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水槽学:1
誰かがヴァイオリンを弾いている。
ぼくは音の出発点の窓を探した。なんとなく。それがうまいのか下手なのかはぼくには判別つかなかった。中学校の校舎はどれも同じ形で、どれも閉まっていた。
曲というよりは音と音と音、という断片的なものだったから、多分、プロではないのだろう。中学には管弦楽部があるのだし、それも不思議なことでもなかった。でも、そのばらばらの音のせいで、ぼくはメダカの標本のことを思い出した。ちょうどもう手元にはない。校舎の、裏庭の、楓の木の根本に埋めてきてしまったのに。
メダカの標本のことを思い出す。てのひらにのってしまうくらいちいさな標本だった。透明標本と呼ばれるそれ。頭は青黒く、細い脊椎は赤紫だった。ホルマリンの液のなかで、機能を失った目をこちらに向けるあのメダカ。
声なき声で、メダカはぼくに問う。
なぜ? どうして?
十年ずっとこちらに疑問をなげている。
どうして、こう死んで、死んだ後もこうしているの?
いつしかヴァイオリンの音は途切れてしまった。だからぼくは中学校から出て行った。中学の校門から下校するのは、卒業してからおよそ4年ぶりだった。
ぼくは帰宅してから引き出しを開けた。
十年間、机の引き出しの奥で眠っていた透明標本はあの頃となにひとつ変わらない。九ミリリットルの小さな瓶をぼくは手に取った。西日に透かすと、ホルマリン漬けにされ、骨と組織を赤紫と紺青に染めたメダカがいるのだ。
小学三年生のころ、クラスでメダカを飼っていた。六匹だった。けれどもみんな死んでしまった。ぼくが殺した。
出かける前、机の行きっぱなしだった便箋が風でめくれた。宛名と、ごめん、とだけ書いてある黒い文字が浮かんでいる。
教室の中で生き物を飼う経験は初めてだった。だから、四月の係決めのときには生き物係に手を挙げるひとが一番多かった。男女三十二人、そのうち八人。そこからじゃんけんでふたりが選ばれた。その子たちのことを思い出そうとしても、もうできない。ただ男子と女子ひとりずつで、それはぼくではなかったことだけは自信をもって答えることができる。
でも、まあ、小学三年生だ。ようやくティーンエイジが近づき、ようやく『生活』の科目が社会と理科になるころだったから、生き物係になった少年少女は気が付けばもう飽きてしまった。全く世話をしないわけではない。けれども毎日上げていた餌が三日に一度になり、一週間に一度になり、三週間に一度になる。それを黙っていられなかった。だから、ぼくがメダカの世話をしていた。
餌をやり、水草をかえ、水槽の掃除をした。いまでも後悔することがあるならば、毎日世話をしなかったことだ。
もっと水がきれいだったら長く生きたかもしれない。
毎日見ていればメダカの変化にきづけたのかもしれない。
メダカの世話をみんなの前でできていたら、ほかの人も関心を持ってくれたかもしれない。
もっとぼくに自信があったのなら先生に相談できたかもしれない。
無数の反実仮想。
そして、いまならきっと、ぼくはそうするだろう。でも、あのころのぼくはまだ誕生日も来ていない八歳の小学生だった。
忘れてしまうこともあったし、向けられてもいない視線がこわかったこともあるし、ぼくだって、校庭でドッチボールやドロケイがしたかったから。誰もいなくなった放課後の教室で、水槽に近づくのが精いっぱいだった。
隠れるようにこそこそと世話をしていたぼくに気が付いていたのは、先生と、ふたりのクラスメイトだけ。どちらも女の子だった。
一人は、通学路が一緒の、赤いランドセルの、あの子。ぼくはいまでもあの子をどう呼ぶべきか、わからない。ぼくらは餌をあげたし、水槽を洗った。もうひとりのことは忘れてしまった。気が付いたら、ぼくとあの子のふたりきりだったから。
「《すいそうがくぶ》ってあるでしょ。なんかね、さかなクンってね、あれは水槽をつくる部活だと思って入部したんだって。でも違うんだって」
「え、ちがうの。ぼくもずっとそうだとおもってた」
ぼくは白い軽石と、庭にあった鉢植えの破片を底に並べた。
「あはは、ね。違うんだって。楽器の部活で、サックスが得意になったんだって。たしか中学にもあるよ」
あの子は自分の家の金魚の水槽からとってきた水草を浮かべた。
「中学か……水槽を作らないなら入らないかな。別に水槽を作りたいわけでもないしね」
「それもそうだね。わたしも水槽を作るより水族館のほうがつくりたいな。水族館じゃなくても、四つ葉のクローバーとか、セミの抜け殻とか、きれいな石とか、ダンゴムシとか……すきなものをたくさん並べたい」
「どっちかというと博物館みたいじゃない? 生き物はむずかしそうだけど……昆虫なら標本にすればいいけど」
「標本?」
「そう、できるんだよ。スカウトでカブトムシの標本を作ったことがあるし」
あのとき、ぼくはボーイスカウトの活動の中で作ったカブトムシの標本を思い出していた。漆のようにきらきらと黒く光る背中と、いまにも動き出しそうな躍動感のあるカブトムシの仕草。それらしい角度を探して、見つけたときの高揚感。
「きっときれいなんだろうね」
日直が窓を全部閉めていたから、風は通らない。だから西日がまっすぐはいってくる教室は逃げ場がなくて暑かった。あの子とぼくはふたり黒板を前に立っている。
ぼくらはきれいになった水槽を抱えた。ぼくの左手が水槽に影を落とす。
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