弘徽殿にて 5

「皇后さま、また追風の君がお越しです」


 女房がそわそわとした表情でそう告げる。先日、従兄さまが皆の前であんなことを言ったものだから、すっかり女房たちはその気になっているよう。


「何事もないわよ」


 そう念を押してから、ここへ通すよう命じる。にこりと微笑み返事を返すその様子は、一体どれほど理解したのやら。


 ここへと通された従兄さまは、予想に反してやや深刻な面持ちだった。これは父さまが絡んでいるのだわ。そう直感する。


「皇后さま、大臣さまより文を預かっております」


 案じた通りの言葉に、私は女房たちを全員下がらせた。従兄さまの表情と父さまの名に、女房たちも流石に浮わついた話ではないと悟り足早に去っていった。


「御簾を上げねば文をお受け取りいただけませんね」


 こんな時でも軽口をたたく従兄さまに呆れつつも、仕方なしと自ら御簾を胸まで上げる。


「すべて上げてはくださらないのですか」

「まだ傷が癒えませんので」


 そう答えつつ、唐松からの忠告を思い出す。せめて顔だけでも見せぬようにしておこう。それが従兄さまへの意思表示にもなる。


「早く癒えますよう祈っております」


 従兄さまが緋色の懐から文を差し出しながら言うのを黙って聞く。どこまでが父さまの絡んだものなのか分からない。


 文を受け取り広げる。


 帝が無位の娘を宮中に引き入れようとしている。動かす前に殺せ。


 挨拶もなく、手短にそう綴られていた。前回よりもさらに切羽詰まった様子が伺える。気が立っているところに主上の様子が舞い込んできて急き立てられているのやもしれぬ。宵宮さまから主上に動きがあるとの話は聞いていない。


 私が文を読み終えるまでのわずかな間を、わんわんと虫の音が柱の間を響き渡る。


「お読みいただけましたか」

「ええ」


 そう答えると、従兄さまはさらに懐から何かを取り出す。両手に収まる小さな細長い布のかたまりだ。黙って差し出されるが、受け取って良いものか分からない。従兄さまがいつまでも差し出した腕をそのままにしているので、ついに受け取ってしまった。


「これは」


 布に包まれているものは、見た目よりもずっしりと重くて硬かった。予想しない重みに手が滑りそれを落としそうになる。


 手にはまるその形が、何をするものか分かって血の気が引く。すぐに従兄さまに押し戻そうとしたけれど、従兄さまにその手ごとぐっときつく握り込まれた。


「文と共に渡されました。懐刀です」

「受け取れません! こんなものを渡しにいらっしゃるなんてひどいわ!」

「皇后さま、落ち着いてください」


 従兄さまの手の力に恐れを感じて息を呑む。従兄さまは手の力を緩めぬまま、ゆっくりと話した。


「夜殿に入りこれで主上の胸を突くのです。誰に見られても構いませぬ。すべては大臣さまが丸く収めてくださいます。お一人で不安なお気持ちもおありでしょう。もし心細ければ私がお手伝いいたします」


 全く理解できない。小刻みに手が震え、小袿の裾がわずかに波打つ。私の震えを抑えるように、従兄さまに手を握り直された。冷えきった私の手に反して、従兄さまの握る手は熱い。従兄さまの手に抵抗するように強い口調で返す。


「以前もお答えいたしましたが、情がなければ殺して良い道理などありませぬ」

「道理の話をするのであれば、主上はとうにその座を降りねばなりませんでした。妖しい姫の言葉を信じてその権力に執心すべきではないのです。もっと多くの人々の生がかかっているのですから」


 静かに言われて私は返す言葉が見つからない。確かに主上が今なさっていることに、ひとつも褒められることはない。一刻も早く代替わりすべきであることは分かっている。それでも、やはり受け付けない。


「主上が誤った選択をしていることは分かっております。しかし、それを正す方法が暗殺だけとは思えませぬ。他に手を尽くしてから考えるべきことです」


 なんとか絞り出すようにそう言うと、従兄さまの握る手が緩んだ。そして、私を労るかのようにそっと腕を引き寄せ、優しく私の手の甲を撫でる。突然のことに驚いていると、風に吹かれて束帯から蘭の香りが漂い、忘れていた香りに鼓動が増す。


 従兄さまはそっと呟くようにこぼす。


「皇后さまの真っ直ぐなお心は今も昔もお変わりありませんね」


 思わず顔を上げて従兄さまの顔を見上げると、御簾越しに優しく微笑んでいた。


「皇后さまが納得されないのも理解はしております。それを承知でこの刀をお渡しすることが、どれほど苦しいことか。しかしながら、誰かが為さねばならぬこと。主上が話し合いを拒んでいる以上、他の手立てを打てるほどの余裕はこの国にないのです」

「そんなことは……」


 ない、と告げたいけれどもそれ以上のことは従兄さまには言えない。何故、従兄さまは父さまの側に行ってしまったのだろう。途方もない切なさにめまいがする。


 従兄さまは撫でる手を止めて、私の手の上に重ねた。御簾越しとはいえ至近距離のため、柔らかい表情のままの従兄さまと目が合う。


「主上のご様子は今に始まったことではありませぬ。皇后さまは幼い頃からお一人で内裏に立ち、皆の光となってこられたのです。どなたかの隣でお心を休める時も必要でしょう」


 私を慮る発言に心が揺れた。しかしそれもつかの間のことで、次の瞬間、胸の鼓動が止まる。


「主上を討ち取った暁には、私が大臣さまの後を継ぎ一条邸の主となるお約束です。その時には北の方として桔梗姫を推していただけるともお約束いただきました。桔梗姫、どうか私の側にいていただけませぬか」


 あまりの驚きに私の動きが止まっている間に、従兄さまは私の手に懐刀をしっかりと握らせ己の手を抜き去った。急な懐刀の重みに手が沈み込み、はっとしたときには従兄さまは御簾から一歩離れていた。


「返事は急ぎませぬゆえ、一度ゆっくりと考えてみてください。そも、まだ歌に返事もいただけぬ身ですからね」


 そう言って軽く笑うと、深々と一礼し優雅に立ち去っった。私は懐刀を抱えたまま、途方にくれてその後ろ姿を見つめていた。けれども、遠退く従兄さまに気付いて女房が何やら声をかけているのが聞こえて目を覚ます。こちらにも女房が戻ってくる足音が伝う。これをどうにかしなくては。


 隠さねばならない物が、また増えてしまったわ。前回の附子とは異なり、文筥に入れておくのは厳しい。仕方なく、自らの懐にそっと差し込んだ。

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