第13話
「――いつものやつ、やっていきます」
「それぞれ間隔を取って、床に寝てください……」
言われた通り、みな床に仰向けになる。冷たいフローリング材に素肌が触れると、とても不快だった。しかし誰一人文句を言わず、指示される通りに寝そべっていく。
「目を閉じます。体の力を抜きましょう。大きく鼻から吸って口から吐く。鼻から吸って、口から吐く。何も考えず、自分の身体の感覚に集中してください……」
良い声で備前島さんは指示を続ける。その様子は声優というよりも催眠術師のようだ。
「何も考えず」と言われたが、僕の頭の中は邪心でいっぱいだった。
一体なんなんだろう、これは。
ヨガじゃあるまいし。
彼のレッスンは、今年の三月から始まった。隔週土曜日に開催され、受講するのはこれで三回目になるのだが、毎回毎回、同じことをさせられている。暗い部屋に寝かされ、深呼吸をさせられるのだ。売れっ子声優になるために必要なレッスンとは到底思えない。
坂口さんの「宗教団体かよ」という愚痴を思い出してしまい、呼吸が乱れた。徒歩三分のところに本物の宗教施設があるというのに。口元が緩んでしまう。
「何も考えない。集中……」
僕の集中力の無さを見透かしたかのように備前島さんが繰り返す。
「指先、つま先の力も抜いて。深呼吸……」
深呼吸をしていると、今度はすぐ隣で寝ている坂口さんの鼻息が気になり始めた。声が大きいやつは、鼻息まで大きい。
謎の時間はしばらく続いた。寝転がってじっとしているうちに眠気がやってくるが、寝ることは禁じられている。
「はい、ゆっくり起き上がって……」
講師の合図で、みな覚醒したてのゾンビみたいにゆらりと上体を起こす。
「心の中に、あなたを楽しい気持ちにさせる人を思い描いてください……」
彼はそんなことを言い出す。とりあえず、本多の顔を思い浮かべてみた。「漫才師になれる」と太鼓判をおされていた、中学生のときのクラスメイトだ。
「その人はあなたに何と言ってきますか……。あなたにどう感じさせますか……」
語りはますます教祖じみてきた。
束の間の沈黙があり、
「――う、うは、はははっ……」
初めに笑い出したのは、坂口さんだった。
「あはははははっ……、おい、まじ、やめろっ……! あは、あはははは!」
彼は苦しそうに身体をくねらせている。彼につられるように他の受講生たちも笑い始めた。
「うふふ!」
「く、くくくく……っ」
「ぎゃはっはっはっは……!」
みなそれぞれ、心の中に「自分を楽しい気持ちにさせる人」を思い描いているらしい。しかも、何か語り掛けてくるらしいのだ。みんな、馬鹿みたいに笑っている。
「……」
僕は、少しも笑えなかった。
本多もいつの間にか頭の中から退場している。
「あなたを楽しい気持ちにさせる人を思い描くんですよ……」
備前島さんの声に、みんなの爆笑が被さっていく。
理解に苦しむ時間は五分ほど続いただろうか。
「はい、みんな。一回リセット」
備前島さんがパン!と手を叩いた。
笑っていた生徒たちも落ち着きを取り戻し、息を整える。
「あっはっはっはっは! ひい、ひい……」
坂口さんだけは、まだ笑っていた。笑いすぎて過呼吸気味になっている。
彼を無視して、講師から次の指示が出る。
「次は、あなたを悲しい気持ちにさせる人を思い出してください……」
「あっははは、あっはははははは!!」
稽古場に彼の笑い声が響き渡っている。
「いいですか、あなたを悲しい気持ちにさせる人を思い出して……」
「あは、ははは」
笑い続ける坂口さんに、備前島さんがゆっくりと近寄る。坂口さんの大きな背を優しく撫で始めた。
「一回リセット。深呼吸しよう」
坂口さんは全身をひくつかせながら深呼吸を試みる。
やっと落ち着きを取り戻したところで、「あなたを悲しい気持ちにさせる人を思い出して……」と再び囁かれている。
「……う」
坂口さんの顔がくしゃりと歪んだ。
「う、うわ、うわあああああああああっ! おばあちゃんっ! おばあちゃーん!!」
坂口が泣き始める。赤く染まった顔が、汗と涙でびしょびしょになった。
………………………………おかしくなったのか?
引いた気持ちで彼を眺めた。気付けば、他の受講生たちもしくしくと泣き始めている。さっきまで腹を抱えて笑っていたのに。共感性羞恥というやつだろうか、この場にいることが心底恥ずかしくなってきてしまった。
みんなを眺めていたら、備前島さんと目が合った。こっちに寄ってくる。心の中で「ひい」と悲鳴をあげながら、つい身を強張らせた。
「さあ、きみも今の気持ちを……」
彼の大きな手が僕の背中をさする。
「う」
今の気持ちなんて言えるわけがない。「みんなおかしい」だなんて、そのような、倫理的に良くないこと。
「あ、あの」
「僕に話しかけなくていい。今ある気持ちを吐き出して……」
「で、できません」
「答えなくていいです。うー、でもあー、でもいいから、吐き出す……」
「え、ええ……?」
備前島さんの言っていることは、少しも理解できない。
「『ええ?』じゃなくて、その気持ちを、そのまま吐き出す」
「……」
「『なに言ってんだ?』って思ってるよね。それをそのまま、吐き出す」
「……」
「吐き出す」
「……」
わけがわからない。
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アイの姿を探してね。 ばやし せいず @bayashiseizu
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