朝が生まれた。

深海かや

第1話

 朝が生まれた。


 磨りガラスの向こうにみえる薄明かりがそれを教えてくれた。私はお味噌汁にいれる油揚げを切っていたところで、ああ今日も生まれたのね、と胸の中で呟きながら目の前の蛍光灯の線を引いた。まな板の上にある油揚げの輪郭が、途端にあいまいになる。


 朝はまだ生まれたばかりだった。人々がそれを朝と呼ぶ程には成長しきっていなくて、ひかりも弱い。けれど、私にはとても愛しく思えて、その微かなひかりを頼りに切り終えた油揚げを鍋の中に放り込んだ。それは、汁を吸いながらゆっくりと鍋の底へと沈んでいき、かき混ぜるとかつおと昆布を合わせた出汁の香りがふわりと顔の前に広がった。


梨紗子りさこ、ちょっと出てくるよ」


 振り返ると、夫が勝手口のところに立っていた。白のポロシャツに黒のチノパンという軽装で、先日五十二歳の誕生日を迎えた割には肌に艶があり、白髪も目立たないせいか服装も相まってより若くみえる。目を向けながら、「そう」と私が放った声は扉の隙間から溢れた薄明かりに溶けていった。


 夫は毎朝、朝が生まれると家から出ていく。季節によって多少の誤差はあるけれど、朝が生まれると、何をしに行くとも、どこに行くかも告げず、風に乗るたんぽぽの綿毛のようにふわりと私の前から消えていく。


 朝が一回り大きくなった頃、夫が帰ってきた。一時間程前に庭先でみた朝露たちは、幾分強さの増した陽の光に喜び踊っているかもしれない。


「いただきましょうか」


 夫が帰ってくるまでに朝食は用意していた。ほうれん草のおひたしにだし巻き玉子、それから鮭の塩焼きとお味噌汁。手を合わせ、「いただきます」と口にする夫を横目に、私は味噌汁の入ったお椀を持ち上げた。ずずっと、汁を啜る音が鳴る。互いに無言で口を動かし、ぼんやりとテレビを眺めた。二人で住むには広すぎる家の、くじらの胃の中のようにすっぽりとひらけた大きな空間で夫と二人。咀嚼音とテレビの向こうにいる女性の溌剌とした声だけが室内を虚しく満たしていた。


「執筆があるから部屋に戻るよ」


 夫は作家をしている。文章を書くことを生業としている人たちは、もしかしたら皆そうなのかもしれないが、夫は出会った時から寡黙な人だった。自分の抱いた感情をあまり外には出さない人で、一向に中身がみえてこない夫に対して最初は少し苛立ちを覚えたりもしたが、いつしかその不器用なところも愛しく思うようになった。結婚してからすぐに子供を授かり、女の子ならこの名にしようと二人で元々決めていたので名前は明日美と名付けた。


 明日美は、あの寡黙な夫の遺伝子を引いているのかと疑う程に子供の頃から明るくて活発で、一度口を開けばまるで蛇口を捻ったかのように止め処なく話し続けた。


──お母さん、どうして氷が水に浮くか知ってる?


 台所で夕飯の用意をしていた私のエプロンを掴みながら、くりくりとした目を向けながら明日美にそう問い掛けられ、私はちいさく首を振り「知らないわ。どうして?」と笑みを向けた。すると、「氷はね水よりも軽いからなんだって。あんたに硬いのに、中身は水よりもぎっしり詰まってないみたいだよ。なんか、密度がどうとか、けいくんが言ってた」と胸を張りながら私に教えてくれたので、お父さんにも教えてあげたら?と促すと、風のような速さで居間を抜け、夫の元へと向かった。廊下の奥から明日美の溌剌とした声が漏れ始め、時折普段より幾分高い声で放たれた夫の相槌あいずちが、明日美の声を緩やかに追いかけるように続いた。それから三十分程経った頃に、「お父さんと水族館に行くことになった」と屈託のない笑みを明日美に向けられた。


 どうしてそんな事にと夫に問い掛けると、氷の話からかき氷の話になり、食べに行こうかと話していると、氷から連想したのかペンギンを見に行きたいという話になったそうだった。


「もう夕方よ。明日にしたら? 夕飯の用意もしてるのに」

「悪いとは思ってる。でも、もう明日美に約束しちゃったしな。車で二十分だしペンギンを見たらすぐに帰ってくるよ」


 夫の言うように家から二十分程のところにはちいさな水族館があり、そこにはペンギンもいる。でも、何もわざわざこんな時間に行くこともないのに、とため息をついた。


「ほんとに明日美に甘いんだから」

「かもしれないな。気を付けるよ」


  眉を下げ、ぎこちなく笑う夫を見ながら、本当にこの人は変わったなと思った。人の影響というものは計り知れないもので、ましてやそれが我が子だとその力は絶大なようだった。あれだけ寡黙だった夫が、明日美が生まれてからというもの感情をあらわにし、人並みに話すようになったのだ。けれど、それもあの日までのことだった。


 その日、成人してから上京していた明日美は憔悴しきった表情で帰ってきた。普段はこっちに帰ってくる時には前もって連絡してくる。居間に通してからも萎れた花のように力なく座布団に腰を下ろした明日美に一体どうしたの?と問い掛けると、私達を前にしてゆっくりと口を開いた。


「……なんだそれ。ふざけるなっ!」


 全てを聞き終えたあと、夫は両の手のひらで机を叩きつけ声を張り上げた。


「なんでそんなこと言うの? お父さんなら分かってくれると思ったのに」

「こんな事を聞いて納得出来る親などいるはずがないだろ!」


 手のひらで涙を拭う明日美に夫はつめたく言い放った。明日美は妊娠していたのだ。それも相手の男性にはそれを認知してもらうことが出来なくて、お腹の中にいる子を一人で育ていくことを報告しにきたそうだった。


「お前はまだ22歳だぞ。何もその選択を今選ぶ必要はないんだ。もっと先のことを考えなさい」


 私は双方の意見を聞きながらどちらにも寄り添うかたちをとっていたが、夫がそう言った瞬間まずいと思った。


「あなた」

「何で……こんな事に。相手の男はお前の人生を何だと思っているんだ。とにかく」

「あなた、駄目!」

「今すぐに堕ろしなさい」


 絶対に言ってはならないと思っていた言葉を夫が口にした瞬間、奥歯を噛み締めながら泣いていた明日美がゆっくりと顔をあげた。その目は赤く染まり、強い怒りを宿していた。


「い、ま……なんて」


 明日美の声が、震えていた。


「だから、堕ろしなさい」

「私の子供だよ?」

「それは分かってる。でも、何よりも大事なのはお前の人生だ」


 夫が言い切ったその傍から風のような速さで明日美が立ち上がり、振り下ろすようにして夫の頬を打った。


「最低だね。私のこと、何も分かってないじゃん。お腹の子も私なの。私の人生が大事だって言うなら、お腹の赤ちゃんだって大事にしてよ! 堕ろせなんて……そんなこと、二度と言わないで!」

「俺は絶対に許さないからな。もし、その子を産むというなら、お前は勘当だ。親子の縁を切る。それでもいいなら産めばいい!」


 夫が言い放ったその瞬間、両目いっぱいに涙を浮かべ明日美は家を飛び出していった。それが私達の目に焼き付いている最後の姿だった。明日美はそれ以来二度と帰ってこず、携帯の番号すら変えてしまった。


 あれから二年が経っていた。夫は今日も朝が生まれるのと共に家から出ていった。一時間程で帰ってきたので、いつものように互いに無言のまま朝食をとった。


「どうしたの?」


 普段なら朝食を終えるとそれから夕食までの間は二階にある自分の部屋に引き篭もる夫が、テーブルから中々立ち上がらなかった。


「ちょっと外に出ないか」


 微かに口元が震えており、何か良からぬ予感がした私は急いで身支度を済ませ、夫と連れ立って外へと繰り出した。


 四方を山に囲まれているこの辺り一帯は、どの季節でも一歩外に出ただけで森の匂いに包まれる。民家沿いを抜けてから山道に入り、更にその奥へと足を進めていた時、「お前は」と鳥のさえずりにすら負けそうな程の声を夫が放った。


「俺のことを恨んでるか?」


 私をみる目は今にも泣きそうだった。夫の後ろにある木々や葉が、春の柔らかな風を受けてさわさわと揺れている。


「どうして? 私があなたを恨む理由なんて」

「明日美を家から追い出した。大切な娘を、妊娠していたのに、俺は」


 私に涙を見せたくなかったのか不自然に会話を切り上げ歩みを速め、私の数歩先を歩いていく。その夫の背中が一回りも、二回りもちいさくみえた。そう思っていると、夫が足を止めた。目の前には鳥居がびっしりと苔に覆われた古びた神社があった。境内に敷き詰められている石畳にも青々とした苔が生い茂っており、賽銭箱は長年雨風にさらされていたせいか色がくすんでいた。


「毎朝ここにきていた」


 夫がそれをみながら言った。私は夫の隣に立ち、ゆっくりと笑みを向けた。


「知ってるわ」


 山奥にあるこの神社は古びてはいるが安産祈願にご利益があると、この辺りでは有名だった。毎朝家を出ていく夫をみながら私は気付いていた。夫の人となりを、誰よりも理解しているから。


「どうして」

「あなたが明日美の幸せを願わない訳ないもの。お腹の子が無事に生まれますようにって、明日美が健康でいれますようにって、あなた毎朝祈りに来てたんでしょ?」


 夫が天を仰いだ。頭上には木々や葉の隙間から柔らかな陽が溢れている。春のひかりだった。明日美が出ていってから二度目の春。


「今日、家に帰った時にポストを開けたらこれが届いてた」


 夫は後ろポケットから白い封筒を取り出し、私に差し出してくる。裏面をみて、目を見開いた。差出人は明日美だったのだ。


「この手紙を、俺は開けることが出来なかった。あれからどうなったのか、明日美に何があったのか、俺はそれを知るのが怖いんだ」


 地面に膝を崩す夫に、「明日美はきっと大丈夫」と声をかけ、私は封を切った。


『お父さん、お母さん、お元気ですか?


まずは二年間も行方知れずの状態にしてしまったことを謝らせて下さい。あの時の私は彼氏に捨てられたばかりで、お腹の中にいる赤ちゃんだけが唯一の希望でした。だから感情的になって家を飛び出し、それからはどうやって仲直りしたらいいか分からなくなってしまったんです。


もしかしたらこのまま死ぬまで、と何度も頭に過ぎりました。でも、先日友人のお母さんが病気で亡くなってしまって、人はいつか必ず死んでしまうから、もし友人の身に起きたことが私の身に降りかかれば必ず後悔すると、この手紙を書くことを思い立ちました。


二年間、連絡もしなくて本当にごめんなさい。


それからもう一つ謝らなくちゃならないことがあります。私は、あれから子供を産みました。女の子でした。名前は朝香と名付け、もう一歳になります。もしかしたら一生に一度かもしれない、孫が生まれた瞬間を、その機会を奪ってしまったことを本当に申し訳ないと思ってます。


色々と書いたけど、私も子供も元気です。


最後に、お父さん。私はお父さんに言われたことをたぶん一生忘れないし、許さないと思います。でも、私もそれ以上にひどいことをしてしまったから、私の身勝手なお願いだけどもう水に流しませんか?


 出来たら私の子供を二人に見せてあげたいなと考えています。私は親子の縁を切られてしまったけれど、もし許してくれるなら返事を下さい。


 二人からの手紙を、ずっと楽しみに待っています。 明日美』


 手紙は、何度も詰まりながらも声に出して読んだ。明日美が紡いでくれた文章、筆跡一つでさえ愛しくて、今すぐにこの手で抱きしめてあげたい気持ちに駆られた。愛にはいろんなかたちがあるけれど、家族の愛はきっとほのかに甘い。胸が満たされ、私の中からゆっくりと込み上げてきたのは、それだった。丁寧に折り畳み、手紙を封にいれる。それから問い掛けた。


「あなた、いいわよね? 明日美に返事書くからね?」


 手紙を読み始めてから程なくして、夫は嗚咽を漏らしていた。大きく肩を揺らし、地面に手をついている。私はそんな夫の肩に手を置いた。


「明日美の子供、朝香っていうのね。もしかしたら私達が朝が好きだって言ったことを覚えていてくれたのかもね」


 私と夫は、日が登り始めたばかりの、世界の全てが青に染まっていく瞬間が好きだった。濃度の薄い青のフィルターを通して世界を垣間見ているかのような、その感覚が私は何よりも好きだった。


 いつからかそんな朝のことを、明日美のお腹の中にいる子と重ね合わせるようになった。夫がそうしたように、私も毎日祈っていた。お腹にいる子が無事に生まれますように。そして、毎朝胸の中で一度だけ口にした。


 今日も、朝が生まれた、と。

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朝が生まれた。 深海かや @kaya_hukami

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