第12話

 被写体の女の子を目にした途端、坂口さんが威勢を失う。ばつの悪そうな顔をする彼に「病気らしいです」と頷いた。


「僕からは返事が出せないので、なんの病気かとか、なんで僕なんかのファンなのかとか、詳しいことは全然知らないですけど」


 写真の中の女の子は目深に帽子を被り、横を向いている。恥ずかしいのだろうか。

 彼女はリクライニング機能のついたベッドの上に座っているようだ。容姿の全貌はわからなくとも、何かしらの病気を抱えていることが窺い知れる。


 写真の裏には、「応援しています。小清水有愛」とだけ書かれていた。

 彼女からのメッセージはいつも簡素だ。ときどき、「長い検査を頑張りました。」とか「院内学級のテストを頑張りました。」とか、近況が短く書き添えられていることもある。

 今までのコメントから得ることができた彼女の情報は、子どものときからずっと病気をしていることと、僕と同年代であることくらいだった。

 彼女がちまちまとカッターを使って切り絵を制作する姿を想像すると、応援されているのだなと有難くなる。でも、この切り絵に見合うほどの価値が自分自身にあるのかどうかは、はなはだ疑問だ。


「おまえからはファンレターの返事が出せないって? ああ、まあそうだよな。コンプラ的なあれだな!」

「そうです。コンプラ的なあれです」


 テキトウに答え、切り絵の作品と写真を丁寧にしまい直す。


 二人で並んで雑談しながら、徒歩三分のビルの前へ移動した。今から僕たち預かり所属はここでレッスンを受けることになっている。


「まだ空いてねえな」


 坂口さんがビルの階段の下をのぞく。

 地下一階の「第三レッスンスタジオ」と標識の貼られたドアには小窓があるが、その向こうは暗く、人の気配はまだ無い。備前島びぜんじまさんという講師がが鍵を開けてくれるまでは稽古場には入れないので、ここで待っているしかない。


「しかし、いつまで続くんだろうな。備前島さんのあのレッスンは」


 坂口さんは壁に寄り掛かり、スマフォのゲームをプレイしながらぼやいた。


「毎回毎回、俺たちは一体、何をやらされてんだろうな? 宗教団体かよって。売れねえ声優から意味わかんねえレッスン受けて、なんか役に立つのかね?」

「おはようございますっ!」


 僕は誰もいない歩道に向かって勢いよく頭を下げた。つられた坂口さんも「おは、」と言いかけ、動揺のあまりスマフォを落とした。無人の道路から振り返り、「おいっ!」と叫ぶ。


「こら! 大人をからかうんじゃねーよ! 備前島さんが来たのかと思ったわ! 心臓止まるだろっ」


 彼は顔を真っ赤にして怒りながら笑っている。「大人」と自称できるほど大人ではないだろ、と胸の中でツッコミを入れつつ、僕もげらげらと笑った。

 坂口さんは、己の声のヴォリュームと幼稚さに無頓着なところがある。関係者の悪口を公衆の面前でしてはいけない。そんなことも理解できない彼の子どもっぽさが本当に腹立たしい。


 坂口さんだけには負けたくないと常々思う。声の大きさには敵わないが、声質なら圧倒的に僕のほうが上だ。演技の実力は五分五分か、こちらのほうが少々勝っているだろう。それなのに相手は同格だと考えている節がある。本当に、本当に腹が立つ。


 そのうちに、僕たちの前に黒縁の眼鏡を掛けた初老の男性が現れた。「売れねえ声優」こと、備前島さんだ。


「おはようございます!」

「おはようございます!」

「おはようございます。早いね」


 備前島さんが片手を上げる。指の間にぶら下がった稽古場の鍵が光った。

 彼は僕たちの所属する声優事務所の中でもとくに古株だ。立ち上げ当時から所属しているらしい。

 ホームページには彼のプロフィールが載っているのだが、「主な出演作」が更新されることはほとんど無い。無いから、こうして新人声優や養成所生の講師なんて受け持っている。

 売れていないけれど、やはり曲がりなりにも声優で、声にはハリがあり低くて渋い。身体が大きいと地声が低くなると言われるけれど、備前島さんの背丈は僕とそう変わらない。

 ちなみにこの業界は、たとえ相手が講師であっても「さん」付けで呼ぶのが一般的だ。「先生」と呼んではならないことになっている。教え子と現場でともに仕事をする可能性があるからだ。同じスタジオに自分以上のキャリアを持つ声優がいるのに、自分だけ「先生」なんて呼ばれていたら、たしかに身の置き所が無くなってしまう。


 備前島さんによって稽古場が解放され、後からやってきた受講生がぞくぞくと入ってくる。高校の教室の三分の二ほどの広さの稽古場に、「おはようございます!」、「おはようございます!」と元気な声が響き渡った。

 男子は稽古場で堂々と、女子はカーテンで作った狭い更衣スペースを譲り合い、それぞれジャージに着替える。着替えが済んだ女子は壁一面に貼られた大きな鏡の前で化粧直しを始めた。この鏡に触ったら即退所、と事務所から脅されている。


「あれ? あっちゃんと雄太は?」

「二人ともオーディションで遅刻」

「ああ、そういえば言ってたね」


 カーテンの向こうから、衣擦れとともにそんな会話が聞こえてくる。

 この場にいる受講生全員、ただの養成所生ではなく預かり所属の声優なので、オーディションの機会をもらえることがある。もちろん、機会は均等ではない。年功序列でもない。オーディションにありつけたとしても、大きい役なんて滅多に勝ち取れない。

 高校のクラスメイトである能登亜衣のとあいが気になっているという声優の「サトウコウタ」だって声は良いし、顔も整ってはいるけれど、一番大きい役は「クラスメイトB」。ちまたで噂されている通り、声優は厳しい世界だ。


 レッスンの時間となり、鏡の前に立つ備前島さんをみんなで囲む。軽くストレッチをして、発声練習し、活舌教本を読みあっていく。ここまでは養成所の授業と何一つ変わらない。

 備前島さんのレッスンは、ここからが特殊だった。

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