第3話
酷暑の8月中は、他の部員はほとんど美術室に姿を見せなかった。美術室は、私と葉月くん二人だけの貸切空間のようなものだった。
私たちは毎日それぞれの創作に没頭し、コンビニで買った適当な昼食と飲み物を机に広げてくだらない話で笑い合った。
「葉月くん。
この絵、見るたびに引き込まれる。すごい引力だね……」
8月11日。
食べかけていた菓子パンを放置し、葉月くんの描く夜空と黒い森を眺めながら、私はその日も感嘆を漏らした。
「俺さ、舜の中で、いつもめっちゃ絵描きたかったんだ。
で、もしも自力で描けるなら、絶対これを描くって……何となく、そんなこと考えてた。まさか、叶うとは思わなかったけどな。
ってか、真田さん褒め過ぎ」
そんな返事をしながら、葉月くんは少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせた。
「だって、ほんとにすごいんだもん」
「あのさ、真田さん」
「ん?」
「美桜、って呼んでいい?」
私は菓子パンを危うく床に落としそうになる。
「なっ……なんで、急に」
「いや、別に。いちいちさんとかつけるの、なんか面倒くさいし。『ミオ』って名前、一瞬で呼べて便利だし」
随分雑な理由を口にする割に、葉月くんの目は全然笑っていない。
その表情の真剣さに、私も思わずムキになって答えた。
「——じゃ、じゃあ。私も葉月って呼ぶ! お返し!」
「お返しって」
緊張が解けたように、葉月はふっと柔らかに微笑んだ。
安い菓子パンを齧りながら、私は彼の隣でキャンバスの森の奥をふわふわと彷徨った。
8月21日。
私は意を決し、朝6時に起きて、お弁当を2つ作った。
料理には全く自信がない。けど、1週間母の特訓を受けながら、私なりに料理の練習をやりまくった。
「お母さん、男子が好きなお弁当のおかずのアイデアと、作り方、教えてくれない?」
覚悟を決めて母を頼った私に、母は「あー、ね」みたいな顔でニマっと笑った。
甘い卵焼きと、豚肉の生姜焼き。ほうれん草のバターソテー、マカロニサラダ。プチトマト。母に叩き込まれたメニューたちを、一品一品全力で作り、お弁当箱に詰めた。センスない、と思われないよう、色の配置も散々迷いながら。
その昼、12時少し過ぎ。
死ぬほど恥ずかしい思いを堪えて突き出した紙袋を、葉月はじっと見つめてから、恐々と受け取った。
「え……何」
「いいから。とりあえず黙って食べて」
あまりの気恥ずかしさで葉月の方を見られない。深く俯きつつ自分の分の蓋を開ける。とりあえず彩りは問題ない。
しかし、緊張のせいか、味の出来栄えは果たしてどうなのかよくわからない。
一方の葉月は葉月で、一言も発することなくただガツガツと食べ進めている。
「……ねえ葉月、いい加減なんか言ってよ!」
溜まりかねた私の要求に、はっとしたように顔を上げ、葉月は呆然と答えた。
「……嬉しすぎて、美味すぎて……よくわからん」
「なによそれ!」
思わず吹き出した。いつも無愛想なばかりの葉月が、びっくりするほどの間抜け顔になっていた。
葉月のその顔が、笑いのツボに入って止まらない。ヒーヒー言いながら紙パックのカフェオレに手を伸ばした。
「美桜」
「ん?」
「俺の存在を……『葉月』の存在を知ってるのは、この世界で美桜ひとりだけなんだ」
不意に、葉月は私をじっと見つめて呟いた。
私は、無理やり明るい声を作って返す。
「誰にも、まだ話してないの?」
葉月は、いつものように浅く笑った。
「——舜が、いつ覚醒するかわからないしな」
「…………」
気づけば、指が小さく震え出した。
その指を無理やり押さえ込むように拳をきつく握り、私は喉から言葉を絞り出した。
「舜くんが、意識を取り戻したら……葉月とは、もう会えないの?」
「……」
「このまま、葉月がその身体の主になる、っていう可能性はないの?」
「……ないね。恐らく。
俺の脳は、一度死にかけた不完全な脳だ。舜の脳の中のごく一部分に過ぎない。それは間違いないことだから」
「——……」
「あー。まじごめん。
こんな話、するつもりなかった。
弁当、マジで美味かった」
そう言って、葉月は初めて見るような鮮やかな笑みを浮かべた。
飲みかけていたカフェオレのストローに、私はもう口をつけることができなかった。
翌朝は、強い雨だった。
いくら待っても、葉月は美術室に姿を見せなかった。
8月25日、午前9時少し過ぎ。
丸三日間美術室に姿を現さなかった葉月は、朝の日差しの中で机に両腕を折り曲げ、顎を乗せてうとうとと眠っていた。
美術室に入ってきた私の気配に気づいたのか、静かに瞼が開く。
「——おはよう」
「おはよ」
私の挨拶に葉月は淡く微笑み、椅子からゆるゆると立ち上がった。
どこか怠そうに身体を屈め、足元に置いていた麻のトートバッグを持ち上げると私に差し出した。
「これ」
「何?」
「俺がずっと描いてた、あれ。完成したから」
「え……」
バッグから取り出したキャンバスには、この上なく清澄な気配が漂っていた。
私が感嘆を抑えられなかった、深い夜空と黒い森。あれから更に幾重にも加筆が施されていた。その画面の中央には、一際白く輝く大きな雄鹿が、私を真っ直ぐに見つめて佇んでいた。
これは、葉月だ——。
鹿の眼差しに湛えられた、深く温かな気配。
思わず、目の奧がぐっと込み上げた。
「……私、もらっていいの?」
「うん。
これ、最初から美桜のために描いた絵だったから」
「え……?」
「8月1日。——あの日、俺、美桜に会いにここへ来たんだ」
気怠げだった目にぐっと力を込め、葉月は意を決したように私を見つめてそう告げる。
「……」
「舜の脳の奥で、俺はいつも美桜を見てた。
あいつは陽キャで活発で、じっと何かを見つめたりなかなかしないから。でも俺は、一年の春に美術部に入部した頃からずっと、美桜が気になってた。
すごくいい雰囲気の絵を描く子で、目立たないけど、創作にすごい情熱があって。時々見える笑顔が自然で、優しくて……
舜がたまに美術室に顔出す時は、美桜がこの部屋のどこかできっと絵を描いてるに違いないと……舜の視界に、美桜の姿が少しでも長く映りますようにと、本気で願った。
あいつの好みは、美形でスタイルいい女子ばっかだから、美桜はなかなか視界に映らなくてさ」
「…………なによ、それ」
口からは文句っぽい言葉が出ているくせに、目からは涙がこぼれ落ちそうになった。
「だから、事故後目覚めて、この身体を自分が自由に動かせると知った瞬間は、心臓が止まるほど嬉しかった。自分の力で美桜に会いに行ける、話しかけられる、って。
8月1日の朝の俺の気持ちがどれだけ舞い上がってたか……マジで、笑えるくらい」
「ねえ葉月、お願い。消えないで。
ここにいて」
抑えようもなく、言葉が唇から溢れた。
それ以上葉月を見つめていられず、顔を俯けて涙をぼとぼと落とす私の肩を、温かい腕がそっと包んだ。
「ここ数日、どうしようもなく眠くてさ。這ってでもここに来たかったんだけど、ダメだった。
多分、舜が目覚めかけてるんだと思う」
「…………」
「美桜、こっち見て」
涙を必死に擦り、顔を上げた。
「ありがとう。
めっちゃ楽しかった。
描きたかった絵を描けた。美桜と、こうやって笑い合う時間を過ごせた。全力を注いだ作品を、美桜に渡せた。
美桜のこと、いつも見てる」
「やだってば……!!」
私は葉月のシャツの袖を掴み、強く揺さぶりながら子供のように泣きじゃくった。
その日を最後に、葉月が美術室に姿を現すことはなかった。
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