3 年老いた沼
古びたガラスの中で瞬く焔を見つめながらセジが呟いた。
「顕花サンさ、死んでもいいなって思ったことある?」
どうしてそんな質問をするのだろう。停滞する言葉の色合いとは異なり、彼の視線はまっすぐ前を見つめていた。
「ない……、でもお願い誰か殺してって考えていたことはあるよ。――だけど、死にたくない、恐いと泣いてた日もあった。空がいた頃は、この子を残しては絶対に先に死ねないと思ってたし……」
心緒は荒波に揺れる舟のように行ったり来たりしていたはずだ。転覆をぎりぎり免れてはきたけど、すっかり難破していたと思う。
セジは、「そっか」と答えて目を瞑り、お香の煙を嗅ぐように息を吸った。それから鼻先に指を当て、軽く弾いた。
「おれ、いつ死んでもいいってずっと思ってたんだ。でもよくわかんねえけど、もう少し生きてみてもいいなって、今初めて思った」
ふきで作られたドームの中で、私たちはふたり、暗い天を見た。
セジがその中心を指して言う。
「星ってさ、まっすぐ一点を見定めようとすると消えちゃうでしょ。でもほんのちょっと見る場所をずらすと、視界の端にぼおっと浮かび上がるんだよ。それがすげえ面白くって昔よくやってた」
円蓋に籠るセジの声は心地好かった。不意に、視界の端に影が通ったように感じた。セジが立ち上がり外へ出る。辺りは闇と言えるほど暗い。ランタンの明かりが茫と、放射線状に畑を燈していた。
「……コロポックルだ」セジの背中から、ふっと力が抜けた。
呟いて、ふきをかき分け進んでいく。彼は見えない〝何か〟を追った。私は慌ててランタンを掴み、彼の背に向かって言った。
「待って、どこへ行くのっ」
セジは野生の兎のような身軽さでふき畑の中を潜り抜けていった。それほど更けてはいないはずだけれどとても暗い。天へ向けて迷いなく背を伸ばした茎たちが幾重にも重なり合った格子のように視界を阻み、溺れるような錯覚を覚え苦しくなる。
それに暦の上では皐月だといっても、釧路湿原は寒くてまだ冬の域。彼を追いかけているのでなかったら、即座に諦めている。
「ねえ、止まってっ……」
声を張っても返事はなく、先へ先へとすり抜ける。彼の細い体を見送ったふきたちは大きく揺れ戻ってぶつかりあうと音を立てた。
いつしか畑を抜け、アカエゾマツの樹林が広がっていた。林床には名も知らぬ蔦植物、苔や地衣類といった濃緑の世界が現れた。
満天の星。森閑とした林中で、草木がひそひそ噂話をする。
〝あれは誰だ〟〝知らない奴だ〟〝いや知ってるぞ〟
――私はその〝声〟を頼りに必死に追った。
寒さを忘れるほど歩いた頃、ヘッドライトらしき明かりが一筋射した。道が近い。安堵すると同時に不意に頬に痛みを覚え手の甲で拭うと細く血の筋がついた。いつの間にか切ってしまったらしい。
突然道が開ける。気づけば息が上がっていた。おなかに手を当て、顔をあげるとセジがこちらに背を向けて沼の前に立っていた。
「ここに抜けるんだ、忘れてたな」呟きがぼそりと夜空に消える。
少し距離を保ったまま私は立ち止まり、彼の背に問いかけた。
「ここ、は……?」
「じっちゃんは、オンネトって言ってた」
写真にあった場所だ。古代の銅鏡のように闇夜に光る沼。森閑とした夜にもかからわず、仄明るく燈っているようにさえ見えた。周囲の樹々と空の佇まいが水面に映り込み、点描画のようにちらちらと星夜に輝いている。黒翡翠色の琥珀――そんな透明感を湛えている。めまいがするほど美しかった。「すごい……」
「朝はもっときれいだよ。ここの水の色は時間によって変わるんだ。真っ青になったり緑になったり黄色や赤にみえることもある。不思議でしょ。冬は一面の雪。その頃はほんと誰もここには来なくて、じっちゃんが作ってくれたチンル(かんじき)履いてよく遊びに来てた」
水面が跳ねた気がして湖面に目を配る。魚影を探すが何もない。
「生き物はいないよ。ここは魚は棲めないんだって。その昔溶岩で川が埋まって。……ずっと不思議だったんだ。ここには、本当に誰もいない。誰も住んでない。何も生きてない。でも何もいない代わりに、おれが生きてるって思えるただひとつの場所だったから」
堰き止められて出来上がった沼。養分が溜まり、特殊な土壌を形成し、苔やシダ植物で鬱蒼と茂った森は陰花植物の楽園と言われるようになった。水源となる沼は、時間帯によってその色を変える。
「でも本当はひとりじゃなかった。ずっと友達がいた。でもいつの間にかいなくなっちゃって毎日捜し歩いたけど、見つからなくて」
セジが饒舌になって昔話を始めた。その顔つきは、どこか不確かで頼りなく感じられた。なぜだろう、そうだ、この世の実体を失いかけているようなそんな頼りなさだ。急に堪らなく不安になる。
「どういう意味? 何を言って――」
「……会いたいな。おれ、会いに来たよ、出てきてよ」
「ねえ……セジ? こっちを向いて」
セジは振り返らなかった。しばらく沈黙が流れた。今まで一度も体験したことのない、本当の無音を感じた。パチパチと、植物の根が地中で水を吸う音までもが聴こえそうなほどの静寂だった。
「いた」視線がふうっと右へ移る。「あいつ、ここにいたんだ」
そのとき、一筋の強い風が吹いて水面がさざ波立った。浮標がとぷりと沈んだあとのような水輪がオンネトーの中心に浮かび上がり、広がる波紋を低く残る冷たい風がじぐざぐに打ち消していく。
それは地上の法則を無視したかのような奇妙な光景だった。
再び音が消え、セジの体が動いた。木の葉をざりりと潰すように擦る足が、まっすぐ湖へと引き寄せられる。夜空が曇りがかる。
「どこへ行くの」セジは黙ったまま水際へ寄る。「待ってっ」
かつて見ていた夢のように、足が重くて動かない。それでも私は腕を伸ばし、彼を呼んだ。足は苔を踏んで滑り、転んで手をつく。
「お願い、待ってよ! 超合金ロボ、欲しいっていってたでしょ! もう一度買ってあげる! 旗を立てたハンバーグでも何でも作る! 豆乳のクラムチャウダーもなんでも食べたいもの作るから!」
四足動物のように頸を持ち上げて、私は声を張った。
「すぐ泣くね」セジは水際に立つと、しゃがんで沼を見つめた。
「鶴居の村役場のおっちゃんが、自然ガイドをやらないかって。おれはこのままじっちゃんのふき畑やりたいっていったんだけど、そしたら両方やれっていうから。だから今おれ、猛勉強中」
膝を開いた蹲踞座りでようやくセジが振り返る。その視線は、いつもの彼に戻っていた。泣きたいほどほっとする。
ふきの収穫は六月から七月で、そのあと一区切りつくそうだ。
「さっきおれが死ぬと思ったろ。ほんと顕花サンてバカだね。そんなことしたらあいつらが笑うだけだし、悔しいじゃん」
セジが口にした〝あいつら〟が妙に久しぶりに聴こえた。笑った顔からは寂し気な色は消えていた。目に悪戯っ気の光……。
「だって……」彼は、もうずっとここにいるのだろうか。それは、すごくいいことのような気がした。親と陸地ごと距離を取れればもう気軽に会いに来たりはしないはずだ。そしてそれは私も……。
これがきっと別れになるのだろう、そう思うと、空をつれてこなかったことはきっと正解なんだ……。何を話せばいいかまったくわからなくなって俯いていると、急にセジが予想外のことを言った。
「ねえ顕花サン、おれのこと理央って呼んでくれる?」
彼と出会ってからのことが急に浮かび上がり、回り灯篭のようにぐるぐると脳内を照らした。青磁の香炉のこと、友梨奈の怒った泣き顔、幸せの王子の絵本を読んで涙を零したこと、猫の骨を一人で埋めた彼の姿はこの目で見ていなくても易々と浮かんだ。
「どうして……?」
だってさ、といって、彼が私に腕を伸ばす――。
「分籍届出すと、おれ、もうセジじゃなくなるからさ」
初めて名乗ったあの日から、すでにこの未来は決まっていたのかもしれない。でもきっと、これは彼が自力で掴みとったものだ。
「ばっちゃんが残したレシピ本見つけて、解読すんのむずいけど、フォッショルていう揚げ餃子、おれも大好きだったんだ。作ってよ」
単なる語らいの一部として流してはいけない言葉に感じた。現実に叶えてあげられるかどうかは別として、具体的な願いや目標を彼がこの先持つのなら、そのすべてを受け入れたいと私は希った。
「どうするか、決めたの?」姓が変わるのは、婚姻、養子縁組、そして分籍。「青磁」の姓を捨てる覚悟を彼は嬉しそうに話した。
「新しい名前はおれが好きに考えていいんだって。だからめっちゃかっこいいのつけるし!」晴れ晴れとした笑顔だった。
「なあ、おれとお揃いにしねえ?」
宮の渡しにかかる桜はこの日を予想していただろうか。花は咲けば散るものだが、咲かない花は散ることもない。でもただ地に根を伸ばせるのなら、この森に生きる苔やシダのように……。
命を胎に宿さない美しい沼のほとりで、私は差しだされた手を掴んで一歩前へ出る。三歩先がもし崖だとしても、この一歩は私の繭を抄い上げ、その重力を打ち消すのに十分だった。
セジの湿った温もりが私を包み、苔むす石の上へ誘う。天を仰げば藍色の夜が降ってくる。夜空と一体化した海原に私たちは溶けた。
「おれ、馬飼いたいな。そしたら鶴って名前つける」
「変じゃない? どうして、鶴……?」
「あとで……」地に這う植物たちが、夜露に肌を濡らし雫をつけている。閉じた瞼の裏では、いつか見ていた懐かしい万華鏡が彼の声でカシャカシャと眩く
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