弘徽殿にて 3

 呼んでもいないのに、また従兄さまがやって来た。理由は明らかだ。


「皇后さま、まだ御簾を上げていただけませぬか」


 涼しげな顔でそんなことを言うなんて。天気の話でもするようにさらりと言われて、私は一瞬御簾の向こうをきっと睨んだ。


「日差しが暑いもので。従兄さまもお体を悪くいたしますから、どうぞ私にはお構いなくお引き取りください」

「ふむ、では日が落ちれば会いに来ても?」


 従兄さまの言葉に、居合わせた女房たちが色めき立ち黄色い声を上げた。私は慌てて制する。


「何を申すのですか」

「思ったことを申し上げたまで。日が落ちれば御簾を上げていただけるのでしょう?」


 一体どういうつもりなのかしら。内裏に上がってからは、こんなことは一度も言われたことなどなかったのに。昨日見た私の頬を気にしているのだろうか。


「私のご心配をしていただいているのであれば、どうぞお気になさらず。時が経てば色も引きます」

「色の問題だけではございませぬ。皇后さまのお心を案じております」


 そう告げる従兄さまの顔は真剣で、ますます混乱する。喜びそうになる胸を吐く息で押し留めて下を向く。


 女房たちの期待に満ちた眼差しが痛い。ここに唐松が居ればこの空気を収めてもらえるのに。残念ながら不在だ。


「大臣さまとのことは私も聞き及んでおります。大臣さまの嵐は私が何とかいたしますのでご安心ください」

「ありがとうございます。今は従兄さまが頼りですわ」


 この言葉に嘘はない。兄たちは皆、父さまを嫌がって見て見ぬふりだもの。邸にはほとんど寄り付かず、来るのは従兄さまばかりだったから。父さまが従兄さまをとりわけ取り立てて可愛がるのも納得する。


「皇后さまのご心配もさせてはもらえませぬか」


 また女房の悲鳴があがる。私は堪えきれずに扇を振った。近くに居る女房がはっとして御簾の外に進み出る。他の女房たちも表情をすぐに引き締め姿勢を正した。


「追風の君、皇后さまはお引き取りをお求めです」


 女房がそう告げると、従兄さまは柔らかく微笑んで頷いた。


「皇后さまは謹み深い方だからね。君たちが居る前では頷けるものも頷けまいな」


 従兄さまはさっと立ち上がると御簾越しに私を見つめた。そして尺で己の左頬を軽く叩いて見せる。


「癒えたかどうか、人目を忍んでお伺いいたしましょう」

「まあ」


 あまりに大胆な発言に女房が驚くのも構わず、微笑んだまま従兄さまは簀子をゆっくりと進み去っていった。


 従兄さまの姿がすっかり見えなくなると、部屋中が騒がしくなる。


「皇后さま、追風の君はとても皇后さまをお慕いされているようですわ」

「本当に、以前から左大臣と一緒ではない時もあしげく通われておりましたし」

「先ほどの熱のこもった眼差しとお言葉も素敵でしたわ」

「他の殿方と違って悪い恋の噂もございませんし、誠実な方ではないでしょうか」

「皇后さま、追風の君に手引きを求められたら私は力をお貸ししたいですわ」

「私も追風の君は良い方だと」


 女房たちが立て続けにそう言われて、私は頭を抱えた。


「私は皇后です。主上以外は誰であろうと会い通じることはありませぬ」


 そう一言告げても、女房たちは納得しなかった。まだ言い募ろうとする女房たちの騒がしさに、外から声がかかる。


「皇后さまの御前ですよ、もう少し静かになさい」

「ああ、唐松。ここへ」


 唐松だわ。その声に光が差す心地がした。慌てて口を慎む女房たちを尻目に、唐松が側に控える。周りの女房のこれまでの会話と訪問者から、概ねの内容を察した唐松は、一旦皆を下がらせた。


 唐松と二人になりほっと一息つくと、唐松が不安そうにこちらを覗き込む。


「女房たちが申し訳ございませんでした」

「それはいいのよ、従兄さまが女房の間で人気が高いことは知っていたから。主上との仲が冷えきっている上に、色のある話もない主が人気の貴公子に声をかけられて驚いたのでしょう」


 従兄さまも言っていた通り、ここでは多くの恋が生まれる。恋なき人生に、人々は憐れみさえおぼえるのだ。己の主がそのような侘しい日々を過ごしていると思えば、このような突然の色めきに心沸き立つのも納得するというもの。


 唐松は眉を下げながら首を振る。


「確かに驚きもあったでしょうが、皆皇后さまのお心を案じているのです。お一人で内裏を背負って立つ皇后さまに、どなたか心の支えとなって寄り添ってくださる方が居ればと」


 そこまで言ってから、唐松は深いため息を吐いた。


「それが追風の君であるとは。彼女たちは皇后さまと追風の君の間柄について深いことは存じませんから、純粋に良いと思って申し上げたのです。お許しください」

「分かっているわ。貴女が謝ることでもないのよ」


 私が従兄さまを慕っていたことは唐松しか知らぬのだから。こんなこと唐松にしか話せない。誰を責めることもないわ。ただ、この状況が長く続くのは耐え難い。


「しかし、追風の君は何故お姿を見ることにこだわっておいでなのでしょう」


 唐松の疑問に、私はうっと言葉に詰まった。従兄さまにこの頬を見られたことは、まだ誰も知らない。唐松の視線に狼狽えながらも白状する。


「実は、先日従兄さまがここへ来たときに見られてしまったの」

「先日、ですか。しかし、御簾を下ろされておりましたが」


 そこまで言ってから、唐松は目を見開く。


「まさか、追風の君が御簾をくぐってお入りだったのですか!」

「突然のことだったのよ、顔を見られる他は何もなかったわ」


 まるで言い訳のように答えると、唐松は少し安心したように頷いく。そして母のような顔で私を見つめつつ、そっと私の肩に手を添えた。


「皇后さまが望むのであれば、追風の君をもう一度お慕いされても良いのですよ。しかしもし、そうでないならば、追風の君はやや性急なようですからお気をつけくださいませ。お一人でお会いするのは避けた方がよろしいですわ」


 その言葉に、従兄さまに捕まれた腕がわずかに熱を帯びる。そっと熱に手を重ねて、静かに頷いた。そのどちらとも返事を返すことは、今はまだできない。


 その日の晩、従兄さまから文が届いた。


 夜のわずかな灯りの中、どんな内容かと緊張する。また暗殺に関わる内容だったならどうしようか。夏の虫が鳴く中、指先が冷えて上手く文が開かない。


 そうして、ようやく開いた文は和歌だった。


 顔にかっと熱が集まる。


「御簾の奥 月ぞさやけき 居る姫の 姿隠さむ 天の岩戸や」


 恋の歌だわ。


 今まで、内裏に上がるまでついぞ一句も恋の歌を返してくれたことはなかったのに。私の恋心に気付いていながら、甘い言葉を口では言っても歌にはしてくださらなかった。なのに。


 どうして今になって、こんな歌を寄越すのかしら。


 傷付いていた過去の初恋を蒸し返される悔しさがある。それと同時に初めてもらう恋の歌に無性にときめきを感じて胸が苦しい。


 朱くなった頬を涙が伝う。白い単の裾で拭うも、あとからあとから溢れて止めどない。右も左も裾が濡れて重くなる。それでも止まぬ涙に、呆れてしまう。


 こんなひどい気持ちにさせるなんて。私には私の矜持がある。そのせめてもの反抗として、この歌の返事は返さなかった。

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