第29話
笑い声や話し声が聞こえて徐々に目が覚める。隣の楓はもう起き上がっていて、誰かと話していた。相手は宗一郎だ。時刻は昼の十二時を指している。陽の光が降り注ぎ、柔らかな影が床や庭先に落ちていた。優しい出汁の香りが鼻を掠める。
宗一郎は私を見ると少し疲れたように微笑んだ。
「晴も起きたか。大変やったな。無事でほんまによかった」
「あの、舞さんはあれからどうですか?」
私が尋ねると、宗一郎は小さく頷いた。
「医者も驚いてるくらいや。あいつの体力は並外れとる。意識もはっきりしとるし、ただ少しの安静が必要らしいわ。安心してええ。ただ……」
「ただ?」
やっぱり彼女に何かあったのだろうか。私は眉を寄せて問いかける。それに対して、宗一郎は呆れたように言った。
「舞は『もう自分は大丈夫や』って言い張って屋敷内を闊歩しとる。相変わらず馬鹿な奴や」
私は思わず笑ってしまった。楓もおかしそうに笑みを浮かべている。笑いが落ち着くと、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「なんで舞さんは岳にあんなに執着されてたんですか?」
「さあな。でも岳と舞は幼少期から仲がよかった。一番年上の舞がガキ大将で、岳はその後をついてく感じや。暁史が本に齧り付いたり絵を描いてる間、あの二人はよく一緒に遊んどった」
「へえー!」
「当然、婚約の話もトントン拍子で進んだんやけどな。高校生くらいか……ある時二人は喧嘩したんや。今でも覚えとる、殴り合いの大喧嘩や。まあ殴り合い言うても、舞が一方的に殴りまくるだけやけど。そりゃあもうボッコボコにしとったわ。で、それから舞がその婚約を激しく嫌がってな」
「それは私も覚えとる。舞姉さんは怒り狂っとったな。なんで喧嘩したんかは絶対教えてくれへんかったけど」
楓がそう呟いた。
「そんで、遊馬家の政宗くん紹介したんは僕や。あそこまで気にいるとは思わんかったけどな」
そこで、宗一郎は湯呑みを持って一口緑茶を口に含んだ。
「正宗くんはいい人や。あんなに懐が深い人、他におらん。舞のことも大事にしてくれてるみたいやし。さっきも顔を真っ青にして舞のこと心配しとった。元々僕は二人の相性はええと思っとったんや」
「キューピットってわけやね」
楓はおかしそうに笑った。
「やめえや、そんなんちゃうて」
迷惑そうに宗一郎は手を振る。そして少しの沈黙が落ちる。そこで、宗一郎は私の目をまっすぐ見た。その真剣で力強い視線に私はたじろぐ。
「暁史を頼みます」
「頼むって……」
「あいつは実は寂しがり屋なやつなんや。ずっと孤独と自責の念を抱えとる。そして、誰も信用せんと心に壁を作るのが癖になっとる」
”信用”というその言葉に、私は知らず知らずのうち息を呑んでいた。暁史は心に壁を作ることによって、岳でさえも信じなかった。そんな暁史が──私を信じるだろうか。心を、許してくれるだろうか。
「私は、暁史に信用されてると思いますか?」
「わからへん」
宗一郎ははっきりそう言い切った。目を丸くする私に、それでも言葉を続ける。
「ただ、これだけは言える。暁史は強い、でも弱さもある普通の人間や」
その言葉に、楓がピクリと動いた。そして宗一郎に視線を向ける。宗一郎は微笑みを浮かべながらも声を落ち着けて続けた。
「晴と話す時の暁史は心からの笑みを浮かべとった。だから僕は晴に賭けたいんや」
その瞳の真剣さに息を呑む。その瞳には嘘がなく、ただ真摯な思いだけが滲んでいた。
「晴の前なら、暁史は弱さを出せる。そんな気がするんや」
あまりにも熱を持った言葉だった。それに対してなんとか応えようと、私は目を伏せながらも必死で言葉を紡ぎ出す。
「私は……分からない。暁史が何を考えているのか。今も暁史に私は信用されてないんじゃないかって不安なんです。でも──」
私は視線を上げて宗一郎の顔を見た。
「私は暁史を信じたい。だから彼を理解することを、努力します」
◇
いくつもの足音が駆け抜ける廊下。家の者たちやこの家に集っていた祓い師たちが行き交い、忙しそうにしている。何せ昨晩夜行衆の襲撃があり、この家に集まった祓い師の中で裏切り者まで判明したのだ。屋敷全体に緊張が走り、まるで静寂をかき乱されたような混乱だった。
私は楓と二人で長い事情聴取を終えて、ようやく解放されたところだった。疲れ切った顔をしている楓が縁側に座り込んで、ぽつりぽつりと話し始めた。
「どうしよう、嫌われた。私なんか絶対嫌いや」
「そんなふうには見えなかったけどな」
私は手持ち無沙汰にそっと靴下を履いた足で木目をなぞりながら、呟く。しかし、楓は声色に不安を滲ませて言葉を続けた。
「私が暁史兄さんやったら絶対嫌いやもん、私なんか」
楓は苦しそうに、絶対という言葉を強調して繰り返す。楓の声には、強い罪悪感が漂っていた。彼女の母親が暁史の母の死に関与しているという話を知り、押し寄せる罪悪感に耐えられなくなっているのだろう。楓にとって暁史に嫌われることが一番辛く悲しいことなのだ。なおも、楓は辛そうに眉をギュッと寄せて言葉を紡ぐ。
「私の顔は母さん似なんやもん。顔も見たくないんちゃうか」
「そうかなあ。直接聞いてみれば? ほらそれとなくさ」
「無理やって!! 大体、私は暁史兄さん見ると緊張して話せへんのや」
声を震わせる彼女に、私は言う。
「ふーん。だってよ、暁史?」
その瞬間、楓は顔を真っ青にして振り向く。そこには柱に寄りかかり、腕を組んでこちらを見ている暁史がいた。眉を寄せて複雑な顔をしている。だが……その瞳には憎しみなどの負の感情はないように思えた。ただ、困ったように楓を見つめている。
「暁史兄さん……」
「お前そんなことで悩んどったんか」
楓の目は潤んでいて、今にも涙が溢れそうだ。暁史は楓を見つめ、少し間を置いて深く息をついた。
「俺が、親が誰かで判断するような人間に見えるんか? つまらんわ。どうでもええやろ、そんなこと」
暁史の言葉に、楓は一瞬だけ肩の力を緩めたように見えた。しかし、楓の表情はまだ苦しそうな色がある。それを見て暁史は頭を掻くと、静かに続けた。
「……俺は母ちゃんが自殺したんは誰か一人の責任やないと思ってる。強いて言うならこの家や」
「だからこの芦屋が嫌いなん?」
暁史は少し視線を逸らし、低く返した。
「まあ、そうやね」
重い沈黙がその場を制す。楓は暁史を見上げた。そして、ふと意を決したようにもう一度踏み込み、言葉を紡いだ。
「……当主を目指したくはないん?」
その言葉に、暁史は少し苦笑する。
「俺はな……嫌いなこの家を正そうと思うような真面目な奴ちゃうねん。そんなんおもろくないし」
暁史は少し頭を傾けるとフイと目をそらす。
「おもろいことって?」
「そうやなあ、妖怪ぶちのめしたり、絵描いたり、好きな推理小説読んだりやね」
暁史は腕を組んで、穏やかな声で言った。楓は前と同じ、輝くような瞳で暁史を見ている。暁史のことを一つでも知れるのが嬉しいって顔だ。私はほっとして頬を緩めた。ようやく普通の兄妹の会話に近づいてきた。そこで、私はずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ねえ、暁史のお母さんってどんな人だったの?」
「私も知りたい!」
私と楓の視線を受けて、暁史は少し迷ったように視線を彷徨わせた。そして考え込むように頬を掻く。
「そうやなあ。俺の部屋に写真があるけど見るか?」
「うん!」
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