誠志の章 第四節
私は、東京への大学進学が決まってから、下宿先にことわって、両親にその報告をするために村に帰りました。
勉強に追われてしばらく実家に帰っていなかったので、両親と顔を合わせるのは、随分久しぶりでした。
久しぶりに私の顔を見た母が言います。
「おや、その顔を見る限り、受験はうまくいったようだね。おめでとう、よく頑張ったね」
私は、苦笑して言います。
「顔を見ただけでわかるの? そんなにわかりやすいかな」
私は、両親の前で東京の大学に合格したことを報告しました。
「結局、東京の大学に行くことになったんだ。部屋探しやら何やらで、これからちょくちょく東京に行くことになると思う」、
母が驚いて言いました。
「東京の大学だって? お前には驚かされるよ。そんなに遠くに行くんじゃ色々と心配にもなるが、あたしらにできることがあるようなら、遠慮なく言うんだよ」
父も驚いたようです。
「よく東京の大学に合格できたものだ。お前を誇りに思うよ。前に学費以外は出さないと言ったが、できるだけのことはするから、生活が苦しくなるようなら遠慮なく言いなさい」
私は、両親に言いました。
「ありがとう、父さん、母さん。大丈夫、東京には、大学に通いながらでも働けるようなところが沢山あるみたいだから、僕はそれ程心配はしていないよ。ただ、あまりこちらには帰ってこれなくなるかもしれないから、二人とも体には気を付けてね。ところで、こっちでは何か変わったことはなかった?」
父から、私が村を出た年に、ハナが出産した二人の赤ちゃんをこの家に連れ帰って、しばらくこの家で暮らしていたという話を聞きました。
私は、両親に聞きました。
「それで、ハナは結局どうしたの? 双子の赤ちゃんは?」
母が笑って言います。
「ハナは大丈夫さ。旦那の仕事が忙しくて、ハナだけじゃ双子の面倒を見るのが大変だっていうから、しばらくこの家でハナと双子の面倒をみたってだけの話だよ。心配するほどのことじゃないさ」
私は、これまで言えなかった村長の息子さんに対しての不満を口にしました。
「こう言っては何だけれど、お屋敷のお坊ちゃんは、もっとハナを大事にするべきだったんじゃない? ハナは初めて赤ちゃんを産んだのに、ハナを放ったらかして仕事にかかりっきりじゃ、ハナがかわいそうだよ」
母は、にっこり笑って言いました。
「そう言ってやるもんじゃないよ。お屋敷のお坊ちゃんだって、そうしたくてハナを放っておいたんじゃないさ。子育てってものはね。そんなに簡単なもんじゃないんだよ。お前にもいつかわかるさ」
私は、その日の夜も実家に泊まりました。これからしばらくは母の作る食事を食べることはできないだろうと思い、できるだけ味わって食べるようにしました。下宿先で出してくれる食事も勿論おいしいのですが、やはり母の作ってくれる食事は、自分にとって特別なものだと思いました。
そうして私は、その年の春から東京での生活を始めました。
私は、大学に通いながらアルバイトをして生活費を稼ぎました。アルバイト先では、何人かの同性代の女性と親しくなりました。
「誠志くんて、一人で東京に出てきて生活しているの? すごいねぇ!」
そんな風に言ってくれる女性の一人とお付き合いをするようになりました。どうも私は年上の女性が好みのようだと自覚するようになるのは、もう少し後になってからです。
大学では、仲の良い友人ができました。啓介というその友人は、私とは違うところの出身ではありましたが、私と同じように遠く離れたところから東京に出てきて一人暮らしをしているとのことで、アルバイトの話など、とても話が合ったのです。
それから、私は大学を卒業して、東京の企業に就職をしました。驚いたことに、友人の啓介も同じ企業に就職することになったそうです。
私は、東京近郊の出身ではないという気負いから、他の社員たちより仕事に打ち込んだこともあり、比較的順調に出世しました。
就職してから数年後、私はささやかな結婚式を挙げました。相手は、大学四年生の頃からお付き合いをしていた
結婚式には、両親は呼びましたが、式がささやかだったこともあり、ハナは呼びませんでした。薄情なお話ではありますが、私は他家に嫁いだハナを結婚式に招待することをためらったのです。両親は、そんな私に何も言いませんでした。
私は葵と家庭を持ち、子供にも恵まれました。しかし、私は子供ができても、仕事優先の生活を変えられないでいました。
私は、葵に言われました。
「ねえ誠志? あなたがお仕事を頑張っているのは、私たちの生活のためだってわかっているし、感謝もしているの。でもね、もう少しお仕事の割合を減らして、赤ちゃんのことも見て欲しいのよ。赤ちゃんとの生活も、あなたにとって仕事と同じくらい大切なもののはずよ?」
私は、数年前に両親に言った言葉、『ハナを放ったらかして仕事にかかりっきりじゃ、ハナがかわいそうだ』と言ったことが、自分の身に降りかかって来たことを実感しました。私は、母の言った『子育ては、それほど簡単なものではない』ということを身に染みて感じることになったのです。
私は、葵に言いました。
「ごめん、君の言う通りだ。何も今ほど仕事に打ち込まなくたって、普通に生活はできると思う。ちょっと出世が遅れるくらいかな。でも今の僕は、出世より君や赤ちゃんとの生活が大切だと思ってる。これからは、できるだけ早く帰って、君と一緒に子育てができるように頑張るよ」
その時の私は、まだ十分に子育てを手伝うことができていなかったと思います。でも、二人目の子供の時は、もっと上手にできたと思っています。
私は、二人目の子供が五歳になるまで、できるだけ早く家に帰る生活を続けました。会社は、そんな私を責め立てるようなことをせず、私ができる限りの仕事ができるように計らってくれていました。
そうして私が改めて仕事に集中できるようになった頃、私は会社からある大きなプロジェクトを任されました。
私が所属している企業は、大型工業設備の開発製造をしています。そのプロジェクトは、新しい排煙脱硫装置の開発製造を行う内容のものでした。
元々は、工業技術院から知財供与を受けて、自然環境に配慮した新しい工業設備を開発製造するという、私が会社に提出した企画が採用されたものではありますが、しばらく第一線から離れていた私には、意外ともいえる人事でした。
私は、大慌てで資料を集め、関係者に話を聞いて回り、まずはプロジェクトの概要を纏めて大まかなスケジュールを引きましたが、資材調達や実際に開発製造などを行う資金の確保については、まだ決まっていないと聞かされました。
私は、なぜこのプロジェクトが私に回ってきたのかを理解しました。資金調達に難があるのです。通常、プロジェクトは資金調達に目途が付かないと開始できません。
つまり、プロジェクトを任されたと思っていましたが、それは資金調達ができればという条件付きだったのです。
私は正直のところ、崖から突き落とされたような気持になりましたが、よくよく考えて、これをいい機会だと考えることにしました。
排煙脱硫装置とは、鉄鋼プラントなどの排煙から二酸化硫黄などの硫黄酸化物を除去する装置で、大気汚染防止、つまり公害対策を目的としています。
資金調達に難があるのは、当時の企業が公害対策に高額な資金を投入するとは考えにくいとされていたからですが、私は公害が問題視されてくるようになれば、各企業は公害対策にもっと資金を投入せざると得なくなると考えていました。
私は、潤沢な資金を持っていそうな企業に片っ端から資料を送り、プロジェクトへの出資を持ちかけましたが、どこも反応を返してくれるところはありませんでした。
私がプロジェクトの始動を諦めかけた時、一つの企業から返信がありました。『出資する』という内容ではありませんでしたが、話を聞きたいと言ってくれていました。私は急いでプロジェクトの説明資料を作成し、打ち合わせの場を設定しました。
そうして、打ち合わせの場にやってきたのは、しかめ面をした年配の男性と、表情の乏しい若い男性でした。私は、少なくともこの若い男性はプロジェクトに関心を持っていないと感じました。
打ち合わせは、昼食を挟んで午前と午後に分けて行うことにしました。通常行うプロジェクト説明の打ち合わせにしてはかなり長い時間ですが、できるだけ話を聞いてもらい、プロジェクトに関心を持って欲しかったのです。
私は、午前中の打ち合わせから、自分では最大限と言えるくらい熱を込めて話しましたが、空振りと感じました。そのしかめ面をした堅物の人物は、私の話を聞いても唸るように返事をするだけだったからです。
私は、午前中の打ち合わせの後、オフィスの自分の席で家族の写真を見ながらため息をついていました。その後ろを友人の啓介が通り過ぎます。
「お前って、本当に年上好きだよな」
私は、啓介にそう言われて、まず葵のことを頭に思い浮かべ、それから久しぶりにハナのことを思い出しました。そして、随分長い間ハナのことを忘れていたこと気が付いたのです。
私は、午前中の会議で感じた失望の気持ちを紛らわせるために、少しの間思い出に浸ることにしました。両親を失って私の家に来た少女。母に何か言いつけられては、嫌な顔一つせずくるくるとよく働いていた少女。私が数々のいたずらで困らせていた少女……。
私は、ハナが結婚する直前に、彼女にリンドウの花を贈ったことを思い出しました。そして、私からリンドウの花を受け取った時の、ハナの涙ぐんできらきらした笑顔を……。
「ありがとうございます、坊ちゃん。ハナは、とてもうれしいですよ。このお花、押し花にして、ずっと大切にしますね」
そうして、ハナはお嫁に行ってしまったのです。私を実家の商家に残して……。
「おい、午後の会議、始まるぞ」
私は、そう言う啓介の声で、甘美で切ない思い出から現実に引き戻されました。そして、またあの堅物の男性に向き合わなくてはいけない現実に気が滅入りました。
「ああ……、昼飯食べそびれたな……」
午後の会議が始まりました。私は、気を取り直して話し出しました。
「午前中の会議で、プロジェクトの概要について、概ねご理解いただけたかと存じます。続いて、このプロジェクトを進めるにあたって想定されるリスク、及びリスクヘッジについてご説明します」
その堅物の男性は、何も言わずに資料を眺めながら私の話を聞いていました。私は、プロジェクトの全容について、包み隠さず説明しました。変に隠しごとをしても、良い結果にはつながらないものです。
「以上が、今回、私どもからご提案申し上げるプロジェクトの全容です。御社におかれては、是非前向きにご検討いただきたく……」
言いかけた私の言葉を遮るように、その堅物の男性は話し出しました。
「なるほどよくわかった。よく考えられていると思うよ。このプロジェクトは、君の発案かね?」
私は、意表を突かれた質問をされ、少々戸惑いながら答えました。
「は、左様です」
「大きくなった……、成長したものだ……。私が知っている君は、ただハナを困らせるだけの悪ガキだったのだがな……」
そう言って、その堅物は胸のポケットからリンドウの押し花を出して見せ、笑顔になりました。何か特別な感じのする、きらきらした笑顔でした。私は、驚いて言いました。
「まさか……」
その堅物の男性、いえ、村長の息子さんだった男性は、こちらに向かってウインクして言いました。
「まあ、君の発案だというなら、乗ってみてもいいさ。悪くはなさそうだし、何より結果に興味がある」
「奥様は、ご壮健ですか……」
私は、そうい言うのがやっとでした。
「ああ、元気だとも! こんな偶然もあるものだね。会議資料に君の名前を見つけて驚いたが、それを聞いた時の妻は、もっと驚いていたよ。機会を見て、是非うちに遊びに来てくれたまえ」
男性は、そう言っていたずらっぽく笑いました。
「はい……、はい……」
私は、もう何も言葉を続けることができず、目に涙を溜めながら、ただこくこくと頷くことしかできませんでした。
to be continued...
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