終
エピローグ
《隠花植物の楽園》
「オンネトー周辺の森は、『
釧路市の阿寒湖や足寄町のオンネトーを中心にアウトドア事業を手掛ける阿寒ネイチャーセンターのガイドで、『キノコ・粘菌写真家』としても知られる新井一彦さんが笑顔で教えてくれた。
オンネトーが位置する雌阿寒岳の山麓は、常緑のアカエゾマツの純林が一帯に広がる。林床は光が遮られて下草が育ちにくいため、花を咲かせずに胞子で増えるシダ、コケ、地衣類やキノコなどいわゆる「隠花植物」の楽園だという。目に留まりにくいが、じっくり観察すると精緻で美しい隠花植物。新井さんの案内で初夏の森を歩き、足元に広がる小さな世界を私はのぞいた――。
誌面掲載予定のゲラを見ながら、手元の画像と照らし合わせる。地衣類のマクロ画像を見ていると、あの日の寒さと心の中心までが透き通るほどの澄んだ大気の記憶が蘇るようだった。
メールで著者校正を送り、パソコンを閉じると私は横になった。
まだ少し時間がある――そう思っていたら眠ってしまった。セジの――理央の苗字はまだ変わっていない。名前は正直どちらでもよかったけれど、理央と口にするのは気恥ずかしさがあった。
あんなにこじらせていた私自身の名前さえ、今は潔く感じられる。顕花サンと呼ばれるたび、浄化される思いがした。
庭は作ることに決め、団地から持ち帰ってしまったコンテナを空にして元に戻すため、箕面さんに連絡をするとすぐに来てくれた。
「すみません。お忙しいのにわざわざ来てもらって」
「いやいや、お盆前と年末は仕事が集中しますけど、今は平気です。しかしこの場所はやっぱり風通しがいいですね。お隣にはよく手入れされた菜園もあるから土のバランスもいいんじゃないかな」
コンテナにあった骨の件は既に彼から伝わっていたようで、雨などで露出してしまわぬよう深く掘り、周囲も工夫をしてくれた。
「お隣の方はもうお住まいではないんですけど、庭師さんが来ています。奥の菜園は以前から人に貸してらっしゃって。先週は早採れのパプリカとみょうがを、その方にお裾分けしていただきました」
「でも本当にいいんですか? 駐車場すべて潰してしまって」
「はい、車に乗る予定はないので……」
「そっか、そうですね。もし長く留守にされることがあっても、ちょっとした手入れ程度なら僕がついでに通うんで言ってください。マリーゴールドを植えるといいな。虫が付きづらくなります。根っこから土壌中の線虫を殺す成分を分泌するので混植に高い効果があるんです。それよりこの間の話、彼考えてくれたかなあ。本気にしてなかったけど彼手先が器用だから向いてると思うんですよね」
「植物のことを覚えるのが楽しいらしくって必死に勉強してます」
「隠花の楽園、でしたっけ。下草は庭の趣に影響しますから、シダや蕨を植えることもあるんですよ。僕も教えてほしいくらいだな」
「土を触るのはきっと好きなんだと思います。いつでも来てくださいって言ってました。すごくいいところです。遠いですけど……」
「やっぱり彼みたいなタイプは、ああいう大自然の中で暮らすのがいいのかもしれないな。僕なんかは雑念だらけだけど、純真で繊細な感性を持った若い人が、造園の新しい可能性を見せてくれるんじゃないかって、なんだか期待してしまって。僕らの仕事は、――もちろん力仕事もあるけど――土や虫を戯れる無邪気さと、几帳面さの両方が要る仕事なので。ちょっと抽象的でしたかね、すみません」
「いえ、わかります。ちょっと根気はないかもしれないですけど」
「そうかな? 根気はあるでしょう」と伊知さんは微笑んだ。
「そうでなかったら、こんなに待てませんよ。健気だなあと思います。名前をくれって連絡が来たときはどういうことかとひっくり返りましたけどね。事業を乗っ取られるのかって。理由を訊ねると、ただ一言『カッコいいから』ってあれは何の冗談なんですかね?」
私は苦笑しつつ、空になったほうじ茶をつぎ足す。
「こうと決めたらまっすぐで、行動が早くてタジタジです……」
伊知さんは、ああ、いただきます、と額の汗をぬぐった。
「あなたも負けてないと思うけどな。それに、小山友梨奈さんでしたっけ、先日会いに来られましたよ。ほんとに彼の周りは熱い人たちばかりだな。彼が、そうさせてしまうのかもしれないけど」
日の当たらない場所でずっと育ってきた彼だけれど、彼の持つ元々の性質は太陽ほどにも明るい。私も友梨奈もただの惑星だ。照らされて、なんとか光を保っているだけだとずっと思っていた。
「不思議です。その話、私もしました。でも一蹴されましたけど」
「え、どうしてです?」
「〝おれが照らしてる側なら、天地がひっくり返っても影を見れないデショ? おれ影も全部知ってるもん〟って笑ってました。〝顕花サンの周りをストーカーみたいにぐるぐる回る星だよ〟って」
「ははっ! 詩人だなっ。お互いがお互いを太陽だと思ってるなんてすごいじゃないですか。慣性の法則か何かで永遠に回り続けるオブジェがありましたよね。あれ名前なんていうんだっけ」
「茶化さないでください。そんな太陽系があったら、全部の星が燃え尽きちゃいますよ。――名前は、わかりません」
小人パキラは背丈が伸びてすっかり小人じゃなくなった。小さな木彫り人形に囲まれて窓際の日差しを一心に受けている。空が虹の橋を渡った日を狙ったかのように、レギネの花は蕾を割った。メダカは順調に育っている。涙の滲んだ眼球で天を見つめれば、晴れ渡った空には、虹彩のような形の、虹のヴェールがかかっていた。《了》
オンネトーの森 虹乃ノラン @nijinonoran
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます