龍華後宮の料理妃 ~美食は溺愛のはじまり!?~
本葉かのこ
1話-1 旅立ちの杏仁豆腐
鶏骨で炊かれた、あまやかなお米の香り。
つやつやとした粥の中には、
一口すすれば、二口、三口。
食が止まらぬ少女の母の粥は、健康なものが食せばその日一日、ポカポカと体が温かくなる。
ただしそれは、健康なものが食せばである。
朧月夜の今宵、小さな口が、必死で粥をすすっている。
自らの力で動くこと叶わず、寝台で粥を与えられる見知らぬ少年は、生を欲しているのだろう。
しかしその口元以外は、不気味な
形なく揺らぎ、掴んで取り払うことのできぬそれは死の影である。
彼はあと数日、生きられるやもわからぬ、灯火の消えかけた命なのだと、少女は確信していた。
だから悲しい気持ちで、少年と母を遠くから見ていたのだが、少女はふいに瞠目する。
闇に覆われた少年の腹が光ったのである。
小さいが、まばゆいばかりの金の粒子。
それは
身をくねらせて飛び立ったのは、たしかに黄金の龍であった。
それは死の影をゆうゆうと蹴散らして、天へと舞い上がる。ふ、と姿を消したときには、靄は一掃されていた。
なに? 今の!?
『
あまりにも驚いて尻もちをついたまま天井を見つめていると、母がこちらにやってくる。
言葉が、出ない。母は首を傾げて、自分の前に跪く。
その手元がふいに光った気がして、少女は視線を転じた。
冷めてしまった粥は、優しい、やわらかな光に包まれていた。
……この光は、なあに?
目をパチパチとする少女の
◇◇◇
「お前には後宮入りしてもらう」
突然、叔父に呼び出され、そう告げられた
「あ、頭がおかしくなったんですか!? 叔父様!!」
「お前なんという口の利き方を!!」
「いやだって! 私のようなものを後宮に入れたら三日でお偉方に粗相をし、没落しかけたこの朱家にトドメを刺しかねないですよ? そんな危険を冒すほどに、叔父様が
「ええいっ、うるさい!! わかっておるわっ!!」
ただし両親はともに行方が知れず、母の弟である叔父に面倒を見てもらっている。
その上、朱家自体も没落しかけており、贅沢とは無縁の暮らしだ。
そんな
それは五年前に失踪した母が作るような、美味しい料理を作ることである。
しかし料理というのは庶民がやるもの。一応まだ貴族の娘である凜風は、
それで諦めるのが普通だが、
彼女は名家で女官のバイトをすると偽って家を抜け出しては、下町の茶楼『
それも男装をして。
もちろん、朱家の人間には内緒でだ。
それを三年続け、最近では茶楼の
それもこれも貴族の娘に必要な礼儀作法の習得をサボり、叔父が勧める将来有望な殿方にも心を揺らさず、寝ても覚めても料理料理料理。
――肉切り包丁をどう扱うか、重い鉄鍋をどう振るうか、鍛錬し続けた結果である。
つまるところ、
花も恥じらうお年頃の十七歳ではあったが、後宮入りなどまるで向かぬ娘であった。
「叔父さま、わかっていらっしゃるのでしたら、なぜそのような与太話を私に? なにがあったというのですか?」
「与太話……」と呟いた叔父の恨みがましい視線が、凜風の体のあちこちに突き刺さる。
たとえば使用人が着るような色褪せた衣やら、手に持った包子やら、整ってはいるがおしろいのひとつも塗っていない
「
「紅は料理の味見をするさい邪魔です」
「お前はまた!! 料理などという、野蛮なことをしておるのかっ、
凜風の後ろで気配を無にしていた侍女は、皺の刻まれた手をきゅっと握りしめた。
「だ、旦那様ぁ、誤解でございますぅぅ。凛風様は、凛風様は朱家の厨には、一歩たりとも入っておりませんっ」
「偽りではなかろうな。こやつをかばっても損をするだけぞ」
「はい、
うん、朱家の厨には入ってない。入るとみんな困るから、外で料理してます!
とは、間違っても口にしない。
「そうですよ、叔父さま。料理なんて、下々がする仕事です。朱家に生まれたこの私が、彼らの仕事をとってはいけません。昔の癖で『味見』と口をついて出ただけです。食事です、食事。紅は食事の際に、味が変わって邪魔に感じると言いたかったのです」
しらっと言うと、これ以上の追求を避けるために、話を元に戻す。
「それで叔父様? 私が後宮入りとはどういったわけでしょうか?」
「それは……」
叔父は渋面となって、視線を泳がせた。
庭の梅の実は黄色く熟し、そろそろ黄梅雨の時期であった。
その前に屋根の補修をしなければなと、凜風が思っていると、叔父は重々しく口を開いた。
発端は、皇帝陛下が
『先の流行病で後宮を彩る華の多くが失われ、いささか寂しく感じている。後宮は絢爛豪華に華々が咲き誇ってこそ、我が国の権威を他国にも示せるというもの。そこで国中から新たな華を迎え入れたいと思っている』
持って回った言い方だが、皇帝陛下は自分の嫁の数が少ないから、後宮にもっと女を寄越せと
それで国中に
後宮は一度入ったら最後、やすやすと出られない。
出られるときは、病になったときか、臣下に払い下げられたとき、あるいは長い年月を勤めて年期が明けたときである。
しかし入れば給金が支払われるため、困窮した家が、はたまた人買いが、娘をさらってきては後宮に売り飛ばす。
朱家は屋敷の手入れが行き届かず、雨漏りを心配する程度には懐が苦しい状態にあった。それでもこの叔父が、自分を売ったとは欠片も思わなかった。
やはり話には続きがあり、叔父は苦しい顔で、
「それで、
それで凜風はすべて得心して、舌打ちした。
「どこの馬鹿ですかそれ」
「わからん。だが、親バカを承知で言うが、我が娘、
「…………」
凛風が料理バカであるように、叔父は末娘の
それにしたって、『親バカを承知で言うが』などと、ヌケヌケとまあ。
親との縁が薄い凛風は、ほんの少し寂しい気持ちになる。心の柔らかい部分に、冷たい風が吹き込むような、なんとはいえない頼りなさを感じた。
しかし今問題なのは自分の気持ちではないと、気合いを入れて、口を開く。
「いくら
両拳を握りしめた。
「まだ十一歳じゃないですか!」
「……そうだ」
「ちなみに皇帝陛下って、おいくつでしたっけ? けっこういい歳だった記憶が」
「不敬だぞっ。……陛下は、三十四歳であらせられる」
「
「
目くじらを立てて怒鳴った叔父は、次の瞬間、疲れた様子でため息をついた。
その呼気が薄墨のような
あれは……!
「凜風、現皇帝陛下には、皇后も有望な皇子もいらせられる。彼らに、新たな妃を求める必要などないように感じているのだよ」
「…………」
「
「なるほど。であれば、
「であろうな」
叔父はこほこほと咳をした。それがまた不穏な靄として視えているが、凜風は顔色を変えることなく、静かに見守る。
「
叔父は暗い顔で、
感情を押し殺し平坦な言葉を吐く唇が、わなないていた。灰色の靄が叔父の口からたなびいていく。
「これは、皇帝陛下の勅命でもある。断れば、朱家はお取り潰しとなるやもしれぬ。
凜風、頼む。
龍華後宮の料理妃 ~美食は溺愛のはじまり!?~ 本葉かのこ @shiramomo
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