第11話
今が昼過ぎだということはもちろん理解しているけれど、「おはようございます!」と元気に挨拶をした。
室内には、ロータイプのキャビネットが間仕切り代わりに並んでいる。そのすぐ向こうにいた事務員だけが、僕に「おはようございます」と同じ挨拶を返してくれた。
奥にいるスーツ姿のマネージャーたちはパソコンを睨みつけ、スマフォを耳に当てながらぺこぺこと頭を下げている。預かり所属になってから何度も訪れているが、未だにこの殺気立った雰囲気は苦手だ。
気まずい思いをしていると、マネージャーの一人、三浦さんが僕に気付いてくれた。
「おはようございます」
息苦しい事務所内に凛とした声が響き渡った。
彼女も大昔、他の事務所で声優を目指していたそうだ。声質は良いのだが年齢がネックとなり、夢を諦めてマネージャーを始めたのだという。
マネージャーではあるけれど、元声優志望ということでアドバイスも的確だ。「清潔感を欠くな」、「自己PRは何を喋るかよりもどう喋るかを考えろ」、「読解力を上げるために国語ドリルを解け」。
彼女からのアドバイスは素直に受け入れてきたつもりだが、ただ一つ実行できていないことがある。
――恋をしたほうがいいよ。
恋をしたことが無い人間はアニメの世界でも恋ができない。
言い分は理解できるけど、こればかりは自分一人の力ではどうにもならない。
「はい。これが次のオーディションの原稿です」
三浦さんは僕に短い台詞の印字されたコピー用紙二枚を渡してきた。右端には僕の名前がメモされている。
「それから」
彼女は次にA4サイズほどの封筒を取り出した。
「またファンレターが届いてるよ。ゆあちゃん?から。彼女って、品の良いファンって感じだよね。月に一回くらいのペースで送ってくれてるっけ? 預かり所属のうちから彼女みたいな健気なファンがつくなんて、やるぅ」
僕は礼を言って封筒を受け取った。
封筒の表には事務所の住所と僕の名前。裏には大人びた字で「小清水有愛」と書かれている。差出人の名前だ。住所もしっかりと記載されている。なんと、僕と同郷らしい。すれ違ってもおかしくない距離に住んでいるようだが、彼女の事情を考えると実際に袖振り合うことは無い。
「おはようございますっ!」
空気をびりっと震わすような大声とともに事務所に入ってきたのは、坂口さんだった。
僕と同じく預かり所属の男性で、二十代前半。普段は花小金井という街のラーメン屋でアルバイトをしているという。声の大きさもさることながら、身長も高い。190センチあるらしい。そこら中に頭をぶつけるという自虐風自慢話を幾度となく聞かされ、すっかり辟易していた。
「二人で争ってきてよ」
三浦さんは彼にもオーディション原稿を渡す。僕たちは今度、同じアニメのオーディションを受けに行くのだ。
「こいつと殴り合って来ますよ! なあ!?」
つまらない冗談を言い、坂口さんは僕に拳を突き出してみせた。
「失礼します」
「失礼します」
坂口さんと二人揃って事務所を出た。
「おい、抜け駆けか~?」
階段を下りながら、彼は僕から封筒をひょいとひったくった。製本された台本か何かが入っていると思ったのだろう。「抜け駆けか~?」とおどけた口調だが、目は全く笑っていない。
この大男は年上のくせに、精神的に未熟な面がある。
苛立ちを隠しながら「ただの手紙ですよ」と説明し、封筒を奪い返した。乱暴に扱われては困る。
「手紙?」
「ファンらしいです。僕なんかの」
「ファン? 女か? ファンレターにしては封筒がデカいな?」
坂口さんがより食いつく。
うんざりした気持ちになりながら、三浦さんによって検閲済みの封筒をなるべく慎重に開いた。
「すごくないですか?」
中からクリアファイルを取り出して彼に見せる。無色透明なファイルの中に、切り絵の小さな作品が挟まっていた。「小清水有愛」という名前の女の子が、月に一度のペースで事務所に送ってくれるのだ。
送られてくる作品は毎回毎回モチーフが変わるのだが、今回は金魚だった。両手のひらに乗るくらいのサイズの金魚で、鱗や鰭が細い線で表現されている。丁重に扱わなければ、すぐに千切れてしまいそうな繊細さだ。
「へえ、すげえ細かいな!」
坂口さんは無邪気な様子で感心する。
「この子が作って送ってきてくれるんです」
同封されていたLサイズの写真を取り出す。この写真も、毎回添付されているものだった。
「どんな子、どんな子!? …………あー、なに、病気してんの?」
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