは、カエコの憧れのハイヒールとは違ってヒールが太かった。ごつい感じだ。


(これじゃない……)


 お姉さん達が履いていたのは、もっとヒールがほっそりとして華奢な感じだった。

 大人になれば履ける。それなら早く大人になりたいと思う。でも、ハイヒールは、それまでお預けなのだろうか。

 そこでカエコは考えた。つま先立ちして歩けば良いのではないかと。試しに、つま先立ちして姿見の前に立ってみる。エアーハイヒールだ。


(あしが、ながく、みえる!)


(せが、たかく、みえる!)


 カエコは幼稚園で身長順に並ぶと前から二番目。チビッコなのだ。



 その日から、カエコのつま先立ち生活が始まった。

「カエちゃん、どうしてつま先立ちしているの?」

 幼稚園の先生に訊かれてカエコはニコリと笑う。

「ハイヒール、なの」

「ああ、そうなんだ。見えないハイヒールなんだね」

 先生は笑顔で応援してくれた。

 だから、すっかり、テレビや映画で見た格好良いお姉さんになった気分で過ごしていたが、身体測定の時に別の先生に注意された。

「背の高さを測りたいので、つま先立ちは駄目です」

 これは、翌年の小学校入学から始まる学校生活の中でも、一番困ったことだ。二番目に困ったのは、からかわれること。

「お前、なんでいつもつま先立ちしてんだよ」

「別に良いじゃん。アンタに何か関係あるの?」

 そう言い返せるようになるまで、ちょっと辛かった。

 高校生になっても、つま先立ちは続いた。

 学校の廊下をスーパーモデルがランウェイを歩くように闊歩していた。窓からの陽光はスポットライト、若葉がキラキラして観客の騒めきのようだ。風を切り、髪をなびかせ、気持ち良かったのだが。

「何やってんの? だっせぇ」

 片想いの男子にすれ違いざまに言われた。

 カエコは立ち止まり、長年浮かせていた踵をそっと地に着けた。俯いた肩が小刻みに震えた。


 好きな人に投げつけられた言葉は心を深くえぐり、同時に、淡い初恋も消してしまった。悲しくて、大泣きしながら家に帰った。自分はただ、好きなものを表現しただけなのに。分かって欲しいとは言わないが、否定しないで欲しかった。悲しくて堪らなかったけれど、心にはまだ憧れのハイヒールが何処にも行かずに残っている。そう思うと立ち直れた。カエコは、好きなものは自分の中に仕舞って置くことにした。こうして、つま先立ちは封印された。


(大丈夫。もう少しすれば本物のハイヒールが手に入るのだから)



 高校を卒業したカエコは地元の中小企業に就職した。初任給で買うのは、もちろんハイヒールだ。やっと憧れのハイヒールが履ける。どんなデザイン、どんな色と、夢は膨らんだ。

 ところが、カエコは小足だったので、サイズが無く、何軒も何軒も靴屋を探し回ることに。

 ようやくサイズの合うハイヒールに巡り合ったが、デザインも色も自分の思うところではない。だが、しかし、仕方ないのだ、サイズが無いのだから。

 兎も角、カエコは、ピッタリサイズのハイヒールを手に入れた。


 思い続けて十余年、しかし、憧れのハイヒールを履いて颯爽と歩きだす――とはならなかった。

 カエコは外反母趾で内反小趾、おまけに扁平足だった。その所為かは分からないが、靴の中で前に滑った足が靴のつま先部分に当たり、痛くて長く履いていられない。とても歩けたものではなかった。靴屋で試着した時は、数歩しか歩かなかったので気付けなかった。少しの痛みは、手に入れる喜びの前で無いにも等しかったからだ。

 その後、滑り止めグッズや各種インソールを試してみたが、つま先立ちのエアーハイヒールの快適さは手に入らなかった。

 そこで理解した。母親が普段履きはペッタンコ靴で、ドレスアップの時だけハイヒールだった理由を。

 少し前に♯KuTooがトレンドになったことがあったが、ハイヒールで闊歩するのは苦痛以外の何者でもなかったのだ。

 嗚呼、憧れのハイヒール!

 綺麗なお姉さん達のつま先は痛くないのかしら。

 大きな疑問と共に、長年の憧れは消え去ってしまった。

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