無花果の花びら

紅蛇

光より産まれし者

 ファタは自分の名を知っていた。

 それは瞼に光が当たることによって「自分」という意識から産まれた。橙色の光が差し込み、思わず目を瞑ろうとするも瞼は閉じていた。光から逃れることができなかった。光は音を発していた。その音は自分の名だと、ファタは知っていた。

 鈍く響く音は次第に鮮明になっていき、ファタは瞼の外側の存在を意識し始めた。何かが動いていた。ファタは瞼が動くことに気付いた。光は絶えず差し込んでいた。まばゆく、あたたかであった。

 ファタは瞼を開けることにした。色彩の波が押し寄せ、身動ぐことができると知った。まなこのまわりには皮膚があり、鼻があり口があり耳があり毛があった。それに触れる手も胸も腹も足もあった。

 ファタは髪を揺らす姿無き風を知り、吸い込み、吐き出した。空気は淀みなく出入りを行い、ファタは上下に動く胸元に手を当てた。中心部から全身に向かって熱が巡っているのを感じた。

 ファタは立ち上がった。足の底が触れる地は心地良く体から発した熱を和らげていた。風が草を揺らし、皮膚をくすぐっていた。ファタは愉快さを覚え、笑った。手のひらでも草地に触れ、飛び跳ねてみたり、走ってみたり、天より差し込む光と踊った。おぼつかない足取りで転ぶと、草よりも高く生えているものに気付いた。幹に触れるといままで触れた何よりも硬かった。ファタは喜び、両手いっぱいに広げて木を抱きしめた。ふと、幹の先に枝があることを知った。葉がいくつかあり、ちいさな色の違う葉があることに気付いた。近づくと、良い香りがした。薄い花びらを摘み、手のひらに乗せると風に連れ去られてしまった。

 ファタは薄紅色の花びらを追いかけると、光の流れ道があった。触れると何よりも冷たく、手を水流から出しても皮膚にまとわりついた。光を摘もうとするも、するりと抜け落ちてしまった。掬うと、喉の奥が欲していることに気付いた。ファタは溢さぬように慎重に唇に水を運ぶと、飲み込んだ。体がよろこぶのを感じた。川の中には丸いものがあり、摘むことができた。ひとつ、ふたつ、みっつと、石を拾い集めるうちに、光ではないものが映っていることを見つけた。ファタは自分の姿だと知っていた。触れようと手を伸ばすと、丸い波紋となり消え、また現れた。今度は触れぬように顔を近づくと髪が水に浸かり、自分が消えてしまった。

 ふと、何かが流れていった。ひとつ、ふたつ、みっつと、泳ぐものがあった。鱗は天を流れる雲のようであった。顔をあげると、自分と同じように二つのまなこを持つものがいた。四つん這いになり、頭には大きな枝が二つ付いていた。それはゆっくりと瞬きをし、蹄を鳴らして歩んだ。ファタの隣にやってくると頭を下げ、水を飲み始めた。ファタが手を伸ばし、毛並みに触れた。獣は拒まず、水を飲み続けていた。毛並みに沿って撫でると草とも木とも川とも違う熱があった。獣の熱は手のひらを通じてファタに伝わった。自分とは違う息遣いがあった。獣の力強い鼓動が移ったように、ファタの心は波打った。ファタと獣の目が合った。お互いの額を重ね合い、呼吸を合わせると、ファタは獣となり、獣はファタとなった。ファタは手を伸ばし角を掴んで、獣の背に乗った。

 視界が少し高くなるだけで、世界が少し変わることを知った。川のせせらぎとは違う音を風が運んできてくれた。獣は歩き続けた。獣は鹿であると知った。天を鳥が羽ばたくことを知った。地を這うものも、木を登るものも、地中に潜っているものも、水中を泳ぐものもいることを知った。ファタの長い髪は鹿と同じ色をしていた。掴んでいる角はファタの肌の色と同じ色をしていた。ファタは自分が何なのか問いかけたが、答えはでなかった。

 鹿は歩みを止めた。少し離れた先に似た姿をした獣がいた。角のない鹿であった。ファタは背から降りると、鹿はつがいのもとへ向かい、林の奥へと行ってしまった。ファタは悲しさを覚えた。木の根本の巣を覗き込むと、二羽の鳥が瞼を閉じ寄り添っていた。

 光で溢れていた日はいつの間に暮れ、慎ましい光が代わりに影となった天に昇っていた。ファタは夜が来たと思った。自分も同じように巣を作り、休むことにした。

 柔らかなものを求め歩くと、月明かりに照らされた苔の群れを見つけた。試しに横たわってみると程よくファタの体を抱きしめた。夜露に濡れた苔は昼間の熱を和らげた。ファタは自分の髪で体を隠すように覆い、瞼を閉じた。

 

 ゆっくりと動いていた鼓動が速くなっていき、自分は目覚めたのだとわかった。瞼には太陽の光が差し込み、鳥たちが目覚めの歌を奏でていた。ファタはもう少しその心地良さを感じたかったが、何かが肌を流れるのを感じ、瞼を開いた。それはファタの体を這おうとしていた。細いが小さくなく、長いが重くもなく、そこだけ夜が取り残されたような姿をしていた。両足両手はなく、ただ鱗だけが鈍く輝いていた。ファタはそれを蛇だと知っていた。

 蛇は水が流れるようにファタの足を伝い、腹のところへやってきた。起きたばかりのまだ熱の帯びた体は蛇の冷たさに驚いていたが、心は愉快であった。丸くなり眠りかけている蛇にも髪をかけてやり、ファタはまた眠った。


 再度目が覚めた頃には、蛇はいなくなっていた。ファタは立ち上がり、髪に付いた落ち葉を取り除き、歩き始めた。知っている川辺に辿り着くと水を飲み、川の流れをついて行くことにした。

 下っていくと、様々な果実が実っている場所に着いた。甘い香りが鼻の奥をくすぐっていた。香りを吸い込むと、腹が欲していることに気付いた。近くの果実をもぎ取り、噛んでみると口の中で爽やかな香りが弾けた。一つ食べきると、別の木の果実を手にした。赤紫色にかがやき、手のひらにおさまる大きさであった。

 同じように噛みつこうとすると、手の長い猿が皮を剥いて食べているのを見て、ファタは真似をした。柔らかな実があらわになると、耐えきれないように果汁が溢れ、腕を流れ落ちた。ファタは思わず唾を飲み込んでいた事に気づき、笑い、に噛みついた。種は噛むたびに弾け、果肉がファタの舌を楽しませた。半分になった果実の中心には空洞があり、その穴に向かって実がひだのように伸びていた。ファタはその姿を自分の体で見たような気がしていたが、残りの半分を食べる頃には気に止めることをやめていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつめを食べ終えると、ファタは川へまた戻った。ねっとりと甘く、芳しい香りの汁を洗い流し、日光浴をしているトカゲの岩に腰掛けた。ファタの濡れた両腕が乾くころには、トカゲはつがいと出会い、いなくなっていた。ファタは虚しさを覚えた。周りにはこれほど様々な光に溢れているのに、自分もあのイチジクのように埋まらぬ空洞があるのだと知った。

 ファタは天を見上げ、問いかけた。

 私にはいないのですか、と。

 天にはうすく雲がかかったきりであったが、またたく間にあつい雲となり雫を降らせていった。それはひとつ、ふたつ、みっつと増えていき、雨となった。ファタは雨が奏でる音を聞き、するべきことを悟った。

 ファタは自分と似ているものをつくることにした。鹿の角を持ち、苔が生い茂り、共に熱を分け与える相手を。それでも自分には与えられるものがなかった。胸元の鼓動に手を当てると、腹の中に枝がたくさん生えていることに気付いた。一つや二つ使っても大丈夫だと思い、ファタは肋骨を使うことにした。雨で濡れ、泥となった土をかき集め、川に映る自分の姿を見ながら形を組み上げていった。

 少しづつ、ファタは相手を作り上げていった。角は頭にあると引っかかりやすいと気付き、一本だけにし体の中央に立てた。苔は口の周りや胸元、背中、腕や足、至る所に生やしていった。肌寒くなる夜のために、昼の間に陽の光をたっぷりと与えた。ファタは相手の姿にとても満足し、動き出すのを待ち続けた。

 何日かの夜が過ぎたある日、相手の瞼が開いた。ファタは未だかつてない喜びを知った。その感情は心から湧き上がり、頭のてっぺんまで駆け上がると目から液体となり漏れ出た。

 相手はファタの様子に狼狽え、心配そうに手を伸ばし肩を抱き寄せた。その手は陽の光のような暖かさで、ファタはまた涙を流し、笑った。


 ファタは幸せであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無花果の花びら 紅蛇 @sleep_kurenaii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説