ほろ酔い幻想記 ~柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の或る正月~

四谷軒

或る正月

 すっ。

 すっ。

 抜き足。

 差し足。

 忍び足。

 つま先立ちになって歩く音だ。

 それはやわらかな敷き物の上でも、よく注意すれば聞こえる。



 将軍家剣術指南役・柳生但馬守宗矩やぎゅうたじまのかみむねのりは、正月早々、江戸城へと登城し、主君・徳川家光との謁見に臨んだ。

 宗矩の求めによるこの面会の目的は、沢庵なる禅僧の宥免ゆうめんである。

 沢庵宗彭たくあんそうほう

 いわゆる紫衣事件しえじけんにて、幕府の主張に真っ向から背いたため、出羽に追放になった僧侶である。

 宗矩はこの沢庵の友人であり、また、有為の者であるため、去年からぜひ許しをと求めていた。

 家光は剣術指南役である宗矩のたっての頼みということで、その歎願状たんがんじょうを読むには読んだが、「追って沙汰する」と、未だに返事を寄越さずにいた。

 その後、のらりくらりと宗矩と会うことを避け、この正月に至った。


「上様。今日こそは」


 宗矩は正月の年賀の挨拶にかこつけて、家光に単独での謁見を求めた。

 これにはさすがの家光も断ることはできず、ことがことだけに、余人を交えず――小姓すら入れずに、会うことにした。

 宗矩は家光の私室に招かれる。

 そこは、寒気に気を遣ったのか、柔らかい敷き物が敷かれていた。

 宗矩が家光の気遣いに感心していると、「待たせた」と家光が現れた。

 ところが。


「上様……酔っておられるのですか」


「そりゃ、そうだ、正月、だぞ」


 家光は ほろ酔いだった。

 宗矩は気色ばんだが、突然、正月に敢えて会いたいと言ったのはこちらだ。

 将軍である家光は、正月ということで差し招いた諸侯を相手に酒肴を共にしていたのだ。

 責めるわけにはいかない。

 そこはぐっとこらえて、宗矩は順序だてて話すことにした。


「上様、この宗矩が以前さきに出しました、書状はお読みくだされたか」


「読んだ」


 家光は懐から書状を取り出した。

 取り出したはいいが、酔眼で書状を見ては、ええと、これは何という題名の書状か、ほろ酔い幻想記かなどと口走る。

 宗矩は渋面を作って、沢庵宗彭なる禅僧の宥免を求むる歎願状でござりますると答えた。

 家光はしゃっくりをしながら、「うむ」と言った。

 そこで、さすがに酔いが少し醒めて来たのか、「まあ待て」と、書状を持っていない方の手の、手のひらを見せた。 


「これだけのこと、改めてこの書状を読んでから、答えたい」


 家光は書状をざらっと広げ、本当に読み始めた。

 これには宗矩も何も言えず、臣下としては、平伏して待つほかない。



 ……そうして待っているうちに。

 あしおとが聞こえた。

 すっ。

 すっ。

 抜き足。

 差し足。

 忍び足。

 つま先立ちになって歩く音だ。

 それはやわらかな敷き物の上でも、よく注意すれば聞こえる。

 何だ。

 そう思った宗矩は、かすかな呼吸音もその耳に捉えた。


「……そうか」


 宗矩は平伏したまま敷き物をつかみ、そのまま立ち上がった。


「ぬん!」


「うわっ」


 敷き物をつかんで立つ宗矩の前に、木刀を持った家光が転んでいた。

 家光の顔は、とっくにいつもの白皙のものに戻っている。

 さてはさきほどの「酔い」はたばかりか。


「上様」


「さすがよの、宗矩。こういう時も、隙が無いな」


 余の負けじゃ、褒美を取らせようと言う家光。

 だが宗矩はそれどころではなかった。


「お戯れが過ぎまするぞ!」


 宗矩は本気で怒った。

 友人の宥免を歎願しているその時に。

 何たる無礼であろう。


「それに……この宗矩、身命を賭して上様にお仕えしております。それを」


「知っている、知っている」


 だからこうしたのだと、家光はわけのわからないことを言った。

 宗矩はあきれ果てた表情をした。

 これまで心を砕いて家光に剣を教えて来たが、それがこんな所業まねをするとは。


「……宗矩よ、そなたは言うたではないか、隙あらばいつでもかかって来いと」


「……言うは言いましたが」


 まだまだ客気が抜けない若者だ、責めてはいけないと自戒しつつ、宗矩は敷き物を下ろした。

 これでは歎願を受けてくれそうにない。

 幸い、小姓や侍女には見られていない。

 このまま宗矩が退出すれば、すべてはなかったことに。

 正月の戯れ、酔いの上の幻想、ということにできよう。

 それこそまさに、ほろ酔い幻想記だ。

 宗矩は下城することにした。


「御免」


「うむ」


 何が「うむ」だ。

 しかもあの得意げな顔、一本取られたくせに、逆に一本取ったみたいな顔をしてやがる。

 さすがの宗矩もかちんと来たが、おごそかに沈黙を保ち、屋敷へと戻った。

 そこで。



「久しいのう、久しいのう!」


 見知った禿頭の男が、作務衣姿で宗矩を出迎えた。

 宗矩は取った笠を取り落とした。


「……何ゆえ?」


「いやな、出羽上山の春雨庵で、藩主の土岐頼行どのと漬物を作ってたらの、突然、上様の使いが来て、の」


 あ、これ作った漬物な、と禿頭の男――沢庵は手にげていた漬物を宗矩に渡した。


「上様の……使い?」


「そうよ、いやな、土岐どのも引き留めてくれたんじゃがの……何でも上様が、正月のこの折りに、宗矩どのをびっくりさせたいと言われて」


 それはいいと土岐頼行は喜んで送り出してくれたという。


「つまり……上様は」


 最初から歎願をかなえるつもりだったのか。

 と、すると。


「あの……戯れは」


 ――、ということにしたかったのか。

 だから、得意げな顔だったのか。

 だから。


「一本取った、いや、この宗矩が、一本取られたのか」


「そうじゃの」


 沢庵はいことではないかと言った。


「宗矩どの、おぬしが教え育てた弟子が――上様が、かような真似をするとは、これはまさに、成長したという証ではないか」


「……そうだな」


 至らなかったのはおのれであったと反省する宗矩である。

 そんな宗矩の肩をたたいて、沢庵は「寒い。早く中に入ろう」とうながす。


「今は正月。若者の成長を言祝ことほぐのに、これほどうってつけの季節はないぞ」


「……そうだな」


 そして笑った。

 ふたりで、笑った。


【了】

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