第4話
9月1日。
二学期が始まった。
放課後、美術室でデッサンに向き合っていた私は、部屋に入ってきた人影の気配にびくりと顔を上げた。
葉月——
ではなかった。
リュックを肩にかける背負い方も、歩き方も、細かな仕草も——全部、違った。
彼はどこか慌ただしい気配で準備室へ向かおうとする。
「おー霧島。その後、体調どうだ?」
霧島くんに気付いた顧問の声掛けに、彼は頭を掻きつつ苦笑いを浮かべた。
「いや、せんせーもうやばいっすよ。なんか俺、すげーおかしい体験したっぽくて。目が覚めたら、家のベッドだったんすよ」
「はあ? 全く意味がわからんのだが?」
「いや、7月1日、事故に遭った瞬間のことまでは思い出せるんだけど……目が覚めたらうちのベッドで。パニクって母親に日にち聞いたら、8月27日だっていうんですよ。え、ほぼ2ヶ月経ってんじゃん、どうなってんの!?って。
母親の話だと、事故後2日間意識がなかったらしいんですが、意識戻ってからは回復は順調で、7月10日に退院したって言うんです。8月からはほぼ毎日部活行ってた、って……マジでなんも覚えてなくて。
昨日病院に調べに行ったんですが、原因はよくわからなくて。事故後の記憶障害の一つじゃないか、ってことでした。
謎の浦島太郎状態でかなりパニクッてますけど、でもまあ夏休みの宿題は全部終わってるし、むしろすげーじゃん俺!って感じで」
「ははは! その明るさ、お前らしいよ。よくわからんが、まあ深刻なことではなさそうで良かった」
「ですね。あざすっ」
キャンバスに顔を向けながらも、私の耳はその会話のひと言すらも漏らさず聴き取っていた。
準備室に入り、しばらくして出てきた霧島くんは、釈然としない顔で私の方へ寄ってきた。
「あの、真田さん、だよね?」
「……はい」
声を掛けられ、恐る恐る顔を上げた。
葉月のものとは全く違う眼差しが、私を見ていた。
「真田さんて、夏休み中部活とかよく来てた?」
「……来てました」
「さっき、俺と顧問が話してたの、多分内容聞こえてたよね?」
私は黙って頷いた。
「じゃさ、ちょっと聞きたいんだけど……俺、ここにちょいちょい来てたかどうかとか、知ってる?」
私は、霧島くんの目の奥をじっと見つめた。
「毎日、来てました。
時々、話をしました。
夢中で油彩を描いていました。——とても、素晴らしい絵でした」
「えっ、そうなの?
準備室とかに、その絵あったりする?」
私は、小さく唇を噛んでから、答えた。
「……その絵、ないと思います。
夏休みの終わり頃、完成したって。誰かにあげるんだ、って言ってたから」
「えー……あげるって、誰によ?」
霧島くんは、困ったような顔でガシガシ頭を掻く。
葉月。
私のこと、見えてる?
声、聴こえてる?
あの絵のことは、誰にも言わないよ。
あれは、私とあなただけのもの。
私は、霧島くんの目の奥をじっと見つめ続けた。
*
秋が来た。
霧島くんは、すっかり美術室に来なくなった。
どうやら、彼女ができたらしい。
美形でスタイルのいい女子と二人で下校する様子を、何度か見かけた。
時間が経っても、葉月との時間は私の中にくっきりと残り、むしろその色を鮮やかにしていく。
廊下などですれ違ったりする時に、どうしても一瞬、霧島くんに目が行ってしまう。クラスが違うからなかなか難しいけれど、チャンスがあれば霧島くんの前を敢えて横切ったり、わざと近くで大きな声を出したり、笑ってみたり。
美術室で、私が舜くんの視界に入ることを常に願っていたと話した葉月の言葉が、頭から離れなかった。
たとえ、もう笑い合えなくても——舜くんの中にいる葉月に、私の存在を感じ続けてほしかった。
いつも傍にいるということを、伝えたかった。
12月、冬休み前の放課後。
「真田さん、ちょっといい?」
廊下で、突然霧島くんに声をかけられた。
「……うん」
霧島くんの後について、フェンスの外に林が茂る静かな校舎の裏庭に来た。
何だろう?
もしかして……
葉月?
葉月、戻ってきたの?
心臓が、胸を破りそうに暴れる。
そんな私の耳に、霧島くんの声が届いた。
「あのさ。
ぶっちゃけすごい迷惑なんだけど」
「…………」
振り向いた霧島くんは、私を冷ややかな眼差して見つめた。
「俺、彼女いるんだよね。悪いけど。
真田さん、なんかいつもチラチラ俺のこと見てるよね? クラス違うのにわざと傍に来て変にはしゃいだりとか、マジキモいんだけど。
もしかして、夏休み明けに美術室でちょっと喋りかけたあれで、誤解させちゃったとか? 悪いけど、それないからさ」
「…………」
言葉にならない感情で、顔が次第に熱くなる。
拳が、無意識にスカートの裾をぐしゃぐしゃに握った。
「あ、ちょっと言い方キツかった? ごめんね。ってか、俺の話わかってくれたらいいんだけどさ。
変な感じに付き纏うの、もうやめてよね?」
霧島くんは、ニッと薄く口元を引き上げると、くるりと背を向けて校舎へ戻っていく。
遠くなる背中が、目の中で滲み、ぐわぐわと歪んだ。
葉月——
その背中に向けて叫びかけ、ぐっと喉を押さえつけた。
彼の姿が校舎の角を曲がって消えると同時に、私はその場へしゃがみ込んだ。
激しい嗚咽が、溢れて止まらなかった。
次第に暮れていく冬の校舎裏で、私は小さく丸まって泣き続けた。
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