ロンの過去 3
船室を出て、ひそかに甲板へと向かう。甲板に父や男たちがいないのを確認すると、ロンは船尾に向かい、船べりに立った。隠していた本を取り出して、海に投げ入れようと振りかぶったところで、ふと、ロンの中の知的好奇心がうずいた。
(父が国を追われてまで書きたかったこととは、なんなのだろう)
以前父の書き物を見つけたときも、恐怖が先に立って、内容まではちゃんと読んだことがなかった。捨ててしまう前に、少し目を通してみてもいいかもしれない。
ロンは近くの空の木樽に目を付け、中に入り込んだ。ここなら、誰にも見つかることなく本が読めるだろう。木樽の隙間から差し込む光を頼りに、ロンは本を読み始めた。読み進めていくうちに、ロンの呼吸は浅くなり、こめかみにつぅと冷たい汗が伝った。
「まさか……!」
思わず、そんな言葉が漏れていた。それほどに、そこに書かれていた内容は衝撃的なものだった。
そこには、チェン国建国の祖、“元皇帝”の墓より以前の王の墓が見つかったと書かれていた。五百年ほど前のものと思われるその墓には、おびただしい数の人間の頭骨が、中央にある王の石棺を囲むように並べられていたと。そしてその頭骨は全てチェン国民のものであり、石棺に恭しくおさめられていたのは──明らかに、グイモ族のものと思われる人骨であった、と。
これが意味していることは、ただ一つ。並べられていた頭骨は、その当時の奴隷であり、石棺におさめられていた人骨が、当時の王であったということ。つまり、その墓が作られた当時は、グイモ族が国を統治し、チェン国民は奴隷として生贄にささげられるような存在だったということなのだ。
(どういうことだ⁉)
ロンは混乱した。それは、チェン国の概念全てを根底から覆す恐ろしい事実だった。神の子孫であるはずの自分たちが奴隷であった過去があるだなんて、ロンは信じたくなかった。しかし、ユンの研究論文は、ことごとくその証拠を突き付けてくる。ロンは恐怖で体が震えてくるのを感じた。しかし、読むことをやめることはできなかった。
“チェン国は、この自分たちにとって屈辱的な過去を、葬り去ろうとした。建国以前までの書物をすべて焼き払い、見つけた遺跡をことごとく破壊し、自分たちに都合の良い歴史を作り上げた。
そして、自分たちを奴隷としてこき使っていたグイモ族たちを貶めるため、彼らを自分たちが倒した龍の子孫と位置付けた。しかし実際は、現在チェン国があるあの地にたどり着き、土を耕し、稲が育つようにしたのはグイモ族である。彼らの恩恵にあずかり、チェン国民は奴隷という身分ながらも、飢えることなく生きながらえ、数を増やしていった。そのうち、奴隷同士結束し、地主を襲う一揆が各地で起こり始めた。その勢いは止まらず、グイモ族の国は崩壊した。奴隷と言われていたものたちが武力の行使で王座を奪い取り、できた国がチェン国なのである。”
頭を殴られたようなショックにめまいがして、ロンはつかの間目を閉じた。追手が来るのも納得である。こんなものが世に出回ったら、そしてグイモ族たちの手に渡ったら、チェン国存続の危機である。父がしたことは、完全にチェン国を裏切る行為であり、非国民と非難されてもしょうがないことだ。
(父はチェン国を恨んでいたのだろうか? それとも、グイモ族を喚起させ、また同じような歴史を繰り返させようとしていた?)
父の真意を読み解こうと、ロンはがむしゃらに本を読み進めた。
ユンは、現在のグイモ族に対する奴隷制度を真っ向から否定していた。それが、たとえ過去に自分たちが奴隷として使役された仕返しであったとしても、人が人を家畜のように扱うことは、間違いであると。どこかでこの負の連鎖は断ち切るべきであると。
“生まれながらに他者に隷属することが運命づけられた人間など、この世のどこにもあるはずがないのだ。”
おそらく、旅の途中で書きつけたのであろう。木炭のかけらで書きなぐるように刻まれた最後の一文が、ロンの胸を深く打った。それが、父がこの本を命がけで守ろうとした、ただ一つの理由なのだと悟ったのだ。
同じ悲劇を起こさないように。同じ過ちを繰り返さないように。
その本には、父のそんな願いが刻まれていた。ロンは自分の昏くかげっていた目が拭われたような心地がした。自分がどれだけ小さな人間か思い知らされたようで、わけもわからず泣けてきた。こんなに、父が見ている世界は広かったのだ。そんな父が命がけで書いて守ろうとした本を、自分は捨てようとした。なんて……なんて愚かな人間だったのだろうか、自分は。
(父上と共に、私はこの本を守らなければならない)
暗くからっぽだったロンの中に、そんなともし火がともった時であった。
木樽が大きく揺らいで転倒し、ロンを中に閉じ込めたまま甲板の上を転がりはじめた。何事かと木樽の蓋を押し開けたロンは、外の様相を見て顔色を変えた。
夢中になって本を読んでいたロンは気付いていなかった。ロンが木樽の中に入ってからもう数刻が過ぎており、その間リュシオン岬に差し掛かった船に、恐ろしい嵐が襲い掛かっていたことに。
朝見た晴れ間が嘘のように、空は分厚い灰色の雲で覆われ、海は獣の慟哭のような恐ろしい音を立ててうねり、波は荒れ狂っていた。小高い丘のように頭をもたげた波が甲板になだれ込み、慌てて木樽から這い出たロンに襲い掛かった。恐ろしい勢いの波にもみくちゃにされながらも、なんとか起き上がったロンは、自分の手から本がなくなってることに気付いてはっと息をのんだ。
「ああ!」
本は甲板の上を、流れ落ちていく波にさらわれて滑っていくところだった。そのまま行けば、船から落ちて海へと消えてしまう。しかし、目の前には再び頭をもたげ、甲板になだれ落ちようとしている高波がそびえていた。本を取りに走れば、確実にあの波にさらわれて船から落ちてしまうだろう。
「ロン‼」
その時、ロンの背後で、父の悲鳴のような声が聞こえた。振り返ったロンは、父の今までにみたことがない必死の形相を見て、心を決めた。
(あの本を手に取り、父上に投げ渡せば……!)
ユンが命がけで守ろうとした本だけは、守り切らねばと。ロンの中には、その想いしかなかった。だから、ロンは父に背を向けて駆け出した。船から滑り落ちようとしている本に向かって。
(あと少し……!)
ロンの指先が、本に触れる間際。突然、腕を力強く引っ張られ、ロンは足を止めていた。そのまま遠心力を加えられ、ロンは背後に勢いよく転がっていった。そしてロンと入れ違うように、今まさに波が襲い掛かる甲板へと飛び出した人影が一つ。ロンの目が、限界まで見開かれる。
「父上ぇぇぇ‼」
悲痛なロンの叫びは、なだれ込んできた波の音にかき消された。そして、ロンをかばって飛び出したユンの姿も、甲板にあった本も、一瞬でかき消えてしまった。
「ユン先生‼」
男たちが叫びながら、船べりに駆け寄っていく。ロンは足がすくんでしまい、動くことができなかった。ただ、波間に消えていく、父の白い腕を見つめていた。その手が助けを求める様に空をかき、伸ばされる様を。うねり荒ぶる波にのまれて、その手が消えていく様を。
あっという間に、腕は見えなくなった。海に飛び込んでユンを助けようとしていた男たちも、あきらめたように項垂れ、すすり泣いていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
自分の口から懺悔の言葉が流れ出るのを、ロンは他人事のように聞いていた。
すべてが非現実的だった。父も、父が命がけで残そうとした本も、すべて一瞬で奪われてしまった。一つだけ確かなのは、自分は、もう一つ大きな思い違いをしていたということだ。父が最期の瞬間に守ろうとしたのは、本ではなく、ロンの命だった。自分が疑っていた父の想いは、こんな皮肉な形で、証明されてしまったのだった。
嗤う神に 悲しき剣を 茅野 明空(かやの めあ) @abobobolife
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