誠志の章 第三節
私が高等学校に通い始めて少しした頃、下宿先の家に実家から電報が届きました。曰く、ハナが妊娠したとのことです。
私は、ハナを意識しないでいるために町へ来たというのに、出だしからハナの幸福そうな知らせを受け取ることになり、言いようのない孤独感を感じることになりました。まだまだ子供だった私は、想い人だった女性の幸福を喜ぶことなどできなかったのです。
私は、早朝と夕方の新聞配達と、入ったばかりの高等学校の授業についていくための勉強に加え、よい印象を持ってもらうためにとできるだけ下宿先の家事を手伝うようにしていたので、良くも悪くも、そうした忙しさは、それ以外のことを考える余裕をなくしてくれました。
高等学校一年生の終わり頃、ハナが無事出産したとの知らせが両親から届きました。なんと双子だったそうです。
私は、さすがにその頃には落ち着いてハナのことを考えることができるようになってきていました。恐らく、私の心の中でのハナの占める範囲が、町での生活の押し込められて、以前よりずっと小さくなっていたのです。
私は、この町にハナもいるのだとようやく気が付きましたが、ハナに会いに行く気にはなれませんでした。どこに住んでいるのか知らなかったということもありますが、以前ほどハナのことが気にならなくなったとはいえ、まだまだハナの幸福を心から祝えるほど大人でもなかったのです。
高等学校も二年生になるころになると、進学を志す生徒とそれ以外の生徒では、勉強の身の入り方が違ってくるものです。私の成績は、飛びぬけてよいものではありませんでしたが、そこそこ良い成績ではありましたので、学校の先生からも大学への進学を薦められました。
「誠志君は、飛びぬけて何かができるわけではないけれど、器用にまんべんなく勉強ができるようだから、このまま大学に進んでやりたいことを探してみるのもよいのではないかな」
高等学校の先生もそのように言ってくれました。
私は、他人、それも学校の先生から、『飛びぬけて何かができるわけではない』と言われたことに失望を感じないでもありませんでしたが、それでも大学への進学を薦めてくれたことについては、素直に嬉しいと思っていました。
私は、下宿先にことわりを入れ、週末を利用して久しぶりに実家に行くことにしました。実家へ帰って両親に会い、大学への進学について相談したかったのです。
母は、驚きこそしましたが、大学進学を志すことについては喜んでくれました。
「大学? こりゃ驚いた。この家から大学へ行こうって子が出るとは夢にも思っちゃいなかったよ。でも、これからは学問が必要になる時代になるだろうから、どんな結果になろうとやれるだけやってみればいいんじゃないかね」
父も同意してくれましたが、条件を付けられました。
「そうだな、大学に進学する金くらいはどうにかなるだろう。ただね、お前を町へ下宿させて高等学校へ行かせるのにも随分金を使っているから、大学へ行けるようになったら、学費以外の金はできる限り自分で工面して欲しいところだ。それでも大学へ行きたいと思うか?」
私は、両親に言いました。
「ありがとう、父さん、母さん。そんなこと何でもないよ。実は今だって、朝夕に新聞配達をやってるんだ。どこの大学に行くかはこれから考えるけれど、僕はどこの町でだって自分の食い扶持くらいは稼いでみせるよ」
母が驚いた顔になって言います。
「お前が新聞配達かい? 変われば変わるもんだねぇ。今にして思うと、やっぱりハナを引き取ってよかったんだね、お前にとってもさ」
私は、母に聞きます。
「どういうこと?」
「よくも悪くも、ハナはお前にとってお姉さん以上の存在だったんだってことさ」
母が、妙な笑顔でそんなことを言うので、私は苦笑いをして言いました。
「勘弁してよ、もうハナは家を出たんだ。他人に戻ったってことでしょう?」
後になって思えば、なんとも薄情な物言いをしたものだと思います。しかし母は、そんな私を笑い飛ばして言いました。
「はあっはっは! 何言ってんだい! お前はそんなに薄情な子じゃないだろ? いつまでだって、ハナはお前のお姉ちゃんさ」
私は、溜息をついて言いました。
「そうだね、そうかも知れない。でも僕が村からも町からも出てしまったら、もうハナに会うことはないんじゃないかな。そんな機会はないでしょう?」
じっと私と母のやり取りを聞いていた父が、妙な笑顔になって言いました。
「いやいや、人の縁とはそんなに簡単なものでもないだろう。きっといつかはハナと顔を合わせることもあるさ。お前は、その時にハナに恥ずかしくないようにしていた方がいい。私はそう思うよ」
私は、父の言っていることがよくわかりませんでした。
「ハナに恥ずかしくないようにって、どういう意味?」
父が言います。
「それ程深い意味はないが、例えば、お前がハナに知られても恥ずかしくないと言える行動というのは、お前にとっての誇りになるだろうと思ってな。キヨ、お前はどう思う?」
父から聞かれた母が答えます。
「誇りなんて、また大げさな言い方だね。つまりさ、これからの人生でお前が迷うようなことがあったとき、心にハナを思い浮かべてみたらいいってことさ」
父は、母の言葉に納得したように頷いていました。
母にそんなことを言われても、まだ子供だった私には難しい話でした。
「よくわからないけれど、覚えておくようにするよ。今日は泊っていっていい? 今から出たんじゃ、町に着く頃には随分遅くなっちゃいそうだから」
私は、久しぶりの実家で夕食を食べ、お風呂に入って布団に入ると、とても落ち着いた気持ちで眠ることができました。
それから、私はよくよく考えて、東京の大学を目指すことにしました。
町からそれ程遠くないところにも大学はありましたが、両親の言う通りにハナを心に思い浮かべて考えてみたとき、自分にとって最大限と思えるところを目指してみる気になったのです。
私は、うまいこと両親に乗せられたような気もしましたが、確かに心にハナを思い浮かべないでいたら、そこまでのことは考えなかったかもしれません。
私は、高等学校二年生から三年生になっても、東京の大学を目指して勉強に励んでおりました。大学進学のために勉強しなければいけないことは山ほどありましたが、町での生活にも慣れ、ハナのこともほとんど思い浮かべることもなくなってきていたので、勉強に集中することができていました。
そうして、私は東京の大学を受験し、合格することができました。
受験料を惜しみ、滑り止めの学校を受験しなかったことで、背水の陣を敷いたような気持ちになれたのかもしれません。
私は、改めて東京での新しい生活に思いを馳せました。
こうして私は、やっと自分の将来のことだけを考えられるようになったのです。
to be continued...
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