不遇なハムスターの来院 1

 ヤスジロウが帰った後、しばらくして受付の方から女性の慌てた声が聞こえた。

 そして応対したナズナが息を飲む気配がある。


「先生、急患です。ハムスターです。子供さんが踏んでしまったらしくて」


 どうやら内線越しに話している声だ。

 すると天井からドスドスと大きな足音が響き、二階の書庫で論文を探していたらしいタカトシが大急ぎで階段を駆け下りてきた。

 その間にナズナが診察室のドアを開けて飼い主を導き入れる。

 吾輩が薄く眼を開けるとちょうど幼い女の子が診察室に入ってくるのが見えた。

 薄い桃色のダウンコートを羽織ったその女の子はきっとまだ小学生の低学年ぐらいだろうか。彼女は後ろから母親に軽く押されながら診察台の前にたどり着き、胸の前で合わせた両手を覗き込むようにしてずっとうつむいている。

 そこに急ぎ足で現れたタカトシは母親と短い会話をした後、女の子の前に跪くようにしてぎこちない笑顔を作った。


「ねえ、ちょっと見せてくれるかな」


 どうやら少女の手の中に患者がいるらしい。

 女の子はうつむいたまま返事をしない。


かえで、ぽん太を先生に渡しなさい」


 母親が諭すように促したが、彼女は首を振る。


「楓」


 母親が語気を強めると今度はねじ切れるかと思うほどに首を振った。


「楓、いい加減に……」


 タカトシはそこで片手を上げて母親を制し、そしてわざとのんびりとした口調で少女に話しかけた。


「あのね、楓ちゃん。僕ね、動物のお医者さんなんだよ。それでね、ぽん太くんを治してあげられるかもしれない。だから、ちょっとだけ見せてもらえないかなあ」


 タカトシがそう言って困り顔を向けると、楓はうつむかせていた顔をわずかに上げてタカトシを見る。そして二、三度まばたきを繰り返してから、やがて胸に収めていた両手をゆっくりと前に差し出した。


「ありがとう」


 タカトシはやわらかな笑顔でその小さな手のひらから茶白の小動物を丁寧に受け取ると、すぐさま厳しい表情に変わった。


「浅拍呼吸。腹部から出血。皮膚、腹膜が裂けて盲腸が露出。すぐ手術室用意して消毒、縫合の準備」


 いつのまにか後ろに立っていたセリがダッシュで手術室へ向かう。

 そのナースシューズが床を蹴る音をナズナも追う。


「楓ちゃん、ちょっとここで待っててね」


 タカトシは重症のハムスターを両手のひらにしっかりと包み込み、不安げに立ちすくむまゆこにもう一度笑みを向けてから踵を返した。




「ヒーター」


 手術室に入るなりタカトシが抑揚を抑えた声で指示、確認を始める。


「入ってます」


 セリが答える。


「加温生食は」

「ここにあります」


 ナズナが手術台越しに返答する。


「ボスミン」

「10倍希釈で用意してます」


 もう一度ナズナ。


「オッケー。じゃ、まずは露出した臓器を洗おう。セリ、酸素と呼吸頼む」

「got it!」


 セリはネイティブな発音でそう返すと、ぽん太にタカトシ自作の小さな酸素マスクを被せた。

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