浩一の章 第二節
私には妹がおります。名前はサチ。友人たちからは、さっちゃんと呼ばれています。サチは子供の頃、村の学校に通っておりました。沢山の友達に囲まれ、とても楽しそうでした。
村の学校では、特に仲の良い友達がおりました。それが、のちに私の伴侶となるハナです。二人は、親友とも呼べる間柄でしたが、ハナは学校から帰ると商家である家の手伝いをしなくてはならないとかで、学校以外ではあまり一緒ではなかったようです。
サチが村の学校を卒業する頃、高等学校に進学する話が持ち上がりました。しかし、高等学校があった町は村から遠く、とてもではありませんが、村から毎日通うことなどできませんでした。
当時、私は大学に通うために町に住んでいる父の兄、私から言えば叔父にあたる人の家に身を寄せておりましたが、高等学校に通う間は、サチも同じように叔父の家に身を寄せてはどうかという話になりました。
父が言います。
「高等学校に通う間は、兄の家に身を寄せるようにしたらいい。丁度浩一が大学を卒業するから入れ替わりという形になるが、あちらの家でもきっと喜んでお前の世話をしてくれるだろう」
叔父は、町で伝統工芸の民芸品の工房を営んでいて、一時子供を預かることくらい負担にはならないような裕福な家庭でした。しかし、サチは抵抗しました。
「あたし、高等学校になんて通わなくてもいいと思うのだけれど、だめかなぁ……。だって女だし、それ程教養が求められるわけでもないでしょう?」
母は、サチに賛成しました。
「そうだね、それより家で花嫁修業でもした方がいいんじゃないか。女なんだから」
母は、一時でもサチと離れることが寂しかったようです。
当時、村では女の子はおろか、高等学校に通う子供などいませんでした。貧しい家の多かった村では、子供は家の畑仕事を手伝う重要な働き手であることの方が多かったのです。しかし、まず父が言います。
「これからは、女に限らず誰だって学問が必要になる時代になっていくだろう。大学に行けとは言わないが、高等学校くらい、出ておいた方がいいと思うよ」
私も父に加勢します。
「よく父さんと話すんだけど、この村をもっと豊かにするためにも、村の人達にも学問が必要だと思うんだ。サチだって、何もせずただお嫁に行くより、将来就きたい職業のことを考えるためにも、高等学校を卒業しておいた方がいいと思うよ」
父と私の言葉を聞いて、サチが答えます。
「就職かぁ……、考えたこともなかったけど、ハナちゃんだってお家の手伝いを続けるのなら就職するようなものだもんね。あたしももう少し勉強しないと、ハナちゃんに置いていかれちゃうかなぁ」
サチの考えることは、どうしても親友であるハナのことが基準になってしまうようでしたが、私としても気ままな性分のサチが学問に興味を持ってくれるきっかけになるのであればと、ハナの存在をありがたく感じてしまうのでした。
こうして、サチは村の学校を卒業後、町の高等学校へ通うことになりましたが、私の方は、もっと厄介な話を両親にしなくてはいけませんでした。私は、大学を卒業後、
父が驚いて言いました。
「留学だって?! 何だってそんな話になるんだ?!」
私は、ゆっくりと父に説明しました。
「大学でお世話になった教授に、
父が食い下がって聞いてきます。
「新しい事業とやらのことは一旦置いておくが、向こうでの生活はどうするんだ? 寝泊りする場所は? 食事は? 風呂や着替えは? 留学というが、向こうの学校に入学するあてはあるのか?」
私は、何とか父に落ち着いてもらえるように気をつけながら話しました。
「聞いてくれよ、父さん。その教授に留学の相談をしたら、色々と世話を焼いてくれるっていうんだ。まず生活するところだけれど、その教授の祖父母の家にホームステイさせて貰うようにお願いしてるんだ。今は教授の叔父さんが教授の祖父母と住んでいるらしいんだけど、部屋が空いているから使っていいって言うんだ」
父が、唸る様に言います。
「危なくないのか?」
私は、ため息をついて言いました。
「
私は教授に、『でも、危ない場所には近づかないように』と言われたことは飲み込んで、言葉を続けました。
「僕は、この村のこれからのことをを考えると、留学はどうしても必要なことだと思っているんだ」
父がため息をついて言いました。
「わかった……、お前がそこまで言うなら、もう何も言わないよ。金もできる限り援助するが……、くれぐれも気を付けてくれよ。頼むから」
そうして私は、
「体には充分気を付けるんだよ。ご飯はちゃんと食べて、夜はちゃんと寝て、生水にも気を付けて。お願いよ」
母に比べると、父は落ち着いていました。……少し諦め顔ではありましたが。
「留学するからって焦るなよ。体を壊したら何にもならないからな」
一番落ち着いていたのはサチでした。
「
私は、皆に安心してもらえるように言いました。
「もうホームステイ先のご家庭とは、手紙で何度かやり取りしているし、船が向こうの港に着く頃には迎えに来てくれるっていうから、何も心配はいらないよ、大丈夫。サチ? 自慢話はほどほどにしておかないと友達をなくすかもしれないから気をつけてな」
サチは、ペロっと舌を出して、肩をすくめて見せました。
慣れない船旅は大変でしたが、十数日にも及ぶ長い船旅の船酔いにも耐え、何とかシアトルの港までくることができました。港には、ホームステイ先である教授の叔父さんの奥さんが息子さんと迎えに来てくれていました。
「あなたがコウイチ? よろしく! 私はソフィア、この子はユージーンよ。ようこそ、シアトルへ! これからしばらくあなたが暮らす家にご案内しますね」
ソフィアさんに連れられて到着したお家では、教授の祖母である方が出迎えてくださいました。
「コウイチね? まあまあ、ようこそいらっしゃいました! 私はエマよ。この家をあなたの家だと思ってくつろいでね。早速ご飯にしましょうか、お腹空いたでしょう?」
教授の祖父母の家の人達は、皆親切で、いきなり東洋から来た見知らぬ青年に、とてもよくしてくださいました。私は、教授の叔父さん、ジェイムズに尋ねられました。
「コウイチは、こっちで経営学を学びたいんだっけ?」
私は、答えました。
「はい。それと木材工学を学べればと」
「木材工学? なぜ?」
不思議そうな顔をするジェイムズに、私は答えました。
「故郷の村では林業が盛んなのですが、皆貧しく、苦しい生活をしている人が多いのです。私は木材工学を学んで、村で何か新しい事業を興したいのです」
私の言ったことを聞いて、ジェイムズは驚いて言いました。
「本当に? すごいことを考えてるんだね! シアトルに木材工学をやってる大学があったかはわからないけれど、見つからなかったら、知り合いの家具工房を紹介してあげるから、その方面で勉強してみたら?」
私は結局、通える範囲の大学で木材工学を教えてくれる大学を見つけることができませんでしたが、ジェイムズが紹介してくれた家具工房は、とても刺激的でした。
そこでは、他の家具工房との差別化を図るために、ボストン出身の女性が一部の家具にトールペイントを施していたのです。
「どうだい? シアトルでトールペイント家具なんて珍しいだろ? この辺りの家具職人でトールペイントができるのはうちのレイチェルだけだから、彼女のトールペイントが入った家具は大人気なんだ」
日本でも家具に装飾を施すことはありましたが、ここでみたトールペイントの施された家具は全く雰囲気が違っていて、うまくいえませんが、温かく幸せな家庭を家具で表現したら、このような感じになるのではないかという風情だったのです。
「日本の
私は、日本古来のものではない、かといって西洋のものでもない、新しい日本製家具の想像図を掴みかけたように思いました。
しかし一方で、おぼろげながら頭に思い浮かんだ家具の想像図が、あまりに当時の日本の家具と違っていたので、商品化しても売れないのではないかとも思っていました。私は、自分が想像している家具について、工房のご主人に相談してみました。
「コウイチの言う通りかもね。あまり斬新なものっていうのは、受け入れてもらえるまでに時間がかかったりするものだからね。でもそうだな……、ジャパンテイストの家具か。シアトルには、日本に縁のある人も多いから、こっちだったら売れるかもね」
私は、大学に通って経営学を学びながら、暇さえあれば家具工房に通っては自分の作りたい家具の想像図について職人さんと話し合っていました。そこで様々な新しい家具の想像図ができていったのです。
あっという間に二年が過ぎ、日本に帰る日がやってきました。
「あっという間だったね、寂しくなるよ」
ジェイムズが、私との別れを惜しんでくれました。
「是非、またシアトルに来てね。歓迎するから」
ジェイムズの奥さんのソフィアも、涙ぐんでそんなことを言ってくれました。
「本当にありがとうございました、皆さん。皆さんのことは忘れません。また必ずシアトルに来ますので、皆さんもどうぞお元気で」
私は、必ずまたシアトルに来て、改めて彼らに感謝の気持ちを伝えることを胸に誓ったのです。
私は、また長く苦しい船旅に耐え、日本に帰ってきました。
サチはまだ町から高校に通っていたので、父母にしか会えませんでしたが、二人とも私が帰ってきたことをとても喜んでくれました。母が涙ぐんで私に言います。
「よかった。よく無事で帰ってきてくれたね、本当によかった」
父もほっとしたような顔で言いました。
「とにかく無事でよかった。落ち着いたら、向こうでのことを話してくれ。でもまずはゆっくり休んだ方がいいな」
父の言う通り、私は日本に帰ってきたばかりで疲れが溜まっていたのか、しばらく家から出られませんでした。顔にも出ていたのかもしれません。
私が体力を取り戻し、村で事業を興すための計画について父との相談を始めた頃、サチが高校を卒業して村に帰ってきました。
「ただいま! あー! 浩一兄さん! 帰ってきてたのね、おかえりなさい!!」
「ただいま。おみやげあるぞ」
「ほんと?! やった!」
数年ぶりに見る我が妹は、ほんの少し大人びて見えなくもありませんでしたが、やっぱりサチはサチのままでした。変わらないサチを見て、私はやっと日本に帰ってきた実感が湧いてきたのです。
父は、私が事業を興したいと話すと、案の定、難色を示してきました。
「事業を興すと言っても、そんなに簡単なことではないよ。第一、銀行がお前のような若い人間にお金を貸してくれるだろうかね」
「そこは、大学に金融関係のツテをもってる教授がいるから何とかするよ。問題は、お金よりも人材なんだ。父さん、家具職人とか木彫り職人に心当たりはない? ほら、叔父さんの工房の関係とかで?」
私は、毎日夜遅くまで父と新しい事業について話し合いをしていました。
そんな頃です。サチが子供の頃から親友だったハナを家に呼んでいたのです。
私が遅い時間に起きて、着替えて、顔を洗って食堂へ行こうとしたとき、リビングから話声が聞こえてきたので、何とはなしにリビングに入った時、ソファに座ってサチと話し込んでいる女性の姿が目に入ったのです。
その女性が振り返った時、一瞬、私には一凛の可憐な花がそこに咲いているように見えました。
「兄さん! 会うの初めてだっけ? こちら、あたしの親友のハナちゃんだよ! ハナちゃん? こちらは、兄の浩一です。つい最近、留学先の
私は数秒、声がでませんでしたが、なんとか落ち着いて、一凛の花がちゃんと女性に見えるようになってから、ようやく口が利けるようになりました。
「初めまして、ハナさん。私は、浩一と申します。サチの兄です。いつもサチがお世話になっています。うちのサチがご迷惑をかけてはおりませんか?」
ハナは、心なしか緊張したような面持ちで挨拶を返しました。
「はい……、ハナです。初めまして。迷惑なんて、とんでも……ございません……」
はっと気が付くと、サチが私を見てにやにやしていました。
私は、何とかハナに、『どうぞ、ごゆっくり』とだけ声を掛けると、落ち着いているふりをしてその場を離れました。……正直、リビングから出るまで、右手と右足が一緒に出ていやしないかと気が気ではありませんでした。
私は、何とか落ち着こうと食堂でお手伝いのスミさんにお茶を淹れてもらいましたが、そのお茶を啜っている間も、夜になって父と事業の話をしている時も、ハナのことが頭から離れなくなっていました。
「だめだな……、これではどうにもならないぞ……」
私は、このままではこれからやろうとしている新事業に悪影響がでかねないとも思い、届いたばかりの車を運転してハナの住んでいる商家を訪ねることにしました。
「ごめんください……、ハナさんはご在宅でしょうか」
商家の奥から顔を出してきたのは、奥さんでした。
「ご在宅って……、そりゃいるけど、ハナに何の用だい?」
訝し気に私を見る奥さんの視線にさらされ、私の心は凍り付いてしまいそうでしたが、何とか伝えたいことを口に出して言いました。
「は……、できましたら、ハナさんを私の車で遠出になどお連れ致したいと考えまして……」
奥さんは、驚いた顔になって言いました。
「車?! はあ、あれかい。初めて見たよ。あれ、あんたのかい?」
「は、左様です」
「遠出ねぇ……、ハナがよければ構わないけど、ハナに怪我なんぞさせないでおくれよ」
「はい。私の命に換えましても、ハナさんをお守りするとお誓い申し上げます」
私がそう言うと、奥さんがプッと吹き出しているのが見えました。気を使ってくださっているのか、何とか笑い出すのをこらえている様な感じでした。私は、何かおかしなことを言ったのでしょうか……。
「少し、待ってな」
奥さんは、肩をわずかに震わせながら、商家の奥に戻って行きました。
しばらく待つと、奥からハナが姿を現しました。
「あの……、お久しぶりでございます」
先日、私の家でハナと会ってから何日も経っていませんでしたが、ハナも緊張していたようです。
「はい、お久しぶりです。お元気でしたか?」
勿論、その時の私に余裕などあろうはずもありません……。
「はい、お元気でした……、浩一さんは?」
「お元気でしたとも! 今日は、車でご一緒に遠出でもと……、いかがでしょう」
内心冷や汗で一杯でしたが、何とかハナを遠出に連れ出したいと伝えることはできました。
ハナはずっと俯いていましたが、意外そうな表情になった顔を上げて言いました。
「私とですか? ……私がご一緒でよろしいのですか?」
「はい! もし……、よろしければ」
ハナは、私がハナを連れ出したいと思っていることが理解できないでいるという風でしたが、それでもこう答えてくれました。
「はい、私で……、よろしければ」
私は、それまで冷や汗で一杯だったことなど一瞬で吹き飛んでしまい、天にも昇るような気持ちで言いました。
「よかった! それでは、参りましょう!」
そう言って、車の方にハナを案内して、車のドアを開けました。ハナは、初めて見る車に乗るのに、おっかなびっくりという風情でしたが、車に乗ってくれました。
「それでは、参りましょう! ご安心ください、安全運転で参りますから」
ハナは、何も言わずにこくりと頷きました。私は、車を発進させ、商家の奥さんにも誓った通り、けして事故など起こさぬように、それだけを気を付けて車を運転しました。
村の近くの丘へ向かう道を通り過ぎるとき、近所の子供たちが車を追い越して走って行くのが見えました。……実際のところ、ほとんど速度を出せていなかったのです。しかし、その時はそれでよかったと、今でもそう思っております……。
初めてハナを連れ出した時にはそんな調子でしたが、何度かハナと会って、ぎこちない会話を交わしているうちに、私の心も平静を取り戻していき、父ともきちんと事業の話ができるようになっていったのです。車もちゃんと普通の速度で走れるようになりました。
ハナも少しずつうちとけて私と話をしてくれるようになりました。私は、ハナと過ごして何気ない会話を交わしていくうちに、この女性とずっとこのまま、一生一緒にいたいと思うようになりました。
そうして、銀行から会社を興すための運転資金を借り入れて、町に新しい家具を製造するための工房を立上げました。立ち上げたと言っても、結局工房の施設や職人さんたちの手配などを考えて叔父さんとも相談し、叔父さんが元々経営していた工房を拡大する形で新しい工房とすることにしたのです。
新しい工房は、叔父さんが経営していた時のように民芸品のみではなく、新たに大型の家具を設計、製造できるように規模を拡大しました。そして、材料となる木材を林業を主産業とする村から調達することで、村の経済を活性化することができるのです。
叔父さんには工房の職人たちのまとめ役として働いてもらい、叔父さんの勧めもあって代表取締役社長は私が勤めることになりました。銀行からの借り入れなどの関係もあり、その方が都合がよかったのです。
私は、新しい工房を立ちあげることを計画した時から、それを実現することができたとき、一つのことを実行しようと思っていました。それは、ハナに結婚を申し込むことです。
しかし、いざハナに結婚を申し込むことを考えると、どうにも恐ろしくて二の足を踏んでしまうのです。正直なところ、
私は、生来の性格なのかもしれませんが、何かしようとするとき、まず最悪のことを考えてしまうところがありましたので、この時もハナから結婚を断られたことを想像していました。
「私と結婚ですか? あなたは私の好みではありませんので、お断りさせていただきます」
私は、脳天に氷の塊をぶつけられたように感じました。もし本当にそんなことをハナの口から言われたら、気を失いかねないと思いました。
私は、そのままの言葉で気持ちを伝えるよりも、少し婉曲な言い回しで気持ちを伝えることを考えました。そうすれば、ハナもきっと婉曲な表現で返してくれると思ったのです。
私は色々と考えを巡らせましたが、もしハナと結婚することができたらという前提であれやこれやと考えている時、ハナの作った食事で二人一緒に食卓を囲みたいという気持ちがありましたので、そのことを表現してみることにしました。
『僕のご飯を作って欲しい』ではどうかと考えましたが、よくよく考えてみると、私と結婚しなくても私の家でハナが食事の用意を手伝ったら実現してしまいそうに思えたので、もう少し具体的にしてみようと考えました。
昼ご飯でも、夜ご飯でも、ハナは私の家の食事の用意を手伝って、実現させてしまうように思えました。それでは、『朝ご飯』なら?
私は、我ながらなんといい考えだろうと思いました。『朝ご飯』なら、食事の用意をすることを考えたら、前の日の夜から一緒にいないと、とても実現しそうになかったからです。
私は、ハナに結婚を申し込む心積もりができたと思い、次にハナに会う時にそれを実行しようと考えました。そして、その時がやってきたのです。
私はその時、いつもハナを連れ出しては向かっている、村のはずれにある丘にハナと二人で腰を下ろしておりました。
そうして意を決して、ハナに結婚を申し込む……、と思ったのですが、どうにも心が決まらず、何やらよくわからないことを口にしておりました。
「ええとね、ハナさん、実はその……なんでもないんだ……いや、違う」
私はそんなことを言いながら、あちらを見たり、こちらを見たりしておりました。ハナは、そんな私を心配そうな顔をしてみておりました。どうも私の具合が悪くなったと思ったらしいのです。
私は、これではいけないと思いなおし、何とか口に出して言いました。
「ハナさん、僕の……朝ごはんを作って欲しいんだ」
しかし、私の言いたいことは、ハナには伝わらなかったようです。
「あら、村長さんのお屋敷には、とてもお料理の上手なお手伝いさんがいらっしゃいます……、ああ、そうですね、今度お料理を教わるのも、よいかもしれませんね」
私は、慌てて言いました。
「いやあ、違う。いや確かに、うちのお手伝いさんの料理は素晴らしい。でもそういうんじゃなくて……、ああでも、もし嫌だっていうなら、はっきり言って欲しい……」
私は、すっかり余裕がなくなってしまい、婉曲な言い回しをした目的など頭から飛んでしまっていました。
ハナは、そんな私の思惑になど思いもよらず、ただ私の言った言葉にそのままの意味で返事をするのでした。
「あら、あまり上手ではないかもしれませんが、私もお料理をするのは、割と好きなんですよ?」
私は、なんとか気持ちを伝えようと、手前勝手に奮闘しておりました。
「それはすごい! いやそうでもなくて、僕の朝ごはんを……」
「でも、朝早くに村長さんのお屋敷にお邪魔するのは、ご迷惑ではないかしら……」
「迷惑なんて……、いやそういうことでもなくて……、つまりその……、つまりね……」
「はあ、つまり……」
そして、とうとうはっきり言葉にして言ったのです。
「僕と……、結婚して欲しいんです」
ハナは、驚いたような、呆けたような顔をして、でも何とか私に返事をしようと奮闘を始めたように見えました。
「結婚、ですか……、あの、どなたが……」
私は、ゆっくりとハナに自分の言ったことを理解してもらおうと話を続けました。
「あの、ハナさんが……、です」
ハナがぎこちない笑顔で答えます。
「私が、あの、どなたと……」
私は、何とか会話を成立させようと奮闘を続けます。
「あの、僕とですが……、お嫌でしょうか……」
ハナは、頭を振って否定しているように見えましたが、明らかに動揺した様子でした。私は手前勝手に話をしてしまったことに半ば後悔を感じながら、ハナに詫びて言いました。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。ただ、ハナさんに僕の気持ちを知っていただきたくて……。勝手なことを言って、すみませんでした」
するとハナは、動揺した様子で私に言ったのです。
「あの、すみません。こちらこそ、ごめんなさい。ああ、どうすればよいのかわかりませんので、今日のところは、もう帰らせていただいてもよいでしょうか……」
私の頭には、ハナの『ごめんなさい』『帰らせていただいても』という言葉が鳴り響きました。私は結婚を申し込んで、断られてしまったのです。振られてしまったのです。……目の前が真っ暗になりました。
数秒、何も考えられませんでしたが、心に鞭を打ち、動揺しているハナの心に平穏を取り戻さなければと思い、極力平静を装って言いました。
「今日は……、本当にすみませんでした。暗くなる前に帰りましょう」
私は帰り道、ただただ、ハナに怪我をさせないようにと、それだけを考えて車を運転してハナを商家まで送り届けました。
その後、どうやって家に戻ったのかは覚えておりません……。
私は、また何かを考えることがとても難しくなりましが、新しく工房を立ち上げたばかりだったこともあり、そのことに集中することで、ハナに結婚を断られたことを考えないようにしておりました。
しかしその翌日、昼過ぎ位でしょうか、私が自分の部屋で新しい家具の設計図を見ていた時、お手伝いのスミさんが、部屋の扉をコツコツと叩いて言いました。
「坊ちゃま、商家のお嬢様がお見えです。坊ちゃまにお話があるとかで。居間にお通ししておりますので、いらしてください」
私は、とても気が重くなりました。仕事に没頭することで考えないようにしていたことに、引き戻されてしまったからです。しかし、それがハナに伝わることは、何としても避けなければいけないとも思いました。
「ここが男の見せどころか……」
私はそんな独り言を言いながら、居間へ向かいました。
私が居間へ行くと、ハナは緊張した面持ちでソファに座っていました。私は、極力明るく振舞いつつハナに言いました。
「今日は、よく来てくださいました。きっと、先日のお話について、ご丁寧にご返事を下さるおつもりなのですね」
ハナは、緊張した面持ちを下に向けたままで言いました。
「あのですね……、先日いただいたお話なのですが、その……、私としましては……」
私は、私がハナに結婚を申し込んだことで、こんなにハナを困らせてしまっていることに後悔を感じ始めていました。
「すぐに……、その……お返事をすることは……、中々……」
私は、ハナがつっかえつっかえそのように話していることを聞いていられなくなりました。
「本当に申し訳ありません。そんな風に、あなたに辛い思いをさせるつもりなどはなかったのです。皆まで仰らずとも、お気持ちはわかっているつもりです」
するとハナは、突然怒ったように私に言ったのです。
「あら、きっとわかっていらっしゃいません。私は、お返事をするのに時間をいただきたいと、そう申し上げたいだけなのです。お断りしたわけではありません」
私は混乱しました。ハナに怒られるようなことをしたのだろうかと……、いや今、『断ったわけではない』と言ったような?
「すみません、仰っていることがよくわかりませんでした。断ったわけではないと……、そう仰ったんですか?」
「はい。浩一さんは、随分前から私を連れ出して、あちこち連れて行ってくださいましたが、その頃から私との結婚を考えていらしたということでよいですか?」
私は、ただ驚くばかりで、言葉通りに返事をすることしかできませんでした。
「はい、その通りです」
ハナは、続けて言いました。
「でしたら、初めからそのように仰ってくださればよかったのです。そうすれば、私もきちんと気持ちの準備ができて、きっとすぐにお返事もできました。でも、突然結婚のお話などをされましても、お世話になっているお家のこともございますし、とてもすぐにお返事などできるものではありません」
私は、ようやくハナの言っていることがわかりかけてきました。私が結果を急ぎすぎたこと、そして、ハナに振られたわけではないことに。
私の重く沈んでいた気持ちは、一気に明るく転じたのです。
「ははははははは! そうだ、全く仰る通りです。僕としたことが……、あはははははは!」
「うふふふふふ、あははははは!」
ハナも、私につられて笑いだしていました。
そうして私は、やっといつもの私に戻って、こう言いました。
「いくらでもお待ちしますよ、あなたのお返事を。何年でも、何十年でも」
「あら、きっと何十年もかかりません。私、おばあちゃんになってしまいます」
そうして、また二人で顔を見合わせて笑ったのです。
私は、またハナに結婚を申し込む前と同じように、週末ごとにハナを遠出に連れ出しては、あちこち車で廻ったり、村の近くの丘でお喋りしたりしました。
私は、ハナの笑顔を見ては、始めたばかりの事業で感じていた重圧を忘れることができました。私は、私の中でのハナの存在がかけがえのないものになっていくことを感じていました。
私が立ち上げた工房では、既に新しい家具の販売を始めていましたが、やはり国内での販売は難航していました。
私は、かねてより考えていた計画を実行しました。私が
一か月程してシアトルから来た手紙では、販売する場所を用意するから、どんどん家具を送って欲しいと書いてありました。できるだけ多くの種類の家具を、定期的に送れるだけ送って欲しいとのことでした。
私は手ごたえを感じ、シアトルの家具工房のご主人が手紙で書いてくれたように、数日ごとに、ワードローブやチェスト、テーブルセットなどの家具を送り続けました。
それからは、シアトルからも定期的に手紙が来るようになり、もっと食器棚が欲しいとか、椅子だけもっと送れないかとか、次々と詳しい要望をもらっていました。私と叔父さんの工房は、一気に活気づきました。
私は、東京にある百貨店と交渉して、うちの工房で作った家具を置いてもらうようにしました。百貨店の担当者は、うちの家具を見た当初は怪訝な顔をしていましたが、
そして半年後には、百貨店の売り場も大きくなり、シアトルへの家具の輸出も続いていました。私は、家具工房をもっと拡大し、家具職人さんを含め、工房で働く人をもっと雇い入れることを計画しました。
私が自分の部屋で工房の拡大計画に必要な資金などについての資料を見ていた時、お手伝いのスミさんが、私の部屋の扉をコツコツと叩いて言いました。
「坊ちゃま、商家のお嬢様がお見えです。坊ちゃまにお話があるとかで。居間にお通ししておりますので、いらしてください」
私の胸は、どきりと高鳴りました。その時も週末にはハナに会いに商家へ通っておりましたが、ハナの方からこのうちを訪ねてきたのは、あの日以来、実に二年程も前のことだったからです。
私が少々緊張した面持ちで居間へ参りますと、ハナが前回よりも落ち着いた様子でソファに座っておりました。私は、ハナに挨拶をした後、ハナとはテーブルを挟んで座りました。
ハナは、私に言いました。
「長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ありませんでした。もし、浩一さんのお気持ちに変わりがなければ、以前いただいた結婚のお申込みを、お受けしたく存じます」
私は、感極まって立ち上がり、ハナの傍まで駆け寄りました。するとハナは少々驚いた様子でしたが、私に答える形で立ち上がりました。
そんなハナを、私は抱きしめました。そしてハナに言ったのです。
「どうか謝らないでください、ハナさん。僕の気持ちが変わることなんてないんですよ!」
私は、これでようやくハナと夫婦になれると思い、感激しておりました。家具工房を軌道に乗せる為に四苦八苦していたことが、報われたように思ったのです。
そうして数日後、私と私の両親は、結納品を持って、ハナのいる商家へ参りました。商家のご夫婦は、商いをお休みして私たち親子を迎えてくださいました。
私たちは、商家のご夫婦とハナとは向かい合って座り、両家が挨拶を交わした後、父が口上を述べました。
「おめでとうございます。本日は、吉日でございますので、婚約のお印としまして、結納品を持参いたしました。何卒、幾久しくご受納くださいますよう」
商家のご主人が口上を返します。
「ありがとうございます。幾久しく、お受けいたします。結構な結納の品々をいただきまして、ありがとうございました。本日は吉日でございますので、御引出結納の品を持参いたしました。何卒、幾久しくご受納くださいますよう」
父も口上を返します。
「ありがとうございます。幾久しく、お受けいたします」
そして、その場の全員が結納の儀式終了の挨拶をします。
「本日は、どうもありがとうございました」
結納の後、商家のご夫婦が酒宴の席を設けてくださいました。両家のみのささやかな場でしたが、父と商家のご主人は友人同士ということもあり、随分話し込んでいる様でした。
父は、ハナのご両親が亡くなった日の夜、商家のご主人がハナを引き取ると言った時のことを思い出し、長男の浩一とハナさんが結婚することになったとは、実に感慨深いというようなことを話していました。
そして、祝言の日がやってきました。私は、紋付袴を着てハナを待ちました。
ハナは、お世話役の商家の奥さんと一緒に、白無垢の上に裾模様を羽織った姿でやってきました。その姿はとても美しく、私は感激して涙が出てくるのをやっとの思いで堪えていました。
祝言が始まりました。商家のご主人が謡を謡い、続けて父も謡を謡いました。そして私とハナの前に置かれた盃に酒が注がれ、ハナと三々九度の夫婦の盃を交わしました。続けて、私の両親とハナの間で親子の盃が交わされます。
母は、ハナにこんなことを言いました。
「これでハナさんもわたしらの家族だね。まあ、難しく考えることはない、気楽にやっていこうじゃないか」
ハナは、母の心遣いに感じ入り、しばらく俯いて肩を震わせておりました。私は、そんなハナの姿を見て、これでハナと夫婦に、家族になったのだという実感を感じておりました。
to be continued...
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