第二章

第31話

 昼間の光が格子状の窓から部屋に溢れる。外からは忙しなく蝉の声が響いている。天井には雄大な黒の梁が圧倒して、扉の上には竹細工の使われた意匠が刻まれていた。テーブルと椅子が置かれた居間での、夏の昼下がりの穏やかな時間だった。ちょうど学校は夏休みに入ったところだ。

 「あ゛つ゛ー」

 私は扇風機の風を受けながらも思わずテーブルにもたれかかって呻く。気の狂うような暑さ。暑がりな私にはお手上げだ。

 「あ、動かんといて。もっと美人さんな表情してくれはる? 素材はええんやから勿体無いで」

 「ったくうるさいなー」

 私は尊大な態度でテーブルに肘をつき頭を支える。その視線の先には暁史がいた。鉛筆を一心に走らせて、スケッチブックに齧り付いている。彼の癖毛の赤髪は長く垂れていて、風に軽やかに揺れるたび鮮烈な赤色が一層際立つ。着ている着物は薄い藍色。紫色の縁取りが胸元に施されていて洗練された雰囲気を保っていた。紫水晶のような透き通った瞳は、深い色合いを持ちながらも夏の日向の中で輝きを帯びている。まるで夜空の星々が昼間に現れたかのように、静かで力強い光だ。普段の彼の鋭さは影を潜め、その目には確かに焔があった。絵を描く楽しさに煌めきながらゆっくりと燃えている。

 今の私は黒いツノを額に出して、牙まであらわにしている状態だ。暁史は片眉を上げてくどくどと言葉を続ける。

 「バイト代出してるんやから、もっとちゃんとモデルやってくれる?」

 「アイスくらいで私を買収できたと思うなよ」

 「さっきまで喜んでハーゲン食べとったくせに。三つも平らげとったやん」

 その言葉の間も、焦げつきそうなほどの視線を感じていた。いつまで経ってもこれには慣れない。そわそわと胃の底が浮き立つような心地だ。私は頬杖をつくと暁史の手元にあるスケッチブックに目を落とした。そこにはTシャツを着て、満面の笑みを浮かべる鬼の少女がいた。それは、その瞬間の楽しさを捉えている。紙面上に広がるのはただの線と影。でもそこには確かに息づく命が感じられる。

 アイスを持つ手の微細な指の動き、嬉しそうに目を細める顔、頬に乗るほんのりとした汗。私の姿がどんどん紙に再現されていく。

 私はただぼんやりと暁史を眺めていた。楽しそうに目を輝かせて描く暁史のことを、このままいつまでも見ていられる気がした。蝉の声がする。麦茶の氷がカランと涼やかな音を立てた。グラスの水滴が静かに落ちる。このゆっくりと過ぎる時間の中、私ははっきりと自覚していた。

 私は今、恋をしている。


 しばらくして暁史は絵の具を引っ張り出してくるとそこに色を加え始めた。薄鼠色髪が、夏の微風に揺れた時のようにざわめくその瞬間。髪の毛一本一本描き加えていく様子に、彼の集中した気迫が伝わってくる。彼の手が触れるたびに、絵の中の私は生き生きと動き出しそうだった。


 その時、玄関の扉がバタンと閉じた低く重い音がして、私は顔を上げた。その音に反応したように廊下の先から一人の少年が現れた。猫耳が生え二又の尻尾を生やした黒髪のその少年は、まるで影から出てきたかのように足音を忍ばせて歩いてくる。

 「あ、アオ。どこ行ってたの? アオの分のアイスとってあるからね」

 「……オウ。後で食べる」

 藍色の甚平の袖口から覗く真白い腕の右手の甲から肘にかけて、桜の花びらのようなアザがある。その艶やかな黒髪の下には利発そうな蒼玉の瞳が。そしていつもなら飄々とした生意気そうな表情があるはずだった。しかし、そこにあるのは思い詰めたような顔つきだ。アオはどこか沈んだ表情でそのまま二階に上がっていった。


 

 ◇

 

 

 雪貞が死んだあの日のことはよく覚えている。悪四郎という強大な妖怪を封印するために、その身を捧げたのだ。悪四郎はかつての妖怪の中も特に恐れられた存在で、その名は妖怪界全体に広く知られていた。

 みるみるうちに縄張りを拡大し続けていた、残虐で非道な妖怪だ。

 悪四郎を祓おうとした祓い師たちは、一人残らず惨殺されて見せしめにその首が晒された。そして祓い師が負ければ、その家族までもが探し出されて殺される。

 祓い屋業界は震撼した。誰かがあいつを倒さねばならない。誰かが。でも誰が。

 そこで、白羽の矢がたった。雪貞へ『悪四郎を祓うように』という命令が下ったのだ。祓い屋業界でもハズレものの雪貞へ。

 だが、当の本人の雪貞は「順番がやってきただけ」なのだと煙草を吸いながら淡々と言葉を続けた。目元へ影を落としている前髪は赤みがかったグレーに近い銀髪。毛先がふわふわと跳ねている。いつも下駄を履いていて、白い羽織を着ていた。

 「雪貞!!」

 咎めるその声は誰が言った言葉だったのか。その場にいる使い魔の、オレも黒羽も銀二も固く張り詰めた顔をしていた。オレは震える拳を握りしめる。雪貞は自分の命を犠牲にして、悪四郎を封印しようとしている。

 だが雪貞はオレたちを見て仕方がない子でも見るように、微笑む。煙草を指に挟んでふうと煙を吐いた。

 「もうこうするしかない。誰かがやらなくちゃいけないんだ」

 「別にお前じゃなくったっていいだろ!」

 そう言われることをわかっていたのか。雪貞は口端をくいと上げた。

 「これは決定事項。悪いけどお前らに拒否権はないよ」

 そして煙草を踏み潰して火を消す。

 「最期の一服は最高だな」と笑った。その晴々とした笑顔。オレは言葉が出なかった。なぜそんな顔ができるのだろう。自分が死ぬとわかっていて、なぜ。そんなオレたちに、雪貞はニカっと笑って言った。

 「安心しな。オレ様が死んだらお前らは晴れて自由だ。各自好きに生きろ」

 当たり前だが、誰も喜ぶ者はいない。それで喜ぶくらいだったら、こんな奴に仕えてない。

 オレは悔しかった。オレたちが妖怪だから、使い魔だから拒否権がないのだろうか。引き止めることもできない。そんな権利もない。一緒にあの世に連れて行ってもくれない。

 「雪貞、お願いだから……」

 オレは呟いた。声が震えて、言葉が途切れた。雪貞は目を細めて笑った。


 「今までありがとな、お前ら。愛してるよ」


 涙がこぼれそうになるのをオレは気合いで耐えた。こいつの最期の記憶に残るのがオレの泣き顔なんて嫌だった。見れば銀二も苦しそうに皺を寄せて笑う。

 

 「クロハは嫌だ!! 雪貞!! クロハも連れてって!!」

 黒羽が雪貞に掴みかかる。嗚咽混じりで必死に叫ぶその姿を責めることはできない。オレもそうしたい気持ちでいっぱいだったからだ。その後ろで銀二が黒羽の頚椎に手刀を落とす。それを受けた黒羽は意識を失って崩れ落ちた。

 「悪いな銀二」

 雪貞が黒羽を抱えて目を伏せた。こうでもしないとクロハは絶対に雪貞を離そうとしなかっただろう。言霊を使って無理やり従わされる最後なんて、雪貞だって望んでないはずだ。そのまま黒羽を受け取りながらも、銀二は震える声で言った。

 「ひどい奴だよ、お前は。俺ァこの名前も気に入ってたんだぜ。アンタに呼ばれんのも好きだった。アンタのためなら死んでもいいのによ……」

 雪貞は困ったように笑うばかりだ。


 そうして、オレたちは遠くから悪四郎と雪貞の戦いを見ていた。その場には悪四郎の配下たちが連なっている。その戦いは、悪四郎が優勢に見えた。だが……その瞬間がやってくることをオレは分かっていた。オレたちは雪貞が失敗するなんてことは考えなかった。間違いなく雪貞はやり遂げる。やり遂げてしまうと分かっていた。

 風が止み、世界が異様な静けさに包まれる。雪貞は地面に膝をつき、手のひらを冷たい土に押し当てた。その動きには迷いがない。雪貞は低い声で呪文を唱えていた。

 「我が魂よ、風となりて大地を巡れ……」

 空は赤黒く染まって風が渦巻くように吹き荒れ始めた。地面は震え、周囲の木々が悲鳴を上げるように揺れる。

 雪貞の指先から白く輝く光が大地に染み込み、複雑な紋様を刻んでいく。美しくも力強い幾何学模様のそれは、命を代償とする封印術の証。

 「……この命を大地に捧げ、悪しき力を封じる」

 悪四郎は何をしているのか理解したのか、驚愕に目を見開いて怒鳴る。

 「お前!! 気狂いか!? この術を使えば術者は永遠に魂が縛られるんだぞ!!」

 吠える悪四郎の姿が、術式の文様に掠め取られるように変化していく。凶暴な妖気が次第に光の鎖で縛られて、体が動きを失っていく。


 結局、やっぱり雪貞は悪四郎を封印することには成功した。その命を代償として。


 今でも、”もっとこうしておけば”とか、”もっとオレに力があれば雪貞を救うこともできたんじゃないか”って思うことがある。そうしたら守れたのか、とも。

 でも雪貞は絶対に一緒に死ぬことを許さないのだろう。オレたちは雪貞の命令に従うしかない。名を与えられ、それを受け入れることでオレたちは縛られている。オレたちには雪貞を引き止めて共に生きてくれと喚く権利もない。

 ただその時は、風も音も全てが遠くに感じられた。頭の中が真っ白になって、身体が麻痺したみたいに動かない。すぐにでも雪貞のところへ駆けつけたかったが、……足が動かなかった。情けないことだが、雪貞が死んだことを受け入れたくなかった。

 悪四郎の配下の妖怪たちは悪四郎が封印されたことを察すると一目散に散り散りになって逃げていった。所詮力で支配していたのだからそんなものだろう。


 やがて黒羽は目を覚ました。ゆっくりと青ざめた表情のオレと目があう。オレは唇を噛み締めて見つめ返すことしかできない。それに一瞬でその最悪の状況を察した黒羽。すぐに力なく倒れた雪貞を見つけると震える足で駆け寄った。そして、何度揺さぶっても雪貞が起き上がらないことを、黒羽は理解する。

 雪貞の亡骸を抱えて、黒羽は声を上げて泣いていた。その胸の痛みがこちらにまで伝染するような悲痛な声だった。オレはジクジクと痛む胸を抑える。

 しばらくして、目を伏せていた銀二が呟いた。

 「おい、そろそろ家族に返してやらねえと……」

 「嫌だ!!」


 黒羽は、ぼたぼたと大粒の涙をこぼしながら、雪貞だったものを抱きしめて叫ぶ。

 「家族がなんだって言うんだよ!! 人間ごときが!!」

 黒羽はオレが言いたかったことを代弁していた。

 「そんなモノ、何も雪貞のために何かをしてくれたことなんてないじゃないか!!毎日、毎日、雪貞は人間のために戦ってきた!! なのに雪貞のために戦ったヤツが何人いた!? それどころか雪貞を悪く言って蔑むヤツばかりだ!!」

 半妖である雪貞はどこにも居場所がなかった。祓い屋の世界では特に。事実だ。

 「……全員が全員じゃねえだろうが。雪貞の家族は悲しむさ」

 銀二が息を吐いて窘める。そうして黒羽の肩に手を置こうとして振り払われた。

 「うるさい!! クロハの方がずっと悲しんでる!! 絶対!!!」

 

 黒羽が叫ぶたび、オレは自分の一部を引き裂かれたような心の中に穴が開いたような、そんな感覚があることを突きつけられた。どんな言葉をかけたらいいのかもわからない。自分がこんなにも無力だと感じる。

 「クロハは認めない!! そんな世界……雪貞一人が犠牲になって回るような世界、滅びればいいんだ!!」


 黒羽は雪貞の身体を抱えると、漆黒の雄大な翼を広げる。

 「オイ!!」

 止めようとする間もなく、黒羽はあっという間に飛び立ってしまった。

 

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夏の終わりは朱く滲む 一夏茜 @13471010

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