最終話

 あの夏から、1年半が過ぎた。 

 高3の、3月初旬。

 卒業式が終わった。


 風はまだまだ肌寒い。それでも、日差しはもう春の明るさを湛えて降り注いでいる。 

 使い慣れたショルダーバッグに卒業証書を差し込むと、私は長い時間を過ごした美術室へ足を向けた。


 部屋はがらんと静かで、白いカーテンが微かに風に揺れている。

 黒板には、「卒業おめでとう!」のカラフルな文字や、三年生や在校生たちのふざけ半分の言葉達が散らかっている。


 大きな木の机に歩み寄り、その表面を静かに撫でた。

 あの夏の眩しい時間が、一気に胸に溢れ出した。

 でも、涙は出ない。

 嫌と言うほど何度も思い出し、もう散々泣いてしまったから。


 葉月。

 さよなら。


 顔を見て、目を見つめて別れを伝えられないことだけが、胸を切り刻むほどに辛かった。

 窓辺に寄り、流れ込む風を思い切り吸い込んでから、部屋を出た。



 美術室から踏み出した明るい廊下で、ふと顔を上げると、向こうからひとりの男子がこちらへ歩いて来るのが見えた。


 霧島くんだった。

 高2の冬のあの日以来、彼の傍に寄ることは怖くてもうできなかった。

 思わず深く顔を伏せ、逃げるように横を通り抜けようとした。


 その瞬間、ぐ、という反動を肩に感じ、私は思わず足を止めた。

 ショルダーバッグの肩紐が、背後から誰かに掴まれている。


「……っ!?」

 何が起こってるのか。

 訳もわからないまま、顔を引き攣らせてばっと振り向いた。


 霧島くんが、バッグの紐を掴んだまま、私を見つめていた。


「——……」


 この目は……


 舜くんじゃない。

 たまらなく深く温かい、この眼差しは——


 その瞬間、黒目がちな彼の瞳から、小さな光が一筋流れ落ちた。


「……っ」

 はっと我に返ったかのように、彼はバッグから手を離した。

 そして、不思議そうに首を傾げながら濡れた目を擦る。

「舜、探したー。ここでなにしてんの?」

 後ろから走り寄った女子に絡みつかれ、彼は曖昧な苦笑いで答えた。

「うっせーな、別に何でもねーよ。よくわかんねーけど……なんか花粉症か? 涙出た」

「え、ださっ」

 いつもの気配と声音で彼女と喋りながら、彼は私から遠ざかっていく。



 ……葉月。

 葉月が……ほんの一瞬、戻ってきた。

 ほんの一瞬だけれど、葉月があの身体を動かした。


 そうとしか思えなかった。


 唇を噛み締め、きつく拳を握った。



 さよならなんて、言わない。

 絶対に。

 これからも、私はあなたの傍にいる。

 私が、あなたに寄り添う存在になる。何が何でも。


 私は、あなたの目の中に映り続ける。最後の瞬間まで。



 ——そのために。

 これから、何をしよう。


 遠ざかる二人の足音を聞きながら、私は瞳を真っ直ぐ前へと向けた。




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