2 ふきの揺りかご

 その場所はふき畑というより殆ど樹海だった。二本の足で立つと、黒い土がざりっと靴底を擦った。ふいに苔むす香りを纏った風が一筋拭く。奥が見えないほど深い一面のふき畑は私の背丈を優に超えている。振り返っても道らしい道はない。茂足寄の奥地で降ろされたはいいものの、本当に彼がいるのだろうかと不安になる。

 竹藪よりも密集したふきの海だ。トラックの気配に気づいただろうか……。大声を出して呼ぶべき? ふきは中へ入ってくるなと言わんばかり。まだ夕陽はぎりぎり射しているけれどあと一刻もすれば暮れ始める。ここまで来たというのに私は完全に臆していた。

 そのとき、横揺れの余震のようにふき畑の一部がぐわりと揺れた気がした。一か所から、はっきりとふきの海が左右に割れ、セジが姿を現した。団地にあったペールピンクのストリングカーテンからキャベツ太郎を持って顔をのぞかせていたいつかの景色が蘇った。

 私の身体を取り巻く湿度が瞬間的に高まり、視界に靄がかかる。

「あれえ? 顕花サンやっと来たの~、おっせえじゃん」

 割烹着を着て、手にはゴム手袋、両手に巨大な麻袋を掴んで、背にも藁かごを担ぎ枯れ枝を積んでいる。その姿があまりに堂に入っていて、一端の農家そのものだ。ずり落ちかけている背かごを不器用に直すと、不格好な姿勢で手をあげて、にかっと笑う。その頬に懐かしい法令線がくっきり浮かんでいた。「腹減ったあ」

 定番のフレーズで顔をしかめるその瞳が澄んでいる。お爺さんが遺したという畑の土を踏み、腕でぬぐう額の汗が夕陽で光った。

「元気そうで……よかった……」

 思わずお握りを抱きしめる。顔を見た瞬間むせび泣いてしまうんじゃないかと憂慮していたけれど、そんな気持ちは瞬時に吹き飛んだ。一緒にいればいつだってそう。私の心は自然と緩んでしまう。

 安堵の次に沸き起こったのは思慕の情だった。彼に触れたいというしたたかな願いを襖の奥に閉じ込めても今にも弾けそうに膨らんでいる。そんな私の下想いを知ってか知らずか、セジは柵をひょいと乗り越えるとこちらへ歩み寄り、悠然と目の前に立った。

「やーりい! 握りまんま!? 今日はなんだろ」

 どさりとかごを地に置き、手袋を外してパンパンと両手を掃う。屈託なく笑う彼を前にして、私は下を向きたい衝動に駆られた。

「最初がそれ? 他に言うことないの、それになんで割烹着なの」

「ああこれ? ばっちゃんが着てたやつ! 懐かしくてさっ」

 お握りの包みに腕を伸ばしながら、無遠慮に距離を詰めた。

「空つれてきた?」

「ごめん、空は置いてきたよ。急だったから……」

 ごめん、ともう一度謝ると、セジは微笑んだ。私の頬を摘まんで上に持ち上げる。それから指をふわりと離して目を細めた。

「オーちゃんは元気?」

 堪えていた気持ちが、あと少しで崩れそうになる。

「レギネは、蕾がついてきたよ……。置いていくなんてひどい。私が気づかなかったらどうするつもりだったの」声が微かに震えた。

「でもちゃんと気づいてくれたデショ?」上着を脱いでタオルで首筋を拭き、地面に横たわった。お握りを取り出して頬張る。

「だって、あんな急に、電話も通じないし、メールだってっ……」

 こんなの只の駄々だ。大変な状況だったはずだと分かっているのに、止まらなかった。セジは胸ポケットから携帯を抜くと、ポイと投げてよこした。「だって電波立たねえんだもん。エラーばっか」

私はそれを見て口を閉ざした。電波は一本立っているだけ。それが時折り圏外に切り替わる。でも黙ってしまったのはそれが理由じゃなかった。待ち受けに空の写真があったからだ。不意に、彼の素肌の記憶が蘇り、私はそれを断ずるように携帯をパタンと閉じた。

 ぎゅっと目を閉じる。何から話せばいいのか、一緒に来たはずの彼の両親のこと、専門学校がどうなったのか、オーちゃんのこと、団地のこと。でもそのどれを訊ねるのも、何かが違う気がした。

「――お爺さんには……会えたの?」こんなとき、どう伝えればいいか未だにわからないでいる。お悔やみの言葉一つ、うまく扱えないままだ。ご愁傷様ですと首を垂れる行為が私にはとても他人行儀に感じられる。もっとも、他人には違いないのだけれど。

「いや、もう骨になって墓に埋まってた。ひでえだろ。あいつら、葬式に呼ばないくせに後になってさ」珍しく彼が目を逸らした。

 寂しそうな横顔に、悔しさが見て取れた。私が親と絶縁を決めるまでの間にすり減らした精神の撚糸は、長い時間をかけてぶちぶちと千切れていった。ついには、吹けば飛ぶような些細なきっかけですべてがパタリと離れてしまう。そのときにはもう、手繰りよせたいという希いさえ途切れて。絶望とも喪失とも違う。川下へ流れていく枯れ葉を眺めるような想いで、手放したものをただ見やる。

 セジの目の中に、覚えのある移ろいが浮かんでいた。

「親御さんはまだいるの? セジ宛ての遺言状があったって……」

「いや、もう帰った。おれは――」セジはそこで一度言葉を呑んだ。

「全部おれに遺すっていうじっちゃんの手紙があったんだ。あいつらそれを隠してた。おれは、足寄に残るか決めてたわけじゃなかった。あいつらが住む場所がないっていうなら、家はあげるよっていったんだ。じっちゃんの畑放置されてたし、おれは畑だけあったらいいからって。そしたらあいつら、家は売って便利なとこに引っ越すっていうから結局全部貰うことにした。元いたとこに帰ったよ」

「そっか、大変だったね……」と私がいうと、セジは首を振った。

「未成年で戸籍も抜いてないのに、遺産相続はできるんだってさ。びっくりだよ。野木のおっちゃんが鶴居村の役場に知り合いがいるからって連絡先渡されてたから……。その人が全部教えてくれた。慌ただしかったけど、よくわかんないうちに全部終わってたかも」

「和田さんっていう人? ここまで送ってもらったよ」

「あ、いや違うよ。和田のおっちゃんよりずっと年食った弁護士先生! 引退してて週に一回しか役場には来ねえ皺くちゃの爺さんだったけど、本めくってるときは目輝いてた。ほんとに法律が好きなんだろうね」セジは三つ目のお握りを口に放り込み、「やべえ、なんで握り飯ってこんなにうまいんだろ」と目を細めた。

 コンテナに埋められていたもうひとつの骨について訊ねる。

「あの骨は、……隣の部屋から逃げちゃってた子……なの?」

「見つかっちゃったね。顕花サンちの庭ができるまでって思ってたんだけどな……。隣の奴が保健所呼ぶって言うからかわいそうで。墓作るからおれにくれって言ったらめっちゃ気色悪がられた。唾吐かれたから腹立って。嚙んでたガム、口ん中に捻じ込んでやった」

 彼らしいといえば彼らしい。光景が浮かんで、思わず苦笑した。

「そんなことしたんだ? 大丈夫だったの」

「当然あいつは怒り狂ってた。あの子のことは、おれが勘違いしちゃったせいだから、おれが悪いし我慢したよ。野木のおっちゃんにも言われてたしさ。――最後まで、おれが面倒みるって決めたんだ。猫はすぐ見つかったんだ。でも、公園に埋めようと思ったら閉鎖されてたからさ。しばらく外のボイラー室に隠しといたらやぱ臭ってきて……、だから店長んちから部屋戻ったあと冷蔵庫に入れたんだけどかわいそうで、俺めっちゃひどいことしてる気がして。結局、学費用に貯めといた金使って訪問火葬呼んだ。骨はおれが手で拾った。あんまり白くてきれいで取っておきたいって思ったけど、オーちゃんたちと一緒に埋めてやった方が寂しくないと思った」

「学費……バイト頑張ってたのに残念だったね」

「いいんだ、どのみち迷ってたんだよ。卒業できりゃ学歴は残るかもしんねえけど、殆ど通ってもいないガッコの証明書なんて嘘ついてるみたいで納得いかねえ。通信で大学出る人もいるし、中卒でも会社の社長さんになる人だっているんだろ? なんとかなるよ。それよりあの子、大丈夫だった? 変なことになってなかった?」

「きれいだったよ。白かった……」

 私の答えを聞くと、セジはそっかと嘆息した。

「骨ってすごいよな……。死んじゃった体ってほっといたら腐って蛆湧くし、ばっちくなるけど、骨になったあいつらは何にも汚されないんだ。土がついても、掃えばすぐさらさらの白い肌が出てくる。きれいで喰いてえって思った。粉にすんの面倒でやんなかったけど。白い色っていっぱいあるけど、あの白は『胡粉』っていうんだって、友梨奈が言ってた。あいつ元気? 怒り狂ってない?」

「わからない。一度ピリカで見かけたけど……」

「あいつも目え悪いからな。顕花サンほどじゃないけど」

「――どうして包んだの? 水色の……秘色のストール」

「ああ、きれいだったろ? おれの持ち物の中で友梨奈がくれたあれが一番穢れてないと思った。白くないけど白装束。それだけだよ」

 開口一番、空のことを訊ねた彼の気持ちが分かった気がした。

「ここに撒くのなら……いいかもしれないね。置いてきてごめん」

 未踏に近い広大な自然。蓮は泥の中に根を伸ばし浄化しながら水を吸い上げて花を咲かせるという。畑とはいえ、一歩足を踏み入れれば光が届かないほど葉で大地を隠し、高く空を目指して真摯に伸びるふきが――天地の方向は逆だけれど――蓮に重なって見えた。

「おれこそごめんね」

「どうして謝るの?」

「空連れておいでって言ってから……ずっと考えてたんだ。どうしてあの子じゃなくて、空が欲しいって思ったのか」

「欲しいって?」私が訊くと、セジは肯いた。

「空と顕花サンを引き離すようなつもりは毛頭ない。だから自分でも気づかないうちに、顕花サンに来てほしいって思ってたんだ」

「答えに、なってない……」

「ん、そっか。そだね」

 俯いた私の頬にかかる髪を、セジが掬って私の耳にかけた。

「ついてきてよ、見せたい場所があるんだ。おれの秘密基地」

 彼は狭い檻の隙間をすり抜けるようにして、ふきの中を易々とかき分けて進んでいった。しばらく行くとふきの茎を重ね合わせてドーム状に組んだ〝かまくら〟のようなものがあった。「藁ぶき屋根ってあるでしょ。屋根が作れるくらいなら家もできるって思って」

 でも、茅葺き、藁葺きの葺くという意味は、ふきのことじゃない。

「もしかして、藁葺きのぶき・・って蕗だと思ってた? それ、藁とか茅で部屋を覆うって意味だよ。ふきで作ったら蕗葺き屋根だね」

 セジは、「あっ!?」と間抜けな顔で笑った。

「せっかくバカじゃねえとこ見せようと思ったのに、カッコ悪っ」

「ううん、そういう思い込みって、私もよくあるから。それよりこれ『猫ちぐら』みたいでかわいい」

 中は案外広い。足を延ばして寝そべる分のスペースが充分ある。

「でしょ!? ほらあ、おれえらい」

 お婆さんが編んでいた籠のやり方を真似たという。記憶力が優れてることは分かっていたけど手先の器用さも含め、改めてすごい。

「ちぐらってどんな意味?」セジが訊ねた。

「――揺りかご……」

 応えて目を閉じる。彼の体温が私を取り巻く。怯えはなかった。

「あったかい……」「うん」

 どちらが発したともつかない言葉の数々が、私たちの間にしばらく交わされた。ちぐらの中は暗く、不思議な時が流れていた。どれほど時間が経過したのかわからなかったが温度と湿度は保たれ、何よりいい香りがしていた。セジはオイルランタンに火を燈した。

「真ん中に置くと焚火みたいだろ。焔に照らされて、背後に自分の影が映るのを見ると、壁の向こう側に誰かが立ってるみたいで、膝を抱えてじっと息を潜めてると動き出すことがあるんだ」

 目を輝かせて語るセジの意識は昔に飛んでいるようでいて、そうでもなかった。ゆったりとした現在軸の一秒一秒の合間に、十数年前にここにいたはずの幼い少年の息遣いが挟みこまれるかのような感覚に捉われていた。現実には起こりえないはずなのに、彼といるとそんなこともあるかもしれないと不思議と思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る