水槽学:3


 悪いことをした。

 ぼくは、とんでもなくわるいことをした。


 通学路から左にそれて道を歩けば歩くほど、呼吸が気管支のなかで詰まった。咳で吐き出すこともうまくいかない。それでも自分の足を止めることができなかった。

 だって、メダカの群れが泳いでいたから。きっと大丈夫。怒られたら、その時だ。でも、メダカたちにとっては狭い水槽より川に変えるほうがいいに決まっている。

 あたまの中で唱える。左足が石ころを蹴った。それは土の上を転がって、先を歩いていたあの子の踵の前で静止した。赤いランドセルが振り返り、ぼくを呼んだ。

「せいくん、こっちにメダカいるよ。このあたりにする?」

 あの子が首をかしげると後ろで一つに結わえたポニーテールが揺れた。前髪までポニーテールの中にまとめていて、額が剥き出しだったから、あの子が少し不安そうだったのもわかった。声を出す代わりにうなずいて、あの子の隣に並んだ。虫かごのなかに入れた水が波打ち、二匹のメダカがうろうろと、迷子のように泳いだ。

 メダカを川に放してあげたかった。

 ぼくらの都合で、もう死なせたくなかった。


「ここにしよう。田んぼも近いし、エサになるようなものも見つかると思うよ」

「じゃあここでこの子たちともお別れかあ。なんかさみしいね」

 あの子はしゃがむと虫かごの方に顔を寄せた。強く生きるんだよ~と声をかける顔は、給食を食べるときと何も変わらない。クラスの女子と一緒に、校庭の端で一輪車に載っているときと同じように笑っている。

「ほんとうに、するの?」

「え、うん。せいくんは本気じゃなかったの? だって納得いかないじゃん、もえぎちゃんが面倒見てたわけじゃないのに」

「……いいのかな、本当に」

「捨てるわけじゃないよ。不幸にしないためなんでしょ。あたし、もえぎちゃんが大事にしてくれるとは思えない。知ってた?あの子の家さ、猫ちゃんいるんだ」

「そうだけど。なんでそっちが信じてくれるのか、わからない」

 あの子の目は大きい。二重で、柔らかい黒色で、目じりにはほくろがある。猫のような目だ。

「……メダカが死んじゃったの、あたしのせいかなって」

 そんなわけない。

「あたし、せいくんのこと信じるって決めたし。だって、ほら、せいくんは、すごいから」

「ぼくが?……どのあたりが?」

「みんなが知らないことを知ってるし、手先が器用だし、みんなが思いつかなかったことをいうでしょ。すごいよ」

「すごくないよ。すごいっていうのは、足が速いとか、背が高いとか、歌がうまいとか、そういうことなんじゃないの」

「せいくんはすごいよ」

 あの子は繰り返した。なんの理由でもない。でもなんだかそれがあっている気がした。うれしかったんだと思う。

 ぼくは誰かにそう言ってもらいたかった。

「じゃあ、これがまちがってたら?」

「そうだなあ……。怒られるときは一緒だよ。あたしのせいだけにしないで!」

 ほんとうに、あの子は変なことをいう子だった。でも、あの子が笑っていたことは覚えている。楽しそうに、顔全体で笑う。あの子はいつだって誰とだってそうやっていた。


 学校では騒ぎにならなかった。水槽のなかでは二匹のメダカが当たり前に泳いでいた。そして、それは生き物係の家に行った。ただ、校長室の宇宙メダカが二匹減っていた。

 ぼくとあの子はただ黙っていた。


 ぼくは間違っていた。

 それを知ったのは三日後だった。メダカを用水路に放した翌日、雨が降った。それはそこそこな降水量だった。小学校自体は休みにはならなかったけれど、止むまで二日かかった。


 ぼくはまたあの用水路にいった。ひとりでいった。なんとなく。でも今思えば不安だったのだろう。

 雨で水かさを増した用水路の脇で小さなものが動いていた。二匹のメダカだった。ひれには小さな切れ目がついていた。震える手でぼくは水筒のなかにめだかをいれた。揺らしたらダメだ。そう思っても、できなかった。ぼくは走って、走って、走った。


 母はぼくの水筒のなかで今にも息だえそうな二匹のメダカをガラス瓶に移してくれた。けれどもやはり翌朝には死んでいた。

 水面が日曜日の朝日によって反射して、フローリングに波を作っていた。ゆらゆら。ゆらゆら。銀色の、灰色の、透明な、影。


 母は二匹のメダカの死骸をジッパーにしまって、冷凍庫にしまった。

「庭にお墓でもつくってあげたら? いまはぬかるんでいるから、晴れたら、そうしよう」

 母は優しくそう言った。でもぼくはゆるく首を振った。学校に連れ帰るべきだと思ったから。

 ぼくが川に帰そうなんていわなければよかった。誰にもしられていないことも怖い。でも、いう勇気もなかった。なにより、あのメダカをもうどこにもつれていきたくなかった。

 リビングのソファーでだまって膝を抱えるぼくに、父が「ドライブにいこう」と声をかけた。ぼくは首を振る。

 二歳下の妹が「ショーコも連れてって!」と駄々を踏んだ。それでも、父はぼくだけを車に乗せて、水族館へ連れ出した。


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