水槽学:2


 メダカが死んでいたのに気が付いたのは、確か、あの日からそれほど時間をおかなかった。夏休み明けだった。二時間目の終わりの業間休み。四匹が水槽の水の上ではらを見せて浮かんでいた。最初に気が付いたのは生き物係だった。


「お墓を作ってあげようよ」

 誰ががいった。

 その日の昼休みには、昇降口の間左にある金木犀の根元に四匹は埋葬されたときいた。残った二匹はだれかが引き取るといっていた。その子の背中は丸まっていて、泣いてるように見えた。ぼくは、いかなかった。あの子も、そうだと思う。その頃のあの子は女子五人くらいでいつも一輪車を乗っていたから。あの日だって、給食を食べ終えたらすぐに飛び出していった。席が近かったからか、そうやっていたあの子のことをなんどもみたのだろう。


 今日でも覚えている。

 あの昼休み、ぼくは理科の教科書を読んでいた。遊ぼうといっていたのに、ユーヤに断られたから。あの頃やっていた単元は一体何だったのか。いまはもう思い出せない。


 ただ、あの日のぼくは、親指で適当に開いたページの、右下のコラムを読んでいた。メダカの学校。そういう名前のコラム。童謡になぞられた、文字にして五〇〇文字もない、小さな枠。

 透明な水のなかで小さな魚影が泳ぐ。

 先週のスカウトのことが頭の中ではじけた。


 学校を出て、横断歩道を左に曲がって、ずっと真っ直ぐ。裏山に向かって伸びるアスファルトの一本道。わきの、用水路。そこに、メダカがいた。

 そう、メダカはそこにいる! 

 コラムはメダカが住めるきれいな水場が減っているとも書いてあった。あそこにいるってことは、あの水路はメダカが住める場所なのだ。

 世話を忘れてしまうような人間のところで、いつ死ぬのかを待つより、きれいな水場でほかのメダカと生きたほうがずっといい。二匹にとって最善だ。


 一度転がりだすと計画は面白いくらいに進んでいった。必要なもの、言い訳、理屈。いろいろなものを出すだけで、五時間目も六時間目もあっという間に過ぎていった。翌日は水曜日。しかも月に一度の先生たちの勉強会で、ぼくたちは四時間目で下校だった。午後の時間は使いたい放題だ。

 ただ、計画のためには、器が必要だった。メダカを水槽ごと連れ去るのは難しい。虫かごに水をはればつかえる。それをどう持ち込むか。

 時間割をにらむ。算数、体育、国語、道徳。次の国語の授業は図書館に行くといっていたから、教科書がなくてもばれない。でも、算数はそういうわけにもいかない。机に教科書を置いていく? そうすればごまかせる。ただ、クラスにはそうしているクラスメイトはまだ誰もいなかった。よりによってその日に出された宿題は算数で、教科書の四十三ページにある練習問題だ。やってしまえば十五分で終わる。終われば机に置いて行っても問題はない。

 なら、みんながいなくなってから、教室にもどり、そこで宿題を片づけて、何の気はなしに机のなかに教科書を残して帰ろう。

 一度帰ったふりをして、それから戻ればいい。


「あれ、せいくん、もう帰ったんじゃなかったっけ」

 あの子だった。

「うん、教科書、忘れてて。誰もいないしやってから帰ろうと、おもって」

 正直に言った。嘘を言っても仕方がないから。あの子は呆けたようにぼくをみていた。

「いやだったらさ、いいんだけど。あたしもここでやっていっていい?」

「……なんで?」

「鍵をね、忘れちゃったの。お姉ちゃんの部活が終わるのが四時だから、それまで待ってなきゃなの。だから」

 ぼくはどう答えるべきかわからなかった。確かにあの子とぼくはクラスでも話す方だった。昼休みになればメダカの世話をしたし、物を忘れれば貸し借りをしたし、一緒に帰ることもあった。でも、午後三時を共有したことがなかった。


 教室の入り口から一番近いところにあの子は赤いランドセルを置いた。あの子のランドセルはクラスで一番赤かった。椅子の上にかかっているピンク色の防災頭巾を背中に寄せて、算数の教科書を開いた。ぼくは驚きながら、開いた教科書に視線を戻した。

「……メダカ死んじゃったね。もえぎちゃんが引き取るんだって」

 鉛筆を落とした。「そうなんだ」ぼくは拾って、なんでもないよ、という顔をした。

「あたしはせいくんが引き取るべきだっていったんだけど、みんな全然聞いてくれなかった。あたしの家も考えたんだけどね、うちは金魚がいるから駄目だろうし。校長室前の宇宙メダカの水槽に入れてもらおうっていったらもえぎちゃんが泣いちゃった」

 どう答えればいいかわからない。


 だからもくもくと問題を解いた。帯分数を治す問題だった。教科書の色使いまで脳裏に焼き付いている。西日がきつくて、ぼくのノートに影を落とした。それでも問題は解けた。

 ぼくは自然に、ノートと教科書を机にしまって立ち上がった。そのまま、隣の机の上に置いていたぼくのランドセルを背負いなおす。じゃあ、また。口の中だけでそういって、ぼくは教室から逃げ出そうとした。走ったらおかしい。でも、早く立ち去りたかった。教室の床を踏むたび、左右の間隔が分からなくなった。

「おいていくの?」

 何を。

 それは言われなかったのに、なんのことが分かってしまって、足が止まった。わざと忘れていこうとした。あの子は多分わかっていた。

「明日、荷物多くなるから」

「早帰りなのに?」

 ぼくはだまった。黙っているぼくにあの子が教科書とノートを差し出した。

「あたしも終わったし一緒に帰ろうよ」

「まだ四時まで時間あるけど」

「じゃあ、校長室の前まで行こうよ。先生に相談してみよう、うちのクラスのメダカも宇宙メダカの水槽にいれてもらえないかって」

 あのときの感情をぼくはよくわからなかった。

 うれしかったのか、かなしかったのか、それとも違う何かか。内臓がすりつぶされそうなほど痛い。でも、なぜか、その光景を思い出すたびに、救われた気がする。

「……それよりも、メダカを川に返そうよ。多分、きっと、自然のなかで生きていけると思う」

 あの子はなんて答えたんだっけ。

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