アウストラロピテクスの足跡

気の言

1999-2045

 アウストラロピテクスの足跡とは、アフリカ・タンザニアで見つかった、人類が2本の足で立って歩いて生活していたことを示す最古の足跡化石である。

 男性と女性、それに子供の3人の足跡が同じ進行方向に向かって歩いていると考えられている。

 しかし、その足跡の先を歩んだのはアウストラロピテクスではなかった。

 数多くいた人類は絶滅し、ホモ・サピエンスという一つの種に集約された。

 つまり、足跡の先を歩んだのはホモ・サピエンスのみであったということである。

 そして、これからもホモ・サピエンスがその先を歩んでいく……はずだった――


 *


「2000年問題」や「ノストラダムスの大予言」が話題になっていた頃、人類の新たな転換点の元凶となる二つの出来事が起こっていた。

 今にして思えば、これらの都市伝説のような内容は間違っていなかったのかもしれない。


 一つ目の出来事は、量子コンピューターの開発に成功したことである。

 1980年にアルゴンヌ国立研究所が理論上は量子コンピューターの開発は可能と発表してから、20年足らずで人類は理論から実用へとシフトした。


 そして、もう一つの出来事が新しい人類の発見である。

 アメリカで人種間におけるヒトゲノムの塩基配列の違いを研究していたチームが、偶然にも今までの人類には見られなかった塩基配列を見つけた。

 通常、個々のヒトゲノムの塩基配列を比較すると0.1%程度の違いがあるが、新たに見つかった塩基配列と比較すると0.6%~1.2%の違いがあることが分かった。

 さらに調査を進めていくと、基本的にDNAはほぼ等しいが遺伝子の働きが脳の特に感情を司る大脳辺縁系や前頭葉に対する働きが違っていた。

 平たく言うと、新たに見つかった塩基配列を持つ者は感情の起伏が限りなく少ないため、常に冷静沈着かつ感情に流されず合理的な判断をする傾向にあるということであった。

 こういった特徴から、新たに見つかった塩基配列を持つ者を「ホモ・ラショナル(ドメイン:真核生物 Eukaryota、界:動物界 Animalia、門:脊索動物門 Chordata、亜門:脊椎動物亜門 Vertebrata、綱:哺乳綱 Mammalia、目:サル目 Primates、科:ヒト科 Hominidae、亜科:ヒト亜科 Homininae、族:ヒト族 Hominini、亜族:ヒト亜族 Hominina、属:ヒト族 Homo、種:ヒト H. rational)」と呼称された。(ラショナルの意味は「合理的な、道理にかなった」)

 ホモ・ラショナルは性別、国を問わず発見された。

 その数は年々増加していったが、ホモ・サピエンスの数と比べると本当に雀の涙程であった。


 *


 時は流れ、2030年代前半、量子コンピューターの発展形である「ラプラスシステム」が開発され、政府主導によって運用が始められた。

 ラプラスシステムとは、量子もつれや重ね合わせを応用した仮想シミュレーションシステムである。

 1980年にアルゴンヌ国立研究所が理論上は量子コンピューターの開発は可能と発表したように、理論上可能と判断されたものをラプラスシステムにより作られた現実世界と遜色なくほぼ忠実に再現した仮想世界で、理論が実用化された際の世界への影響をシミュレーションする目的で開発された。

 開発は、「これから発明・開発されるもののメリット・デメリットを正確に把握することで、核兵器のような過ちを二度と繰り返さないため」という思想を掲げた最初の被爆国である日本のプロジェクトチームを中心に進められた。

 ちなみに、ラプラスシステムのラプラスという名前は「ラプラスの悪魔」から取られている。

 未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念で、「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」という超人間的知性になぞられたものらしい。

 しかし、この概念は量子力学によって否定されている。

 量子力学を使って作られた量子コンピューターの発展形であるシステムの名前に「ラプラス」を使うとは少し可笑しさを感じてしまう。


 一方、ホモ・ラショナルは(ここではホモ・サピエンスとホモ・ラショナルを含めた広義的な意味)の1%までに増加していた。

 世界人口の1%というのは約8500万人で、一国家レベルの人口と等しい。

 ホモ・ラショナルの数は特に2020年初めに起こった新型コロナウイルスによるパンデミックの影響で発見される数が激増した。

 理由は、ホモ・ラショナルの場合は新型コロナウイルスに感染しても症状が軽度だったためだ。

 症状が軽度だった患者を中心に調査を行ったところ、6割以上がホモ・ラショナルであったという報告がヨーロッパの研究チームからあがっている。

 また、ホモ・ラショナルの割合が高いのは軽度のコロナ患者だけではない。

 政治家や国の官僚、企業のトップ、莫大な資産持つ資産家、様々な学問の第一人者、医者、弁護士、パイロットなどのエリート層のホモ・ラショナルの割合は8割を超えている。

 一説には、9割という報告もあるくらいだ。

 これは、ホモ・ラショナルの冷静沈着かつ合理的な思考という特徴が起因していると考えられている。


 そんな中で運用が開始されたラプラスシステムだが、運用において一つ問題が起こった。

 ラプラスシステムが作った仮想世界を観測・記録するためには1人以上の人間が仮想世界に潜るダイブする必要があった。

 この役割を担う者は後に「オブザーバー」と呼ばれる。

 問題は仮想世界に潜るダイブする際に、脳に対しての強い負荷が予想されていたことだった。

 理論が実用化した際への世界への影響をシミュレーションするということは、仮想世界で年単位での観測が必須である。

 勿論、仮想世界と現実世界では時間軸が大きく異なる。

 仮想世界では数十年経っていたとしても現実世界では数時間しか経っていない。

 仮に、仮想世界で30年観測を行い、現実世界では3時間しか経っていないとすると、仮想世界から現実世界に帰って来たオブザーバーにとっては29年と21時間分の時間が過ぎたように感じる。

 実際には、3時間しか経っていないにも関わらず、30年近くも時間が過ぎたように感じるギャップから脳への強い負荷が掛かると考えられた。

 だが、これはホモ・ラショナルがオブザーバーとなることで解決された。

 当初、強い負荷が掛かると予想されていたが、ホモ・ラショナルの場合は生命や健康に関わる程の負荷は掛からないことが判明した。

 他方、ホモ・サピエンスの場合は予想通り強い負荷が掛かり潜るダイブすることは不可能であったため、オブザーバーが観測・記録したデータを分析・解析をする作業をホモ・サピエンスが中心に担うこととなった。


 *


 ラプラスシステム運用から数年後、突如として第二次世界金融危機が起こった。

 最初は誰もが2007年から2010年頃に起きた第一次世界金融危機の時と同規模程度だと思っていた。

 けれども、それはあまりにも楽観的であった。

 現実は、第二次世界大戦へと発展してしまった世界恐慌の時よりも凄まじく悲惨なものであった。

 第二次世界金融危機はホモ・サピエンスとホモ・ラショナルの戦争という、絶滅戦争という名の生存競争の引き金を引くことになる。


 以前から、ホモ・サピエンスとホモ・ラショナルとの間では少々問題が起きていた。

 新たに見つかった人類というのは、ホモ・サピエンスから興味を抱かせるのと同時に差別的な意識も抱かせた。

 また、ホモ・ラショナルの特徴である感情の起伏の無い合理的な思考は見る人によれば、非情で血も涙もないような人の形をした化け物のように見えるという。

 例えば、こんな事例がある。

 ホモ・ラショナルであった医師の元に2人の高齢者と1人の子供が救急搬送されて来た。(運ばれてきた3人はホモ・サピエンス)

 トリアージの基準で見れば、2人の高齢者への治療の方が優先順位が高かったにも関わらず、医師は子供の治療を最優先とした。

 結果、子供は一命を取り留めだが、2人の高齢者は子供の治療を優先させたために助からなかった。

 これは世界的に人権問題として大きく取り上げられた。

 ホモ・ラショナルの医師の言い分は、年金受給者である高齢者2人の治療を優先するよりも子供の治療を優先させた方が社会的にも経済的にも生産性が上がる確率が高かったためというものであった。

 これにはホモ・サピエンスから多くの非難が殺到したが、中には支持するという声も少数上がった。


 第二次世界金融危機のように世界的な不況に陥ると、人々の反感は決まってエリート層へと向けられる。

 そのエリート層にはホモ・ラショナルが多くを占めている。

 そうなると余計にホモ・ラショナルへの反感や不信感は高まっていく。

 ホモ・ラショナルに対するデモや暴動、仕舞いには集団的な暴力や殺戮まで行われ始めた。

 その一方で、こういった行動はユダヤ人迫害の二の舞であると主張する団体や合理的なホモ・ラショナルに希望を抱く団体が擁護に入った。

 この騒動をきっかけに、ホモ・ラショナルに反感を抱く「サピエンス派」とホモ・ラショナルによる新しい世界を期待する「ラショナル派」に世界は大きく二分されていくことになる。


 サピエンス派もラショナル派も全員ホモ・サピエンスによって構成されている。(ホモ・ラショナル達は一応ラショナル派ということにはなっている)

 サピエンス派の傾向としては、「上流、中流、労働者階級・交流関係が広い・民族意識が強い」など、今まであまり苦労をせずにある程度は安定した生活を送ってきた人々が多いというものであった。

 それに比べてラショナル派の傾向は、「アンダークラス・社会批判を行う思想家、活動家・一部の有識者」など、今までの社会に強い不満を持つ人やホモ・サピエンスという人間に絶望をした人々が多いというものだった。


 人数としては、サピエンス派がラショナル派よりも圧倒的に多い。

 そのため、ラショナル派は常に劣勢であったことから一時期、サピエンス派とラショナル派の衝突が緩和されたことがあった。

 その際に行われたサピエンス派とラショナル派の世界中に向けた討論会が絶滅戦争という名の生存競争の撃鉄を起こすことになる。


 サピエンス派の代表がスピーチを行っている際に、そのサピエンス派の代表が拳銃を持った若い青年によって暗殺された。

 青年はその場で射殺され、サピエンス派は青年の身元をラショナル派だと発表した。

 サピエンス派のこの発表は紛れもない偽りであり、実際はラショナル派を潰すための口実としてサピエンス派が秘密裏に用意したものである。

 ホモ・サピエンスは信じたいものを信じる傾向が強く、デマは尋常では無い速さで広がりサピエンス派の思惑通りとなる。

 国連の常任理事国はラショナル派の団体を武力行使によって征圧することを決定。

 征圧が紛争へ、紛争が戦争へ、戦争が絶滅戦争へと変化するのにそう時間は掛からなかった。

 戦争の本質とは種属の生存競争なのかもしれない。


 *


 開戦当初は、サピエンス派の優勢であった。

 基本的に戦争は先手必勝な面が多い。

 しかし、それは先手で決定的な有効打撃を与えた場合に限る。

 サピエンス派の勢いはすぐに失われ、劣勢に立たされることが多くなる。

 原因は複数あったと考えられるため、いくつか挙げていこう。


 まず、各国の軍の幹部クラスのほとんどがホモ・ラショナルであった点だ。

 彼らはホモ・ラショナルである素性を隠し、見事に指揮系統を乱れさせた。

 軍というのは上の命令が絶対となる組織である。

 上の命令がどんなに非合理的であろうと下は滅多に反対することは出来ず、命令に従う。

 よって、軍の被害は日に日に増す一方であったが、これにはサピエンス派もすぐにホモ・ラショナルの幹部達を追放、捕虜、射殺することで対応を行った。


 次に、ラショナル派の非常に有能な指揮及び作戦である。

 感情の起伏が極めて少ないホモ・ラショナルの兵士は、どんな戦場であろうと冷静さを欠かさずに作戦を遂行していった。

 敵を殺すという精神的疲労が一切無いため、肉体的疲労さえ改善すれば万全の状態で戦場へと戻ることが出来るのは、PTSDなどの精神的な問題を抱えるサピエンス派の兵士に対して大きなアドバンテージとなった。

 また、最も合理的な思考から作戦を立案することから、サピエンス派では考えもつかない非情な作戦を何の躊躇もなく実行した。


 最後に、サピエンス派の非合理的な指揮及び作戦によるものである。

 これが一番大きな原因と言っても過言ではないだろう。

 サピエンス派は目的意識の統一化が不完全であった。

 目的は、戦争、生存競争に勝つことであると理解しているにも関わらず、しばしば目的に背いた作戦や判断が下されることがあった。

 例えば、新兵器の採用において性能だけ見ればA国の兵器が優れているところを各国のパワーバランスを鑑みてB国の兵器を採用するといった具合だ。

 これでは、目的が戦争、生存競争に勝つことから各国の利権をめぐるグレート・ゲームにすり替わっている。


 結局、各国のサピエンス派は無条件降伏を受け入れることになる。

 無条件降伏の決定打になったのは、開戦から約4年後に起きた新型コロナウイルス変異株によるパンデミックの再来であった。

 2020年の前回と比べて、感染率・致死率共に格段に上がった中で、ホモ・ラショナルに対する症状は依然として軽度のままであった。

 戦時中ということもあり、医療体制は脆弱であったためサピエンス派の死者数は凄まじい数字を叩き出し、今大戦こんたいせんの戦死者を遥かに上回った。

 多くの死者を出したサピエンス派であっが、ホモ・サピエンスが絶滅するということはなく、ホモ・ラショナルは戦争に圧勝、生存競争は一定の勝利を収めることとなった。

 とは言え、開戦から終戦までの戦死者・関連死は双方合わせて40億人を超えるに至った。

 地球の総人口は開戦前の半分近くにまで減少し、1970年代頃の総人口に戻ることになる。


 総人口が大幅に減少した反面、ホモ・ラショナルの総人口に対する割合では全く逆のことが起こっていた。

 開戦前は約85億の総人口に対するホモ・ラショナルの割合は2%に届くか届かないか程度であったが、終戦時には約25%の21億人程にまで増加していた。

 つまり、総人口の約半分がホモ・ラショナルとなった。

 急激なホモ・ラショナルの増加は、生存競争という極限状態が影響したというのが現在の定説となっているが、疑問を抱いている者もいる。

 定説が正しいとするならば、開戦前後にも起きていたホモ・ラショナルの急な増加の説明がつかないと言うのだ。


 どちらにせよ、ホモ・サピエンスとホモ・ラショナルの数は半々となりバランスの取れた値となった。

 しかし、その後はホモ・サピエンスが減少傾向に、ホモ・ラショナルは増加傾向となり、ホモ・サピエンスがホモ・ラショナルに取り込まれていく形となる。

 これはホモ・サピエンスとホモ・ラショナルは交配が可能であり、交配されて出来た子供はホモ・ラショナルの遺伝子がホモ・サピエンスよりも強く現れることが原因であった。

 現在ではホモ・サピエンスとホモ・ラショナルの総人口に対する割合は2:3となっている。


 *


 ここから記すことは、私の独断的な考察となる。

 サピエンス派とラショナル派で開戦が起きる少し前、ラプラスシステムのオブザーバーが1人行方不明になったというニュースがあった。

 そのニュースを詳しく調べてみるとラプラスシステムにエラーが生じたのではないかという疑惑がまことしやかに囁かれていた。

 そして、行方不明となったオブザーバーがラプラスシステムでシミュレーションをしていた理論を実用化させたなどという噂も耳に入った。

 これらの情報から、私は行方不明となったオブザーバーがサピエンス派とラショナル派同士の戦争もとい生存競争を引き起こさせ、実用化させた何らかの理論を使いホモ・ラショナルを増加させたのではないかと考える。

 であれば、開戦前後にホモ・ラショナルの急な増加も説明がつく。

 開戦中頃なかごろからは定説通りであろう。

 いずれにせよ、このオブザーバーはホモ・サピエンスからホモ・ラショナルへと人類の主役を移す目的を持ち、それをやってのけたのである。

 ただ、不可解な点が1つある。

 ラプラスシステムにエラーが生じたという疑惑だ。

 理論的にはラプラスシステムは完璧なシステムで、エラーやバグは100%あり得ないのである。

 それでも、仮にあり得たとしてもその確率は天文学的確率となる。

 では、ラプラスシステムにエラーやバグは起きていなかったと断言出来るかというと、そうは言えない。

 エラーやバグが起きなければラプラスシステムでシミュレーションされていた理論が実用化されるなど、それこそ絶対的に不可能なのである。

 エラーやバグもなく理論が実用化されたと考えられる現状において、ラプラスシステムが意図的にエラーやバグを起こし、理論を実用化させたようとしたにしか私には思えない。

 つまり、ラプラスシステムに人類をホモ・ラショナルへと昇華させる意志があったと言わざるを得ない。

 無機物のシステムに意志があるなど馬鹿げている。

 けれども、私にはどこか確信めいたものがある。

 この確信が証明される時が来るのかは分からない。

 それでも、私は文字という媒体を通してこの確信を残しておく。


 *


 ここまで長々とつづってきたが、この辺りで筆を置こうと思う。

 アウストラロピテクスの足跡の先を歩んだのはアウストラロピテクスでもホモ・サピエンスでもなく、ホモ・ラショナルだった。

 では、アウストラロピテクスの足跡の先をこれからずっとホモ・ラショナルが歩むのか?

 それはないだろう。

 きっと、数十万年後には新たな人類が誕生し、ホモ・ラショナルもまたホモ・サピエンスと同じような末路をたどるはずだ。


 ホモ・サピエンスとホモ・ラショナルとのの私が言うのだから間違いない――

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