弘徽殿にて 4

 今日の皇后さまは、声に張りがない。凛とした普段のお声とは異なり、心持ち沈んだ様子であった。気になるが何かあったのかと尋ねるには、周りに女房が多い。


「中宮さまも梨壺の里邸に入ったそうです。間もなく私もそちらへ下がるつもりです」

「本当になさるのですね」

「宵宮さまにはご心配をおかけします」


 御簾の向こうで静かに笑う可愛らしい声が聞こえた。本当に困った人だ。


「近頃、左大臣の虫の居所が悪いとも聞きますが、それもかぐや姫が原因でしょうか」


 どうやら自邸で連日荒れており、家人も手を焼いていると噂だ。大抵の噂には尾ひれが付くものだが、左大臣の怒りに関してはひれが付いた試しがない。


 一拍おいて、皇后さまのため息が漏れた。


「お恥ずかしながら、そのようです」


 さらに沈む声音に、皇后さまの沈痛なお気持ちを察する。憔悴した雰囲気をみるに、皇后さまにとっても左大臣の影は大きいようだ。皇后さまの心労を広げぬよう、話題を少しずらす。


「左大臣が内裏に顔を出さなくなった代わりに、追風どのをよくお見かけします」


 何気なく発した言葉に、皇后さまが息を飲んだ。追風どのは皇后さまの従兄であるが、何か関係があっただろうか。仲が良いとはよく聞くが、左大臣の話に何か噛んでいるのやもしれぬ。


 女房たちが身動ぎせずに静かに座っているところを見ると、少なくともここでこれ以上尋ねることではなさそうだ。


「追風どのが参内なさるようになってから、女房たちの視線を多く集めているようですね」

「ええ、そのようですね」

「左大臣にも取り立てられておりますから、有望な公達としてさらに衆目を集めるのでしょう」


 追風どのは左大臣に上手く取り入り、実子をしのぐ信頼を得ている。己で打ち立てた手柄は多くなく、勤務態度もそこそこであるのに、左大臣の一存で位を上げている。貴族の立ち振舞いとしてはある意味優秀なのやもしれぬが、権力に媚びるその姿勢はあまり感心しない。


 その上、己の評判に傷が付かぬよう、未亡人や後見人のない姫など噂の立ちにくい相手を選んで遊んでいるというのもまた好ましくない。


 弘徽殿にも頻繁に顔を出していると聞くが、皇后さまに懸想しているわけではなかろうか。一抹の不安がよぎる。


「宵宮さまは追風と面識がおありですか」


 皇后さまは静かにお尋ねになった。


「左大臣と共に居るところで挨拶を交わした程度で、それ以上のやり取りはございませぬ」

「そうですか」


 それからまた皇后さまは深く考え込まれているのか、何もお話しにならなくなった。


 段々と日が落ち、辺りが暗くなってきた。気を利かせた女房が、皇后さまのため御簾の内で火を灯す。するとわずかに御簾の内の方が明るくなり、皇后さまの影が鮮明に浮かび上がった。


 御簾の隙間からわずかに見える皇后さまのお姿に胸を掴まれる。見てはならぬ、と思うが目を離せなかった。その白い肌と艶のある黒髪のなんと美しいことか。わずかな灯りを受けて光るお姿に釘付けになる。


 お声と文の文字から想像するお姿と違わぬ、流麗で繊細な横顔だった。今までに感じた静かな優しさと誠実さがお姿と重なりあう。


 このお姿と内面を知っていて、一体他の誰に恋をするというのだ。主上の愚かさに驚き、追風どのの存在に警戒する。


 すでに皇后という身の上でいらっしゃるが、それでもこの方の心を求める衝動が沸き上がる。


「宵宮さま」


 呼び掛けられて、はっと意識を戻した。御簾越しに真っ直ぐ皇后さまがこちらを見つめていらっしゃる。


「はい」

「間もなく、私も梨壺の里邸へ参ります。その間、後宮にはいかなる訪問者も受け付けぬことと女房たちに厳命しております。家族も然りです」


 それは、左大臣や追風どのを指しているのだと察した。あの二人に知れ渡ったら一大事である。私は深く頷いた。


「大抵の者は大事なく引き下がると思いますが、そうでない者もいるでしょう。その時はお力を貸していただきたいのです」


 皇后さまの真剣な眼差しに切実さを感じる。左大臣が怒りながら参上されたら、女房では何とも出来ぬであろう。私が上手く気をそらすしかあるまい。


 すでに策は動き出している。皇后さまのためにも、是と言うしかない。


「お任せください」

「そう言っていただけてよかった。宜しく頼みます」


 皇后さまの表情がほっと和らぎお声が弛んだのを聞いて、私の頬もほころんだ。


 安心したご様子の皇后さまを見納めて、この場を退室した。后方が後宮を不在にされる間、内裏を歩き回っても不審に思われぬよう、宿直を融通してもらわなねばならない。

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