幕間一 雨

1

 雨が、ふっている。


 男の、眼球に。


「おおぁ、おぁぁぁ」


 ああ、死ぬるかよ。


 男はそう言ったつもりだったのだが、自分の耳に聞こえてきたのは、間抜けな獣の唸り声のような音。おかしいのは口かのどか、それとも耳か。いや、その全てかもしれない。


 今までたくさん斬ってきた。


 ただ斬りたくて、斬ってきた。


 これが、その報いであるなら、むしろ誇らしい。


「だまれ、この、匹夫めがっ!」


 男を斬った人間のうちのひとりが、浅葱のダンダラから滴る水滴を切りながら、そう言って瀕死の脇腹を蹴り上げる。


 ありがたい、痛く感じぬわ。


 男は、死につつあるおかげで痛みを感じなかったことにホッとした、そして、ホッとした自分がバカバカしくてやはり笑った。


「なにがおかしいかっ!」


 答えられぬわ、すまぬな。


 ただ、おかしいといえば、やはり自分はおかしいのだろうな、とは思っている。この血風吹きすさぶ京の街で、勤王でも佐幕でもなんでもなく、ただ人を切るためだけに人斬りを請け負ってきた自分。


 純粋といえば純粋、醜悪といえば醜悪。


 手練れを斬り、いい女を抱き、そしてうまいものを食うことだけを人生のすべてと捉えて生きてきた。それこそが極むるべき人の道と思うて今日この瞬間まで必死に生きてきた。


 これほどに実りある生はないのだと。


 そう、ただみだりに人を殺したかったのではなく、命が爆ぜ合う瞬間の青い炎を見たかったのだ。


 ただみだりに精を放ちたかったではなく、獣と化した人間の真に正直で滾る姿が見たかったのだ。


 そして、みだりに食い散らかしたかったのではなく。


「旨いのもを、知りたかったのだ。旨いとは、なにかを」

「はぁ?!」


――ガッ!


 思いがけず声が出て、同じく思いがけなく声を聞いた男が再び脇腹を蹴り上げた。


「身体中に穴をこさえて言いたきことがそれでござるか」


 わるいか。


 お主らの敵を切り飛ばして得たこの金で、飯屋をこさえたかったのだ。それを、話を違えてなますにしおって。そうか、こいつらにも主義などないのか。そうだ、うむ、そうだろうな。


 ひとなぞ、皆同じよ。


 欲には勝てぬ。欲のために生き、欲のために働き、欲のために磨き、そして、そのうちの数少ないものだけが欲のために死ぬのだ。運の良いものだけが、欲のために死ぬるのだ。


 ああ、ほんとうに、拙者は、運が良い。




 雨が、降る。


 目玉に直接、雨粒が落ちておる。


 ああ、誰もおらんようになってしまったな。


 しかし、殺すまでのことをしておきながら、懐の内の銭はおいていきおった。なんともったいない、なんとも、もったいない。


 もったいない。


 拙者が、飯屋を開くための金が。


 雨に濡れおるわ。雨と血に濡れて、錆びおるわ。


――心残りかえ?


 だれぞ。


――神じゃといわば信じようか?


 浮遊せし魂魄に直接話しかけるものは、神であるべきであろうな。


――かもしれぬぞえ。


 歳経た物の怪と神との違いについて、神を名乗るものと語り合うのも一興かもしれぬな、やるか?


――くっくっく、結構じゃ、いらぬわ。にしても、おかしな御仁よなぁ。


 で、なんの用であるかな……


――くはっ、おもしろき、おもしろき。


 ふうむ、拙者はその方を楽しませるために生きたのでも死にゆくでもないのでな、用がないのであれば、見物など悪趣味はやめよ。


――用なら、言うておろうに。心残りはないかえ。とな。


 ほぉ、心残りを聞くということは、何ぞ願いを叶えてくれるというわけか。さしずめ来世の契といったところかな。まあいい、ならば鹿しっかと考えよう。


 そうよな、拙者の心残りはなぁ。


――なんぞ、なんぞ。


 もっと斬りたい、もっと抱きたい、もっと食らいたい。


――欲深よなぁ。


 それが人であろう。


――さもありなんさもありなん。


――しかし、それでは。


――亡者ではないかえ。


 亡者?


 はっはっは、神とは存外に面白げなことを言うのであるな。でもそうよな、今死にゆく拙者はたしかに亡者かもしれぬわ。このままこの世を去ることになれば、この願いも妄執ということになるであろうからな。


――亡者が嬉しいのかえ?


 さぁて、嬉しいかもしれぬし、そうでないかもしれぬ。


――ああ、やはり面白いやつばらじゃ。


――亡者となるを嫌がらぬとは。


 なってみねばわかるまい。


 女郎になって法外な幸せを手に入れる女も、まあそんなものいるはずがない、と思うかもしれぬが、いないわけではないからな。


――ひひひひひひ。


 けったいな笑い方をしおる。


――欲深き亡者よ。


 何であろうかな。


――懐の銭、アレこそ心残りではないかえ。


 おお、そうであったわ。まさに最大の心残りよな。


――なぜ、飯屋を開きたいのかえ。


 自ら食らうのでは本当に旨いとはなにかを知ることは出来なんだ。だから今度は、食わせてみたい。


 旨いを知らぬものに。


 旨いものを。


 さすれば、さすれば、さすればきっと。この拙者の胸にある、潤しても潤してもひび割れるほどに乾ききったなにかが、潤うかもしれぬ、満たされるかもしれぬ。


 それまで、それまでは、死ねぬ、死にとうない、死ねぬ、死にとうない、死ねぬ、死にとうない……。


 剣客でありながら。


 生への執着が拭えぬ。


――亡者めが。


 さもありなん。


――初めは面白きものと思うておったが、汚らわしうなってきたわい。


 やはりお前は神ではない、物の怪よ。


――なにゆえじゃ。


 神が、人の汚らわしさを知らぬはずがなかろう。


――亡者は、地獄へ落ちるべきか。


 やはりお前は神ではない、物の怪よ。


――なにゆえじゃ。


 神は約束を違えぬ。


――なんと心憎きものであるかや。


 互いになぁ。


――しかし、抜かしおるとおりじゃ、神は約束を違えぬ、よって、お主はは生きにくき世界で生きよ。


 生きにくき?


――そうよ、数百年の後の人間が幻想の内に拵えた複層の世界の一枚。


 理由がわからぬ。


――その世界で。


 その世界で。


――亡者として、生きよ。


 委細承知にて、うけたまわってござる。




 神よ。

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人斬り飯屋『誠』~幕末の人斬り剣豪は異世界で飯屋を開く~ 雷三葉(かみなりみつは) @kaminarimitsuha

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