龍華後宮の料理妃 ~美食は溺愛のはじまり!?~

本葉かのこ

1話-1 旅立ちの杏仁豆腐

 花弁はなびらのように、うすいうすい蓮華れんげが、乾いた唇に運ばれていくのを、少女は静かに見守っていた。


 鶏骨で炊かれた、あまやかなお米の香り。

 つやつやとした粥の中には、なつめやクコの実、人参が散っている。


 一口すすれば、二口、三口。

 食が止まらぬ少女の母の粥は、健康なものが食せばその日一日、ポカポカと体が温かくなる。


 ただしそれは、健康なものが食せばである。


 朧月夜の今宵、小さな口が、必死で粥をすすっている。

 自らの力で動くこと叶わず、寝台で粥を与えられる見知らぬ少年は、生を欲しているのだろう。


 しかしその口元以外は、不気味なもやに覆い尽くされていた。


 形なく揺らぎ、掴んで取り払うことのできぬそれは死の影である。

 彼はあと数日、生きられるやもわからぬ、灯火の消えかけた命なのだと、少女は確信していた。


 だから悲しい気持ちで、少年と母を遠くから見ていたのだが、少女はふいに瞠目する。

 闇に覆われた少年の腹が光ったのである。


 小さいが、まばゆいばかりの金の粒子。


 それはもやを呑み込んで、急速に広がっていく。そして大きく大きく、光の塊となって、もこもことうごめきだし、


 身をくねらせて飛び立ったのは、たしかに黄金の龍であった。

 それは死の影をゆうゆうと蹴散らして、天へと舞い上がる。ふ、と姿を消したときには、靄は一掃されていた。


 なに? 今の!?


凜風りんふぁ? どうかしたの?』


 あまりにも驚いて尻もちをついたまま天井を見つめていると、母がこちらにやってくる。

 言葉が、出ない。母は首を傾げて、自分の前に跪く。

 その手元がふいに光った気がして、少女は視線を転じた。

 冷めてしまった粥は、優しい、やわらかな光に包まれていた。

 

 ……この光は、なあに?

 

 目をパチパチとする少女の鼻腔びこうを、かぐわしい匂いがくすぐっていったのだった。




 ◇◇◇




「お前には後宮入りしてもらう」


 突然、叔父に呼び出され、そう告げられたじゅ 凜風りんふぁは驚きのあまり包子ぱおずの包みを取り落とした。


「あ、頭がおかしくなったんですか!? 叔父様!!」

「お前なんという口の利き方を!!」

「いやだって! 私のようなものを後宮に入れたら三日でお偉方に粗相をし、没落しかけたこの朱家にトドメを刺しかねないですよ? そんな危険を冒すほどに、叔父様が耄碌もうろくしたのかと心配を……!」

「ええいっ、うるさい!! わかっておるわっ!!」


 じゅ 凜風りんふぁは、黎国で三百年続く大貴族の娘である。

 ただし両親はともに行方が知れず、母の弟である叔父に面倒を見てもらっている。


 その上、朱家自体も没落しかけており、贅沢とは無縁の暮らしだ。


 そんな凜風りんふぁであったが、夢があった。

 それは五年前に失踪した母が作るような、美味しい料理を作ることである。

 しかし料理というのは庶民がやるもの。一応まだ貴族の娘である凜風は、くりやに足を踏み入ることも禁じられている。


 それで諦めるのが普通だが、凜風りんふぁは普通ではなかった。


 彼女は名家で女官のバイトをすると偽って家を抜け出しては、下町の茶楼『八仙楼はっせんろう』で料理人見習いをしていた。

 それも男装をして。

 もちろん、朱家の人間には内緒でだ。


 それを三年続け、最近では茶楼の師父しーふたちに料理が認められるまでになっている。


 それもこれも貴族の娘に必要な礼儀作法の習得をサボり、叔父が勧める将来有望な殿方にも心を揺らさず、寝ても覚めても料理料理料理。


 ――肉切り包丁をどう扱うか、重い鉄鍋をどう振るうか、鍛錬し続けた結果である。


 つまるところ、じゅ 凜風りんふぁとは料理バカ。

 花も恥じらうお年頃の十七歳ではあったが、後宮入りなどまるで向かぬ娘であった。


 凜風りんふぁは哀れみのまなざしで、頭を抱える叔父、弦尭しぇんやおを見つめるのだった。


「叔父さま、わかっていらっしゃるのでしたら、なぜそのような与太話を私に? なにがあったというのですか?」


「与太話……」と呟いた叔父の恨みがましい視線が、凜風の体のあちこちに突き刺さる。

 たとえば使用人が着るような色褪せた衣やら、手に持った包子やら、整ってはいるがおしろいのひとつも塗っていないかんばせやら。


凜風りんふぁ、その格好をどうにかしろ! お前は、歴史ある格式高い朱家の娘ぞっ。この間も、紅をやったろうに!」

「紅は料理の味見をするさい邪魔です」

「お前はまた!! 料理などという、野蛮なことをしておるのかっ、梅眠めいみゃん!!!」


 凜風の後ろで気配を無にしていた侍女は、皺の刻まれた手をきゅっと握りしめた。


「だ、旦那様ぁ、誤解でございますぅぅ。凛風様は、凛風様は朱家の厨には、一歩たりとも入っておりませんっ」

「偽りではなかろうな。こやつをかばっても損をするだけぞ」

「はい、神命しんめいに誓って偽りは口にしておりません。半年前、旦那様がきつくお言いつけになってから、凛風さまは『朱家』の厨には足を踏み入れたりなどしておりません」


 うん、朱家の厨には入ってない。入るとみんな困るから、外で料理してます!

 とは、間違っても口にしない。


 梅眠めいみゃんは手巾を目元にあてて、悲壮感あふれた声で凛風りんふぁの無実を訴える。それはいささか演技じみているようにも感じたが、凛風は乗っかることにした。


「そうですよ、叔父さま。料理なんて、下々がする仕事です。朱家に生まれたこの私が、彼らの仕事をとってはいけません。昔の癖で『味見』と口をついて出ただけです。食事です、食事。紅は食事の際に、味が変わって邪魔に感じると言いたかったのです」


 しらっと言うと、これ以上の追求を避けるために、話を元に戻す。


「それで叔父様? 私が後宮入りとはどういったわけでしょうか?」

「それは……」


 叔父は渋面となって、視線を泳がせた。凛風りんふぁ梅眠めいみゃんふたりとは目を合わせず、天井の雨漏りのシミを疎ましそうに睨んでいる。

 庭の梅の実は黄色く熟し、そろそろ黄梅雨の時期であった。

 その前に屋根の補修をしなければなと、凜風が思っていると、叔父は重々しく口を開いた。


 発端は、皇帝陛下が朝議ちょうぎでこぼしたお言葉だった。


『先の流行病で後宮を彩る華の多くが失われ、いささか寂しく感じている。後宮は絢爛豪華に華々が咲き誇ってこそ、我が国の権威を他国にも示せるというもの。そこで国中から新たな華を迎え入れたいと思っている』


 持って回った言い方だが、皇帝陛下は自分の嫁の数が少ないから、後宮にもっと女を寄越せとのたまったそうな。

 それで国中にれが出た。


 後宮は一度入ったら最後、やすやすと出られない。


 出られるときは、病になったときか、臣下に払い下げられたとき、あるいは長い年月を勤めて年期が明けたときである。

 しかし入れば給金が支払われるため、困窮した家が、はたまた人買いが、娘をさらってきては後宮に売り飛ばす。


 朱家は屋敷の手入れが行き届かず、雨漏りを心配する程度には懐が苦しい状態にあった。それでもこの叔父が、自分を売ったとは欠片も思わなかった。

 やはり話には続きがあり、叔父は苦しい顔で、


「それで、花硝ふぁしょうの入宮を推挙するものがいたようなのだ」と言った。


 それで凜風はすべて得心して、舌打ちした。


「どこの馬鹿ですかそれ」

「わからん。だが、親バカを承知で言うが、我が娘、花硝ふぁしょうは完璧だ。その美しさも、礼儀作法も、後宮の上級妃に勝るとも劣らん。あれが歌うと、それを耳にした者は酔ったような心地となり、その性格は聡明なのに健気で、愛らしくて愛らしくて。女仙も嫉妬するほどに愛らしくて」

「…………」


 凛風が料理バカであるように、叔父は末娘の花硝ふぁしょうを馬鹿のように溺愛している。


 それにしたって、『親バカを承知で言うが』などと、ヌケヌケとまあ。花硝ふぁしょうがいい子なのには異論はないが、まったく、朱家の人間の愛情の深さは凄まじい。

 親との縁が薄い凛風は、ほんの少し寂しい気持ちになる。心の柔らかい部分に、冷たい風が吹き込むような、なんとはいえない頼りなさを感じた。


 しかし今問題なのは自分の気持ちではないと、気合いを入れて、口を開く。


「いくら花硝ふぁしょうが器量良しでも後宮入りなんて馬鹿げています。だって、あれは……」


 両拳を握りしめた。


「まだ十一歳じゃないですか!」

「……そうだ」

「ちなみに皇帝陛下って、おいくつでしたっけ? けっこういい歳だった記憶が」

「不敬だぞっ。……陛下は、三十四歳であらせられる」

幼女趣味ロリコン!? きしょい!!」

凛風りんふぁ!!」


 目くじらを立てて怒鳴った叔父は、次の瞬間、疲れた様子でため息をついた。

 その呼気が薄墨のようなもやとしてうつり、凜風はひそかに息を呑む。


 あれは……!


「凜風、現皇帝陛下には、皇后も有望な皇子もいらせられる。彼らに、新たな妃を求める必要などないように感じているのだよ」

「…………」

此度こたびの入宮で必要とされているのは、花嫁ではなく、労働力ではないかと思うのだ。妃の世話をする侍女、侍女の世話や後宮内の雑務をする宮官、婢女が不足しているのではないか、と」

「なるほど。であれば、花硝ふぁしょうへの推挙は、当家に対する嫌がらせでしょうか」

「であろうな」


 叔父はこほこほと咳をした。それがまた不穏な靄として視えているが、凜風は顔色を変えることなく、静かに見守る。


花硝ふぁしょうは、体が弱い。あの子が後宮を生き抜くことはできぬであろう。それを理由に一度は断りをいれたが、それならば、朱家から他の娘を出すようにと迫られている」


 叔父は暗い顔で、凜風りんふぁを見上げる。

 感情を押し殺し平坦な言葉を吐く唇が、わなないていた。灰色の靄が叔父の口からたなびいていく。


「これは、皇帝陛下の勅命でもある。断れば、朱家はお取り潰しとなるやもしれぬ。

凜風、頼む。花硝ふぁしょうの代わりに入宮してくれ……」

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