不遇なハムスターの来院 2

 吾輩はガラス扉ごしに手術室の中が大きく覗ける冷蔵庫の上に陣取ってその様子を眺める。

 動物病院ではこのように突然、緊急を要する患者がやってくることがある。

 心臓を包む膜に水が溜まって心拍が弱まった犬や尿路に結石が詰まって膀胱が破裂しそうになった猫、ペットボトルの蓋が気管に詰まって窒息寸前になったラブラドルレトリバーというのもあった。

 ようするに一刻の猶予もなく、なにを差し置いてもすぐさま処置をしなければ命に関わるといった状況である。

 このような場合、診察時間内であって、もし他に順番を待っている患者がいたとしてもそちらは後回しにして処置が行われる。そして今回はそういった緊急事案の中でもかなりタイトなシチュエーションと言えるかもしれない。

 患者はいくら大きく見積もっても体重二百グラム程度のゴールデンハムスターで、そんな小さな動物の腹が裂けて内臓が飛び出してしまっているわけで、それはつまりここから命を助けることが不可能に近いということは猫でも分かる理屈である。

 けれどタカトシたちはそれでも一縷の望みに賭けて、いまそのわずかな奇跡を掴み取ろうとしている。

 こういう場面を見ると吾輩はつくづく思うのだ。

 人間というのはなぜにこう愚かしくも、愛すべき生き物なのかと。


 吾輩が見つめる先で処置は着々と進む。

 ナズナが持つ大きな注射器から押し出される温生食の水流を利用して飛び出した腸管や盲腸をタカトシが丹念に洗っていく。セリは酸素マスクを粘着テープで固定した後で、ともすればいまにも止まってしまいそうな呼吸に注意を払いながらそのハムスターの小さな体になんとか心電図の電極を取り付けた。

 するとすぐにモニター画面に波形が現れ、電子音が鳴り始める。

 それを確認したタカトシはライト付きのルーペを頭に装着し、飛び出した消化管を慎重な手つきで腹腔に収めると次に極細の吸収糸を使って腹膜の縫合を始めた。

 ナズナはその助手を務め、次々と指示される器具を素早く手に取りタカトシに渡す。そしてタカトシが最後の一針を縫い終えた時、心電図モニターにはまだしっかりとぽん太の心拍が波打っていた。

 緊急の処置に入ってからこの時点でおよそ十分。


「とりあえず、あとはこの子の生命力に賭けるしかない」


 手術用グローブを両手から剥ぎ取ったタカトシはそう言ってフグのように頬を膨らませた。


「先生、抗生剤は」


 セリが聞く。


「フロキサシン0.05。それと乳酸リンゲル5cc皮下で」


 うなずいたセリは処置室に駆けて行った。


「インフォームどうしますか」


 今度はナズナが聞く。


「うん、ここに来てもらって」


 ナズナが出て行き、すぐに待合室で待機していた楓と母親が緊張した面持ちでやってきた。

 楓はすぐに手術台に身を寄せ、自家製のハムスター用酸素マスクに頭部をすっぽりと覆われたぽん太を食い入るように黙って見つめる。


「処置は無事終わりました」

「ありがとうございます。良かったね、楓」


 母親は安堵の表情を浮かべ、少女の背中にそっと手を添える。


「しかしまだ安心はできません。幸い腹部臓器には損傷や出血部位は見られませんでしたが、この状態を脱するかどうかはちょっと分かりません。そういう状況ですので、このままお預かりして治療をさせて頂くのがベストだと思います」


 タカトシはよどみのない口調でそう説明し終えると、口元をギュッと引き締めた。


「どうかよろしくお願いします。ね、楓。先生におまかせしようね」


 母親は即答し、娘の細い肩をポンと小さく叩いた。

 するとその瞬間、楓の顔がクシャッと崩れた。

 そして喉に吸い込んだ空気がヒューッと音を立てた後、彼女は声を張り上げて泣き始めた。楓の目蓋からは大粒の涙がポロポロこぼれ、背中をひくつかせながら嗚咽を繰り返した。そのうちに彼女は手術台の上で静かな呼吸を繰り返しているぽん太に向けて両手を差し出した。

 母親がとっさに制する。

 けれどタカトシはいいですよと言って、酸素マスクを装着したぽん太を丁寧に持ち上げ、そっと彼女の両手に収めてやった。

 楓はぽん太に顔を埋めるようにしてワンワンと泣いた。

 そんな風に耳元で大声で泣かれてはぽん太も目を覚ましてヒョコヒョコと起き上がるんじゃないかと吾輩は多少の期待を持って遠目に見ていたが、けれどいつまでたってもその気配はなかった。

 それから楓はひとしきり手術室に泣き声を響かせ、しばらくして母親に背を押されるようにして帰って行った。

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誰がために猫は鳴く 那智 風太郎 @edage1999

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