ロンの過去 2


 ぐっすり寝ていたロンは、誰かに口をふさがれるのを感じてハッと目を覚ました。暗闇の中で、顔を布で隠した男がこちらを見ている。


「音を立てず、これに着替えなさい。すぐに家を出る」


 その声を聞いて、男が自分の父だと気づいたロンは、暴れるのをやめて恐る恐る起き上がった。

 ユンに言われるまま、彼から差し出された地味な平服に着替え、部屋を出る。ユンが自分の書斎に入り、掛け軸のかかった壁の一部を開けるのを見たロンは驚いた。扉の向こうに、地下へと続く通路が続いていたからだ。そんな仕掛け扉があることなど、ロンはこれまで全く知らなかった。

 ユンの背中から漂う緊迫感に圧倒され、ロンは押し黙ったまま、彼の後について行った。


 ただ、胸中には嫌な予感が渦巻いていた。もうここには、二度と戻ってこれないのではないかという予感が。


 長い通路を抜け、突き当りの梯子を登って出たところは、城壁の外にある枯れ井戸だった。

 その周りを囲んでいる森の中に、ユンは迷うことなく分け入っていく。やがて、木がまばらに生えた場所でかがり火を囲むようにして、数頭の馬と、父と同じように顔を布で隠している人影がいるのを見止めたロンは、思わずぎくりと足を止めたが、ユンがその人物たちの一人と親し気に肩を抱きかわすのを見て、警戒をといた。ユンはロンを振り返って、眉尻を下げた。


小龍シャオロン、突然連れ出してすまない。これからしばらく、彼らと旅をすることになる」


 そう言ってユンが男たちに手を向けると、彼らは顔の布をとって、恭しく頭を下げて見せた。よく日に焼けた彼らの顔だちからは、宮廷で生活をしている者ではないことが伺えた。馬の扱いや、装備からも旅慣れている様子が読み取れる。

 この男たちは、父と共に例の研究をしている仲間だろうと、ロンは推測した。


「父上が禁域について研究していたことが、国に気付かれたのですか」


 思い切ってロンが訪ねると、ユンは驚いたように目を見開いた。


「知っていたのか」

「すみません、父上の書斎に入りました」

「そうか、見てしまったか……」


 ユンが苦悩に顔をゆがめるのを見ながら、ロンは父を問いただしたい気持ちをぐっとこらえていた。どうして、そんな危険な研究に手を出したのか。皇帝の典医という名誉ある地位を投げ打ってまで、やらねばならないことだったのか。こんな、夜逃げのような不名誉な逃げ方をしなければいけないようなことを、どうして?


「先生、急ぎましょう」


 男たちにせかされ、ユンはロンと共に馬に乗り、森を進んだ。緩やかな上り坂を上がり、宮廷が見渡せる小高い丘まで到達した時だった。


「あぁ!」


 ロンは思わず、悲鳴のような声を漏らしていた。重苦しく垂れこめる闇の中、目を奪われるような明るさが、宮廷の一か所から放たれていた。燃え盛る炎。焼け落ちる邸宅。この距離からでも、ロンにはそれが自分たちの家だということがわかった。


「逃げたと気づかれた! 追手が来るぞ!」


 男の一人が緊迫した声をあげ、馬を鞭打った。皆が馬の速度をあげる。振り落とされそうな揺れの中、ロンの心もまた、体の中で弾ける様に暴れていた。きっともう、この国には戻れない。たった十歳のロンでも、それは感じ取っていた。

燃え落ちる自分たちの家の光景が、脳裏から離れない。


(なぜ、この国を追われるようなことを、父上は……)


ロンの腹の底では、ただその疑問だけが、あの家を燃やした炎のように燃え盛っていた。


 それからの旅は、長くつらいものだった。

 いつ迫りくるかわからない追手の影におびえながら、黙々と突き進む終わりの見えない旅。父と同行していた男たちは旅慣れており、うまく追手を引き離すことができている様子だったが、生まれて初めての野営や、侘しい食事で満たされない空腹感は、だんだんとロンの心を蝕んでいった。

 そんな生活が、数か月続いた。やっと目当ての港町についた時には、ロンは心身ともに疲弊しきっていたが、生まれて初めて海を目にして思わず目を煌めかせていた。

 どこまでも続く水平線、ひしめくように湾に浮かんでいる帆船たち。さらにこの船たちは、ロンが見たこともない国々に旅立って行くのだろう。


(世界はこんなに、広かったのか)


 その港での光景は、ロンの胸の中に深く残り続けた。


 船旅はどんなものだろうとロンはわくわくしながら乗船したが、出航してすぐに、そんな浮き立った心は容赦なくつぶされた。

 ずっとゆらゆら定まらない足元、船の外でうねり続ける波、波、波。すぐさまロンは船酔いに倒れ、船室に引きこもって寝たきりになってしまった。父が煎じてくれた薬湯で少しは症状が落ちついたものの、ロンの初めての船旅は、なかなか辛いものとなった。


 ロンたちが乗り込んだ商船は、チェン国を発ったのち、大陸沿いを進みながらアリスタル帝国に寄港し、その後リュシオン岬を超えて西の諸外国に商品を運ぶ船だった。


「リュシオン岬を超えれば、もう追手は来ないだろう」


 男たちとユンがそう話しているのを傍から聞きながら、ロンはかび臭い寝床の中で、もう戻りはしないかつての幸せな日々を想い忍んでいた。

 毎日暖かい布団で眠ることができて、お腹いっぱい食べられる生活。書院の友達と無邪気に遊んでいた日々。そして、自分に約束されていたはずの、輝かしい未来。


 すべて、突然に奪われた。父のしていた研究のせいで。


 旅の最中、ロンは一言も弱音や愚痴を吐いたことはなかったが、その目は激しい憎悪を込めて、ユンが片時も離さず持っている鞄に向けられていた。正確には、その中に入っている、一冊の本に。それは、ユンがただ一つ、家から持ち出した自分の書記だった。今までの研究の成果をまとめた本であり、旅の途中でも、ユンはその本に何か書きつけていることがあった。こんなにつらい旅をしながらも、まだ本を書くことをやめない父に、ロンは激しい怒りを覚えていた。


(あれさえなければ)


 ひどい船酔いで食べ物も受け付けず、衰弱していくロンの心に、その昏い思いはだんだんと根付いていった。

 そして、今日には岬を超えられるだろうという日だった。その日の朝は気持ちの良い晴れ空で、波も穏やかだったので、ロンもずっと臥せっていた寝床から起きることができていた。

 ユンと男たちは、船長と食事会があるという。一緒に来るかとユンに誘われたが、ロンはまだ食欲がないからと言って辞退した。

 誰もいなくなった船室で、ロンはずっとやろうとしていたことを実行に移す決心をした。


 ロンはユンの鞄に歩み寄り、中から例の本を取り出した。国から追われる諸悪の根源であり、ロンの人生を壊した、憎むべきもの。


(こんなもの、海に捨ててしまえばいい)


 ロンは昏い目つきで、その本を懐に忍ばせた。自分がやろうとしていることが、父を深く傷つけることだとわかってはいたが、その時の彼は、父のしたことに対する憎しみで周りが見えなくなっていた。








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