第30話
廊下をただ歩くこの三人の間には少しの静寂に包まれていた。微かに床が軋む音が響く。そうして私たちは暁史の部屋にやってきた。扉を開けると、暁史は足を進めて机の隅に置かれた缶を取り出す。傷跡だらけの古いお菓子の缶だった。畳に座り込んで蓋を開けると、いくつかの紙と写真が入っていた。手紙や、幼い子供が描いたような絵。
その中から暁史が取り出した一枚の写真。それには三歳くらいの幼い子供を抱き上げる一人の女の人が写っていた。揺り椅子に腰掛けていて、その膝の上で抱き上げられた子供──暁史は短く切られていて少し癖のある黒髪。薔薇色に上気した頬はぷくぷくとまろい。無邪気にこちらに紅葉のような小さな手を伸ばしている。私は楓とともに、その写真を覗き込んで嘆息した。
「綺麗な人だね」
暁史に頬を寄せて笑っているその美しい女性が暁史の母親なのだろう。濡羽色の艶やかな黒髪に、暁史と同じ透き通るようなバイオレットの瞳を持っていた。鼻筋の通り方から、外国の血が混じっているのがわかる。
「母ちゃんはもともと気の弱い人やった。優しくて、儚い。そんな人や」
暁史は古びたお菓子の缶から、一枚の絵を引き出す。その紙には、色鉛筆でのびのびと描かれた妖怪や家族らしき姿が並んでいる。幼い手で一生懸命に描かれた跡が鮮やかに残っていた。暁史はその絵を指先でそっとなぞりながら、僅かに目を細める。
「俺は母ちゃんに絵を見てもらう、その瞬間が好きやった。いつも笑ってくれたんや」
描き上げたばかりの絵を母の元に持っていくと、彼女が微笑みながら一枚一枚丁寧に眺めてくれたのだと暁史は懐かしそうに言った。幼い暁史にとって、絵を描き、それを母に見せる時間は何にも変え難い喜びで、世界の全てだったのだろう。わかる気がする。その瞬間を語る暁史の声はどこか心を締め付けるような声色で少し掠れていた。この家で絵を褒めてくれるただ一人の人だった。そう、暁史は微かな声で呟いた。
「母ちゃんは、この家で一人やった。祓い屋でもないような、なんの権力もない家の出身やったんや。それがなんの間違いか親父に気に入られてしまった。ほんまはこんなとこ来たくなかったんやろうな」
暁史がなぞるその絵は、幼い頃の彼が母に向けた愛情そのものだった。暁史は、母の微笑みが自分をどれだけ支えてくれていたかを、今も忘れられないでいる。私はそう思った。
「俺はこの家が母ちゃんを殺したって言ったな。でもな……俺のせいでもあるんや」
暁史の言葉は酷く重たい。その言葉が持つ冷たさ。息が詰まった。そんなわけないと反射的に否定したくなるが、その重みのある眼差しと言葉に込められた冷たさがそれを許さない。
「俺が祓術の才能なんか、くだらんもん持ったばかりに、権力争いに巻き込まれた」
暁史はただ淡々と言葉を紡ぐ。暁史の声は抑揚のない、酷く静かなものだった。平坦に紡がれるその言葉の裏には、深い傷が隠されている。その傷は長い年月をかけて暁史の心の奥底に根を張り、じわじわと蝕んできたものだ。それを考えると胸の奥が軋むような気がした。
「自分の子供が当主を目指す障壁になるって女どもに判断されてもうた」
彼が見てきたのは、穏やかな愛すべき家族の姿だけではないのだろう。自らの存在が、母を苦しめる。そして周囲の人々にとって利用される存在だと思い続けてきたのかもしれない。それは私なんかが推し量れないほど深く、心に刻み付けられた傷だ。今もなお、彼を縛り付けている。
隣で楓が耐えきれず涙をこぼしていた。その大粒の涙は静かに、けれどとめどなく流れる。楓のその様子を私はただ黙って見守ることしかできなかった。
「俺なんか産んだばっかりに、死んだ。不幸な人や」
彼の言葉に宿る哀しみは、彼がどれほど母親のことを愛していたのかを示している。そして、同時にそれが彼の人生に刻まれた消えない呪いのようだった。私は唇を噛み締めた。
自信満々に笑ってるのが暁史は似合うのに。自分を責めている姿なんて見たくない。笑ってて欲しいんだよ。
「暁史兄さんは悪くない!! そんなこと、幼かった兄さんが悪いなんて、誰も思ってへん!!」
楓は涙をはらはらと流しながらそういった。しかし、暁史は皮肉げに微笑む。
「でも、この家では弱さは罪や。所詮、母ちゃんを救えんかった無力な俺も弱者ってことや。昔からこれが嫌いやったはずやのに、その思考の全てを否定できへん俺もおる」
きっと暁史は自分が作り出した罪とずっと向き合ってきたんだ。気づけば私は立ち上がっていた。そしてきつく暁史を見つめる。そうじゃないと涙がこぼれてしまいそうだった。
「それは暁史が背負うべき罪じゃない。お母さんも暁史にそんな風に思って欲しかったわけじゃないはず。そうでしょ?」
──弱さが罪だなんて、おかしい。その時になって初めて、私は強く思った。でも、うまく言葉にできない。もどかしい。
私は必死に頭を真っ白にして言葉を紡いでいた。
「人間は、無敵の存在じゃない。たくさんの不完全さや脆さを抱えてる。でも、その方が面白いと思わない? みんなが完全無欠の存在だったらきっとそんなのつまらないでしょ? 隙があるから、魅力が生まれる」
その言葉に、暁史は少し目を見開いた。借りた言葉でしか語れない。暁史の心を救うなんてできない。過去に囚われる暁史の力になれるのかも分からない。こんなにも自分の無力さを痛感するのは初めてだった。でも私は無我夢中で、必死だった。
暁史が私のことを信じてなくても構わないよ。それでも私は暁史のことを信じたい。そう強く思う。だって暁史のことを想ってるから。もう私にとってかけがえのない人になっていた。
──大切な人一人も救えないなんて、自分が許せない。
そこまで考えで私は息を呑んだ。ああ、暁史もずっとこんな気持ちだったんだ。苦しくてやるせなくて、自分に沸々と怒りが湧いてくる。相手が大切な人だからこそ、それを救えなかった自分に対して責める気持ちが出てきてしまう。でも暁史はもっとずっと辛かったに違いない。だって相手はもういないんだから。
でも暁史が自分の無力さを罪だと考えるのを私は否定したかった。否定しないと、暁史はずっとその考えに支配されたままなのだと思う。
そもそも、”強さ”と”弱さ”って何だろう。……分からない。分からないことだらけだ。
それでも私は真剣に頭の中を白く染めて言葉を紡ぎ出した。
「私、強さがずっと欲しかった。強さがないと、何も成せないって今も思ってる。それでも……それでも──」
でも、まだ足りない。一歩踏み込めてない。これじゃ暁史の心には届かない。私は思わず口走っていた。
「証明するよ!」
暁史も、楓だって目を大きくさせて私の顔を見上げている。私は訳もわからず込み上げる涙を堪えて、無我夢中で言葉を紡ぐ。
「私、うまく言えない。でも、弱さが罪なんて、それが間違ってるっていつか必ず証明するから!!」
ポロリと涙が一粒こぼれた。
いつか、私はこれに答えを出す。やってみせる。そう決めた。暁史の傷を少しでも癒したいから。彼を苦しめる自責の念を吹き飛ばしてやりたい。
私ができることは少ないけど……でも暁史が私の孤独を少しでも埋めてくれたように。私も暁史に寄り添いたい。暁史を救いたいなんて、大袈裟なことは言えない。でも、でも……どんな形でもいいから隣に居させてほしい。
◇
私は荷物を詰め込まれたリュックを背負って、芦屋家の前に立っていた。隣には同じように鞄を抱えた暁史とアオがいる。そんな私たちを見送るのは、楓や宗一郎に、桔梗に舞、正宗、アズマなど。たくさんの人々。楓は私の袖をそっと摘んだ。
「もう戻るん? もっといてや」
「そうやで、もっと一緒に鍛錬しようや」
舞がニッと笑って言う。それに対して私は呻いた。
「勘弁して……というか、舞さんここにいていいんですか?」
絶対安静だと聞いたが……。それに対して正宗は苦笑い。舞は腕を組んでふんと鼻を鳴らした。
「あいつらは大袈裟なんや。私は大丈夫やっていってるんに」
そこで「晴」と正宗に名を呼ばれる。顔を向けると正宗が少し真面目な顔をして私を見ていた。
「舞のこと助けてくれちょって、ほんま助かったき。おまんがおらんかったら、どうなっちゅうたか分からんきに……心から感謝しちゅうぜよ」
「いいんですよ、それに私だけじゃなかっし」
私は眉を下げてそう言った。正宗は柔らかく微笑む。
「楓にも礼は言うた。アオも困ったらいつでもわしに言うてえいよ。必ず助けになるき」
アオと私は顔を見合わせて笑った。そして頷く。それらを隣で見ていた暁史はしみじみと呟いた。
「あっという間に人気やね」
その言葉に私は少し考える。そして唸りながらも声を出す。
「うーん。あのさ、多分暁史が自分で思うよりもずっと暁史は人気なんだよ」
「は?」
私は深く息を吸い込み心の中で決意を固めた。全身に漂う不安と緊張を振り払うように腕を大きく広げると、勢いよく暁史に抱きついた。体がぶつかる瞬間、着物の布が頬に触れる。その瞬間、私は湧き上がった様々な感情を秘めるように目を閉じた。まるで時間がゆっくりと流れるかのようだ。鼻に香るのは男物の香水の匂い。その香りは暖かく重みがある。
暁史は明らかに驚いていたが、私は抱きついたまま笑って振り向く。
「楓もおいでよ!」
楓が少し恥ずかしそうに笑みを浮かべて暁史に抱きつく。それに続くように桔梗、宗一郎、舞と次々にみんなが暁史と私を抱きしめる。
「は、ちょ、お前らどうしたん」
私は明るい笑い声をあげた。楓も私のすぐ横でくすくすと笑っている。みんな胸が暖かくなるような笑顔だ。開けっぱなしの笑い声が響いていた。これで少しでも暁史が自分に関する意識を変えたらいいと思う。この家で暁史以上に人気のある人なんていないんだから。
そうして手を振り、別れを告げる。私とアオ、暁史はゆっくり砂利の敷き詰められた小道を歩き出した。みんなが手を振って快く送り出してくれる。
「暁史兄さん!」
楓の声が響いた。暁史は振り返る。楓は緊張したように唾を飲み込むと言った。
「また、帰ってきてくれる?」
「……そうやね。また来るわ」
日差しは真上からまっすぐ降り注ぎ、地上に強烈な輝きをもたらしている。それは私に夏を思い出させた。太陽の熱はまるで肌にまとわりつくかのようで、ジリジリと熱波が体の中に侵入してくる感覚だった。蝉の声が忙しなく聞こえていた。夏は全てが生き生きとした光と音に満ちている。夏の冒険はもう経験したけど、これで終わりじゃない。そう確信があった。
私は空を見上げた。真っ青な空に漂白されたように白い雲が浮いている。飛行機雲が空にくっきりと残っていた。
────夏はまだ続く。
私はまた一歩踏み出し、歩み始めた。
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