ヤスジロウの来院
ヤスジロウは雄、三歳のトラ猫である。
つまり吾輩と同い年である。
筋骨隆々、獅子頭のようないかつい顔をしていて、しかも乱暴な言葉遣いをするとっぽい奴だ。
そして会話すればたいてい自慢話ばかりであまり面白くない。
けれど、だからといって相手にしないでいるとあのゴクラクって奴は愛想のない猫だとか、スカしているだのちょっと気分の悪くなるようなことを待合室でボソボソと拡散するものだから始末が悪い。
つまり、なんというかちょっと面倒臭い猫なのだ。
ちなみに飼い主の長谷川は少しばかり腹の出た中年の男だ。
聞くところによると数年前に奥さんが出て行ってしまったそうで、いまは小さな借家でヤスジロウと二人、暮らしているという。
その長谷川はタカトシからの再三の忠告も聞かずにヤスジロウを外に出すものだから、彼はいわゆる半ノラのような生活を送っていて時々たいして強くもないケンカをして生傷を作り病院にやってくるというわけだ。
吾輩からしてみればそれは決して自慢できるような話ではないのだが、ヤスジロウは診察台に乗るたびに吾輩にその外傷を見せびらかし武勇伝を活き活きと語る。
「最近の若え奴は性根が座ってねえな。ちょっと爪が刺さったぐらいで跳び上がって逃げて行きやがる」
そんな風に威勢のいい話をするわりには、いつもけっこうな大怪我をしてやってくるヤスジロウの実力の程はそれでうかがえるというものだが、あえてそのことには触れないでやっておく。
武士の情けだ。
吾輩は心が広い猫なのだ。
年の暮れ、この冬一番の寒気と触れ込みの木曜日。
人間たちがクリスマスと呼称するその日にヤスジロウがやってきた。
「よう、ゴクラク。久しぶりだな」
ずいぶんと年季の入ったキャリーケースから診察台へと引き出された彼は棚の上の吾輩を見つけてニヤリと笑う。吾輩はお返しに作り笑いを彼に向けた。
「やあ、元気だった」
「ああ、元気さ。ケツの傷が多少痛むがな」
そう言ってヤスジロウが振り返り舐めた部分は、大きく毛が抜け落ちて、そこに赤黒く変色した皮膚が開放していた。
「うわあ。また、ケンカしたのか」
その痛々しさに思わず吾輩は背筋の毛を逆立てた。
「おう。最近、シマに新参者がうろつき始めてよ。そいつがでかい面して近所の餌場を荒らしてっからナシつけに行ったらこれだ。図体のふてえキジ猫でな、さすがの俺も往生したぜ」
ヤスジロウは苦笑いを浮かべ、また名誉の負傷を軽くひと舐めしたが、けれど吾輩にはそれが腑に落ちない。
「なんでさ。あんたは家に帰ればキャットフードぐらいあるでしょうに、わざわざ縄張り争いなんかしなくても」
吾輩が首を傾げると、彼は口元を不敵に歪めて、さらに尻尾の先をメトロノームのように揺らした。
「あのな、ゴクラク。そういうこっちゃないのさ。外の世界じゃあ面子ってのがあんの。俺はこれでもウチの界隈じゃちょっとした顔役でな。自分が食えるからって放っておいていい理屈はねえのさ」
吾輩は黙ってそっと肩を竦めた。
彼は毎度、ケンカ傷を膿ませてやってきてはこのように極道じみたセリフを口にする。そして少しでも反論すれば、せせら笑いをしてお決まりの台詞を吐き捨てるのだ。
「ま、分かんねえか。おめえみたいな室内猫にはよ」
たしかにさっぱり理解できない話だ。
もちろん吾輩にだって面子や体裁はある。
たとえば媚びた猫だと思われたくはないので人間たちに無闇に擦り寄ったりはしないし、幽霊とはいえ縄張りに住み着いたマルタには頭を悩ませているところだ。
けれど大怪我をしてまで守らなければならない面子などそうそうあるとは思えない。
しかしそれは雄猫なら当然持ち合わせている感情で、あるいは吾輩が去勢されているせいで理解できないだけなのかもしれない。
やはり吾輩には分からない。
ただ、それについてヤスジロウと議論する気もさらさらない。
吾輩が黙ってクッションに丸くなると、ヤスジロウもそれきりなにも言わなくなった。
しばらくして小さな呻き声が聞こえてきた。
見ると彼は殊勝にも治療に歯を食いしばっているところだった。
消毒液が傷口に滲みるのだろう。
ヤスジロウはフッフッと浅い息を吐いて堪えていた。
いつもながらこればかりはたいしたものだと感心してしまう。
普通の猫ならとても耐えられず、発狂して診察台から一目散に逃げ出すところだ。
けれどヤスジロウは何をされても平然とした顔つきのまま悲鳴ひとつ上げず、微動だにしない。その様子を見ていると、もしかすると彼なら麻酔を使わずに去勢手術だって我慢できてしまうのではないかと吾輩はあらぬ恐ろしい想像までしてしまう。
だから保定要員のセリもなんだか手持ち無沙汰に、ただ形だけヤスジロウの頭が振り返らないようにその首元にそっと手を当てているだけだ。
けれど吾輩はその我慢強さに感心はしても、称賛を送ることはできない。
吾輩などはこんなときにはむしろ大いに暴れてやればいいとさえ思っている。
面子や体裁がどれほどのものかは知らないが、痛いものは痛い、嫌いなものは嫌いだとはっきり主張できることこそ本来生まれ持った猫の性分であるような気がする。
人間などにいいようにあしらわれて黙って我慢するなど、それこそ猫のプライドを捨てる行為にさえ思えるのだ。
「ヤスくん、お利口だったね。終わったよ」
抗生剤の注射を打ち終えたタカトシがそう声をかけるとヤスジロウはようやくひとつ大きな息を吐き、全身から力を抜いた。そして元はピンク色だったはずの煤けたキャリーケースが診察台に置かれると、中に潜り込む間際にふたたび吾輩を見上げる。
「じゃあな、ゴクラク」
「うん、じゃあね。あんまり無茶しちゃダメだよ」
「ああ、分かってる、分かってる」
帰り際になるとちょっと素直になる。
根はいい奴なのかもしれない。
ヤスジロウは去り際に尻尾をピンと立てて帰っていった。
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