誠志の章 第二節
ハナが村の学校を卒業してしまっても、私はまだしばらく通っていました。
私は、ハナと一緒に学校に行けなくなって学校をつまらなく感じておりましたが、学校で色々なことを学ぶことで、村だけではなく町やもっと離れた土地のことなどのことがわかって参りますと、ずっとこのまま、村で一生を過ごすことに抵抗を感じるようになりました。
学校の先生は、そんな私の相談に乗ってくれました。
「誠志君は勉強ができるから、そのために村から出てもいいかもしれないわね」
どこまで本気でそんなことを言ってくださったのかはわかりませんが、私は村を出て、もっと大きな街で一人暮らしをして、大学に進学することなどを想像するようになりました。
ハナは、相変わらず週末になっては、村長の息子さんに連れ出されておりましたが、ある時、明らかに様子が変わって帰ってきたことがありました。
まだまだ子供だった私には、ハナの様子が変わったことはわかっても、その理由などについては、全く想像がつきませんでした。
その日の夜、一度寝床に入ったものの寝付かれずにいたので、一度便所に用を足そうと起き出したところ、居間から両親とハナが話し込んでいる声が聞こえてきましたので、こっそり忍び寄って聞き耳を立てました。
両親とハナは、どうやらハナが村長の息子さんから結婚を申し込まれたらしい話をしておりました。私は、子供ながらに頭を殴りつけられたような衝撃を感じました。
「ハナが、お嫁に行っちゃう……」
私は、ふらふらと寝床に戻りましたが、とても寝付くことなどできませんでした。
翌朝、私は台所で母と二人だけになった時を見計らって、母に尋ねました。
「ハナは、お嫁に行っちゃうの?」
母は、驚いて言いました。
「おや、よく知ってるね。ハナに聞いたのかい? まあ、ハナは気立てのいい子だからね、遅かれ早かれお嫁に行くことにはなるだろうよ」
私は、不思議に思って聞きました。
「すぐには、お嫁に行かないの?」
母は、笑って言いました。
「ハナは、そんなにすぐいなくなったりしないから安心しな。でもね、いつかはお嫁に行くんだよ。そのことは忘れるんじゃないよ」
私は、ほっと胸を撫でおろしましたが、母の『ハナはいつかお嫁に行く』という言葉が頭から離れませんでした。私は焦りを感じていましたが、どうすることもできず、ただ学校の勉強に集中することで、そのことを考えないようにしておりました。
そうして二年もたった頃でしょうか。母が私に言いました。
「誠志? どうやらハナがお嫁に行く日も近そうだよ」
私は、もうすぐ村の学校を卒業しようという頃でした。私の焦燥感は急に高まりましたが、どうすることもできないことには変わりがありませんでした。そして、ハナのいなくなったこの家に居続けることを想像すると、恐ろしさすら感じたのです。
私は、母に言いました。
「母さん、相談したいことがあるんだ」
母が私に聞き返します。
「へえ? なんだい?」
私は、意を決して母に言いました。
「僕、町の高等学校に通いたいんだ。この家を出て」
母が驚いた顔になって言います。
「この家を出てって、あてはあるのかい?」
私は、正直に言います。
「……ないのだけれど、父さんの知り合いで、町に住んでいて僕を下宿させてくれるようなお家がないかな……」
母が呆れたように言います。
「なんだい。お前にしちゃ、随分無鉄砲なことをお言いだね。お父さんには聞いてみるけど、お前も村の学校の先生にでも相談してみな」
村の学校の先生は、元々町の出身の方でしたので、母もその方が話が早そうだと思ったようです。私はその提案をしてくれた母に感謝しつつ、村の学校の先生に下宿先の心当たりについて、聞いてみることにしました。
私は、ハナが村長の息子さんに連れ出されている間に、改めて父と母に家を出て高等学校に通いたいという話をしました。
父が言います。
「残念ながら私の知り合いには、お前を下宿させてくれるような家は見つからなかったよ。村の学校の先生の方はどうだったんだ?」
私は、学校の先生に相談した時のことを両親に話しました。
「先生は、もし父さんの知り合いで下宿させてくれる家が見つからないようなら、先生の兄弟の家を紹介してくれるって言っていたから、改めて先生に相談してみるよ。ところで……」
私は、下宿先の話とは別のことを両親に聞くつもりでした。
母が言います。
「そうかい。それじゃ、少々心苦しいが、村の学校の先生のお世話になるしかなさそうだね。今度あたしも村の学校の先生にご挨拶に行くようにするよ。ところで、なんだい?」
私は、両親に聞きました。
「お嫁に行くハナに、お別れを言った方がいいか迷ってるんだけど、やっぱりちゃんとお別れを言った方がいいかな?」
父が不思議そうな顔で言います。
「お前は、なぜハナにお別れを言うのに迷ったりしているのだ?」
私は両親に、これまでずっとハナにいたずらをしては困らせていたので、ハナはきっとお嫁に行って私の顔を見なくて済むようになることを喜んでいると思うと言いました。すると両親は、顔を見合わせて笑い出しました。
母が言います。
「おやおや、何を気にしているのかと思ったら、そんなことかい。大丈夫だよ、ハナはお前のいたずらなんぞ、ちっとも気にしてやしないさ。そんなことより、あの子に贈り物でもしてやっちゃどうだい? 悪い事をしていたと思うのなら、なおさらさ」
私は、母の言うことを半信半疑になって聞きながら、尋ねました。
「贈り物って?」
母は言いました。
「あの子はさ、リンドウの花が好きらしいんだよ。きっとご両親を思い出すんだね。お嫁に行くのに、リンドウの花ほどふさわしい贈り物はないんじゃないかね。丁度今頃咲いているころだし、山へ入ってリンドウの花を採ってきて、ハナにやったらどうだね?」
私は、半信半疑のまま、山へ入ってリンドウの花を採ってくることにしました。山に入るのは久しぶりでしたが、山に入ること自体は難しいことではありません。恐らく、ハナ以外の村人であれば、誰でもそうであったのではないでしょうか。
但し、当時の私はまだ子供でしたので、そう簡単にリンドウの花を見つけることはできませんでした。山道から外れないように気をつけながら探していたのですが、気が付くと随分暗くなってきていました。私が焦りを感じ出したころ、ようやくまとまって咲いているリンドウの花を見つけました。
私は、ほっと胸をなでおろし、咲いているリンドウの花を何本か摘み取り、来た道を引き返しました。山道は、たちまち暗くなってしまっていましたが、私は木々の合間から差し込む月明かりを頼りに、何とか村まで帰ってくることができました。
私が商家の門まで戻ってくると、ハナが心配そうな顔をして私を出迎えてくれていました。
「坊ちゃん! ご無事で……、もう、心配したんですから……」
私は、ハナが私を気にしてくれることが嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、顔を下に向けたまま、摘み取ってきたばかりのリンドウの花をハナの目の前に突き出して言いました。
「あげる」
ハナは、驚いたような顔で言いました。
「まあ、私にですか? 坊ちゃんが、わざわざ私のために?」
私は、何も言わずにただ頷きました。ハナが言います。
「ありがとうございます、坊ちゃん。ハナは、とてもうれしいですよ。このお花、押し花にして、ずっと大切にしますね」
私は、ますます恥ずかしくなって、ただ頷くばかりではありましたが、両親の勧めにしたがってハナに贈り物ができたことに満足感を感じていました。
数日後、ハナの結納が行われ、さらに数日後には、ハナは、世話役の母に連れられて、村長の家にお嫁に行ってしまいました。
私は、ハナがいなくなってしまった家で、深い孤独感を感じておりましたが、それからの時期は、高等学校に入るための勉強に追われることになったので、それどころではありませんでした。振り返ってみれば、それでよかったのだろうと思います。
そして春になり、私は町の高等学校へ通うために、家を出て町の下宿先へ行くことになりました。村の学校の先生の弟さんのお家にです。
母が言います。
「早いもんだね。もうお前が自分の将来のことを自分で考えて、この家を出る日が来たんだね。くれぐれも体には気を付けるんだよ。それと、いつでも家には帰ってきていいんだからね。どんなことになってもだよ。それを忘れないでおくれ」
私は、母に言いました。
「ありがとう、母さん。お盆とお正月には帰るようにするよ」
後にして思えば、やっと高等学校に入学するくらいの子供が親元から離れて暮らすというのに、両親はよく許してくれたものだと思います。
今の私には二人の子供がおりますが、そんなに早い時期に両親から離れて暮らすなどとは想像もできません。恐らく、まだまだ私はその時の両親に敵わないということなのだろうと思います。
当時の私は、勿論両親と離れて暮らすことを恐ろしいと思っていましたが、それでもハナのいなくなった家にいるよりはいいと思っておりました。
先生の弟さんのご家庭の方々は皆親切で、赤の他人の子供である私を、それはそれは可愛がって、世話を焼いてくださいました。
私は、村の先生の弟さんのご家庭に下宿させていただくにあたり、家賃を支払うために朝晩の新聞配達を始めました。商家の子供として甘やかされて育った身には堪えましたが、村の学校に通っていた間にずっと夢見ていた村の外での生活ができていることに充実感を感じていましたので、それ程苦労とは感じておりませんでした。
先生の弟さんは、私が稼いだお金を受け取ってはくださいませんでした。
「お金は、前もってある程度君のご両親からいただいているから、君からも受け取るわけにはいかないよ。そのお金は取っておいて、進学したくなったときにでも役に立てるといい」
私は、生家から離れた場所での生活に慣れることで精いっぱいではありましたが、先生の弟さんからそのように言われたことで、改めて高等学校卒業後のことを意識するようになりました。
to be continued...
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