あたしは魔女にはならない:5


「紫穂はいま入院しています。ちょっと、事故に遭って。ええ、命に別条はありません。この事故で紫穂は大人になりました。

『私が死ぬと悲しむくらいには私を好きと思っている人がいる。』

 二十二歳。年齢的に言えばとっくに大人ですけどね、この事故でやっと魔女の呪いは解けました。思春期の亡骸と化したあたしは次の火曜日に燃えるゴミになるはずだった。

 けれど、古い友達がお見舞いに来て、こういったんです。


『淡島くんて覚えてる? あのひと、なんかやばい宗教に影響されて死んじゃったらしいよ』

『そうならなくてよかったよ』

 あたしそれを聞いてしまったんです。


 あとは消えるのを待てばよかったのに。思い出してしまったんです。


『絶対にこっちのこと好きになる人なんていない』


 せいくんの言葉です。中学生の時の。……文脈は忘れてしまいました。あたしに向けられた言葉じゃなかったこと、そのときのせいくんの確信を持った横顔、それだけが目の裏と鼓膜に焼き付いて離れない。これは、淡島青磁くんのことをすきだったあたしはあの人の勘定にはいっていないってことを証明する言葉だから。はい。……一度だけ伝えたことがあったんです。言い逃げに等しかったけれど。


 いまから十年前の一月三十一日でした。

 雨だった。雨の中を傘を持っていないせいくんが通学路を歩いていくのをみつけて、追いかけて、折りたたみ傘を差しだしました。せいくんは「どうして?」って。その頃はあたしはせいくんの隣のクラスだったから、言い訳が思いつかなくて。せいくんがすきだったからっていったんです。ずっとすきだって。そうですね、小学生です。子供の言葉だし、覚えているわけないし、伝わるわけもない。


 翌日以降、何度も目が合った。

 何も言わないし、いえなかった。

 ただあたしとせいくんの間にあったのは気まずさでした。

 だからわかってたんでしょう、少しくらいは。


 なのに、それすら見て見ぬふりして、悲劇に浸っている! 誰からも愛されない。それは幼稚で、悲観的で、甘美で、うつくしい毒薬です。ゆるせなかった。あたし、ゆるせなかったんです。すきだったから。


 リレーの選手じゃなくても、背が高くなくても、声が大きくなくても、一目でなにか特別だっていえるものがなくて、よかった。

 だってせいくんはすごいひとだってあたしにはわかっていたから。

 あたしは、せいくんみたいになりたかったから。


 紫穂の空想の中には確かに魔女はいて、その魔女の名前はアイカワハルカだけれど、それはあたしではない。

 もっと理想像めいたなにかなんです。

 あたしは理想の成り損ない。紫穂の理想は、やさしい魔女だった。


 不思議ちゃんでも、周りとずれてても、いざというとき頼れる、とてもやさしい魔女。__ねえ思いませんか? 淡島青磁くん、そのものだって。だからあたしはせいくんの歩き方も食べ方も表情も言葉も、ぜんぶ大事にした!


 あたし、一度もせいくんから名前を呼ばれたことがないんです。

 ちょっと観察すればそもそもせいくんは滅多に人の名前を呼ばないこともすぐわかった。けれど、確かに誰かを呼ぶんです。

 仲がいい男子の名字を呼び捨てに。偶然隣にいただけの女の子の名字にはさんをつける。一緒にメダカの世話をしていた三人のうち、せいくんでも、あたしでもないあの子!あの子はマユちゃん! 

 あたしはいつだって肩を叩かれるばかりだった。


 あたしは自分の名前が嫌い。でも、せいくんに名前を呼ばれないと不満だった。せいくんは、あたしのことなんて認識していないんじゃないかって不安でした。そんなこと気になったことなかったのに。


 卒業アルバムに寄せ書きをしてもらっても、隣の席になっても、十年たっても。あたしだけ覚えてるんです。あたしの食べ方にも表情の作り方にもせいくんが住んでいて、忘れるなんて到底無理なのに。忘れたらアイカワハルカごと消えるのに!

 でも、せいくんは一度もあたしのことを認識なんてしたこともない。そう思うと、墓前だとしても一言いわなきゃ気が済まないんです。

 だってそうでしょう。

 覚えておいてよ、ばかって、いわないとしんでもしにきれないじゃないですか」



 堪えていた涙が床に落ちた。膝をついて、アイカワは泣いた。カーペットの上に涙が落下する。葉の上の朝露が重みに耐えかねて、水滴同士が集まって、落ちる。


「なんだあ、せいくん、あたしのこと覚えてたんだ、わかってたんだ。あたし、てっきり」

 幼子を抱く女の聖像のように、ポストカードを抱いている。アイカワは脱力した。上から見下ろすと涙で頬を濡らしながら泣いているように見え、下から見ると眉が垂れて悲しんでいるように見え、正面から見ると曖昧に笑っているように見えた。

「渡してくれればよかったのに。そしたらあたし、一生大事にしたのに」

 上映が終わった直後の映画館のような明るさのなかで、陶子はアイカワの手をとった。左手には指の跡が残っていた。

「これからどうするの?」

「……水族館に行ってみようと思います。この、ポストカードの」

「そう……青磁のはなしを聞かせてくれてありがとう」

 アイカワは笑った。目じりに皺が寄る。口角は綺麗に半円を描いていた。

「こちらこそ、お話ができてうれしかったです。……どうか押し寄せる倦怠の少ないよう、祈っています」

 アイカワハルカは去った。


 陶子は歩いた。

 無数の鏡に陶子の姿はなかった。

 玄関のノブに右手をかける。扉は少ない力で開いた。

 外は、雨が降っていた。

 静かな雨だった。細く、銀色の、秋の雨だった。

 陶子は紫色の折りたたみ傘を右手に握ったまま、庭に向かって歩いた。


 翌檜は自宅の柵から膨らむようにはみ出し、紫陽花は乾燥して色が抜けていた。伸びきった夏草が陶子の膝裏をくすぐる。酷い有様だ。青磁に庭の手入れをしてもらわないと。ごく自然に、そう思った。それから思い出す。

 ああ、もう青磁はどこにもいないんだった。

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2024年11月29日 06:00
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僕らは魔法をつかえない。 入相杏樹 @harukujiracco

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