水槽学:4


 真っ青。

 上も下も左右も、全部偽物みたいな青い液体が詰まっている。ぼくは父の後ろを歩く。小さな水族館だった。


 熱帯魚の赤い尾びれ。早歩きで父の前にでた。クラゲののぞきあな。水槽の前で腕をくむ男女の間を縫って通り過ぎる。両生類のコーナーも真っ直ぐ、まっすぐ、まっすぐあるいた。赤色。あの子のランドセルを思い出したからだった。


 先生に叱られるのもべつにいい。

 生き物係に責められるのも仕方ない。

 でも、あの子は、ぼくなんかを信じてくれたあの子は、死んでしまったときいたらどんな顔をするだろう。

 一生懸命あの子の顔を思い描こうとした。でも、あの子が笑っているところしか思い出せない。いやだ。メダカが死んでも、いつもみたいに笑っているあの子は、いやだ。


 ぼくはもう突き当りまでやってきていた。ここでまっていれば父も来るだろうか。顔を上げた。突き当りの壁に並んでいたのは小瓶だった。標本だ。初めていった理科室で先生が見せてくれたものと似ていた。でも白い標本と違って、それには色があった。

 ぼくはそこで初めて、青や赤にそまった脊椎をみた。それは子供にとって異常なものだった。でも、青と赤の混ざりあった色だとか、色づいているからこそわかる骨の細さや歪みから目が離せなかった。

 あのメダカも、青や赤に染まるのだろうか。


「ここにいたのか。きれいだな、透明標本か」

「透明標本? これも、もともとサカナだったの?」

「そう、この前標本をつくったっていっていただろう。じゃあこういうものも見せたいとおもっていたんだ。まだ硝子しょうこには早いし、お母さんは骨が好きじゃないから、青磁せいじとみたいとおもったんだ」

「これもほかの標本と同じなの?」

「ん~……やりたいことは同じかな。青磁が作ったカブトムシは大きいけど、こういうクラゲは小さいだろう? よく観察するためにはこうやって薬につけて、見分けやすいように色をつける」

 小さな瓶を手に取る。骨の一本一本すら数えることができそうだった。

「ぼくにもつくれる?」

「青磁がやってみたいならお父さんは協力するよ」


 透明標本、と呼ばれるそれをつくることは大変だった。父と庭で薬品を使った。ホルマリン、エタノール、アルシャンブルー、トリプシン、アリザリンレッド。一カ月以上をかけて作ったそれは、水族館でみたより少しいびつだった。けれどもとてもきれいだった。違う。いまでもきれいなままだ。ぼくは、あの子にわたすつもりで、二匹とも標本にした。でも、渡さなかった。渡せなかった。渡すのを迷っているうちに、あの子はともだちではなくなってしまった。

 隣のクラスの女の子に、渡すことはできなかった。


 ぼくの犯した罪はメダカを殺したことじゃなかった。

 自分の好奇心のために、満足感のために、身勝手な美意識のために、あのメダカを殺した。


 結局、ぼくの傲慢さと稚さがメダカを殺した。そして十年経った今も、何度も左手に小瓶を握りしめては意味があったと言い聞かせている。

 ぼくがあの子に標本を渡せなかったのは怖かったからだ。気味が悪いといわれるのが怖かった。覚えているのがぼくだけだということを理解するのが怖かった。


 ぼくは棚からメダカの標本を手に取った。机の上にだしっぱなしだった便箋を手に取った。あの子からの手紙だった。内容はとても短くて、とても恥ずかしいものだった。

 あの子はいま、何をしているだろう。

 中学校で聴いたヴァイオリンの音が耳に残っている。あの子に、返事を書こうと思った。


 今日、中学校に行ってきたんだ。ふうの木の下に、中学のクラスごとにタイムカプセルを埋めたことは覚えてる? 十年後……ぼくらが二十五歳になったら開封することになっているやつ。

 そのなかに……。


 左手が止まる。かけない。

 ごめん。その先が浮かばない。ごめん。それだってぼくはなにをあやまっているのか。

 あれは、ぼくの幼さの標本だ。だからもう見たくない。

 ぼくは描きかけの手紙を破って、捨てる。最初に書いた、ごめん。三文字だけの便箋だけをクリアファイルに戻した。逃げるように引き出しにしまった。

 いつか、いつか、いつのひか、あの幼さが他人事になる日まで。

 ぼくは鍵をかけた。

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僕らは魔法をつかえない。 入相アンジュ @harukujiracco

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