結婚

ハナの章 第二節

 私は、お店のお休みのとき、おたなのご家族と一緒に、山に行くことがありました。山菜などを探したりするのですが、秋口には、青くかわいらしい、リンドウの花を見ることができました。


 母の生前、リンドウが好きだと言っていたことを思い出します。私の名前は、その母がつけてくれたのです。リンドウの花を見ていると、母を思い出すのと同時に、可憐に咲くリンドウと自分を重ねることができて、私はうれしくなってしまうのです。

 ただ、両親が事故にあって以来、私は一人で山に入ることが怖くなってしまったので、それ程リンドウの花を見る機会は多くありませんでした。


 あっという間に数年が過ぎました。さっちゃんから手紙が来て、高等学校を卒業するから、実家である村長さんの家に帰ってくるとのことでした。私は、またさっちゃんに会えることをとても嬉しく思いました。


 さっちゃんは、私を村長さんのお家に招いてくれました。

 私たちは、村長さんの家のリビングでお茶をいただきながら、積もりに積もったお話に花を咲かせました。


 私は、すっかり大人びたさっちゃんにびっくりしましたが、さっちゃんも私を見て、とてもきれいになったと言ってくれました。私は、そんなことはないと言ったのですが、いたずらっぽく笑ったさっちゃんは、ほら、きっと兄さんも同じ意見だよ、といって、リビングに入ってきた浩一さんを指さしたのです。


 浩一さんも、留学先から帰ってきていました。

 浩一さんは、その時にはもうすっかり大人の男性でした。そして、浩一さんは私を一人の淑女として、それは丁寧なご挨拶をしてくれたのです。私は、すっかりあがってしまって、挨拶を返すのに、しどろもどろになっていました……。


 その日から、お店がお休みの日に、時々浩一さんが私をドライブに連れて行ってくれるようになりました。車は、村で数台しかないうちの一台です。

 正直に申しますと、私は車に乗るのが少し怖かったので、ドライブしている間は、とても緊張しておりました。でも同じだけ、胸がどきどきしていたのです……。


 そしてしばらくたったある日、とうとう私は、浩一さんに結婚を申し込まれました。村の近くにある丘で、二人で遠くの山々を眺めながらお喋りをしていたときのことです。

「ええとね、ハナさん、実はその……なんでもないんだ……いや、違う」

 そんなことを仰りながら、あちらを見たり、こちらを見たりしていらしたので、私は浩一さんの具合が悪くなったのかと心配になりながら、様子を見ていました。


「ハナさん、僕の……朝ごはんを作って欲しいんだ」

「あら、村長さんのお屋敷には、とてもお料理の上手なお手伝いさんがいらっしゃいます……、ああ、そうですね、今度お料理を教わるのも、よいかもしれませんね」

 私には、浩一さんが何のお話をされているのかさっぱりわからず、そんなお返事しかできませんでした。


「いやあ、違う。いや確かに、うちのお手伝いさんの料理は素晴らしい。でもそういうんじゃなくて……、ああでも、もし嫌だっていうなら、はっきり言って欲しい……」

「あら、あまり上手ではないかもしれませんが、私もお料理をするのは、割と好きなんですよ?」

「それはすごい! いやそうでもなくて、僕の朝ごはんを……」

「でも、朝早くに村長さんのお屋敷にお邪魔するのは、ご迷惑ではないかしら……」

「迷惑なんて……、いやそういうことでもなくて……、つまりその……、つまりね……」

「はあ、つまり……」

「僕と……、結婚して欲しいんです」


 私は、浩一さんの言葉をすぐには理解できず、でも何か話さなくてはと思い、結局よくわからないことを口にしてしまいました……。

「結婚、ですか……、あの、どなたが……」

「あの、ハナさんが……、です」

「私が、あの、どなたと……」

「あの、僕とですが……、お嫌でしょうか……」


 私は、ぶんぶんと音が鳴るくらい首を振りましたが、でも結婚のことなど、考えたこともありませんでしたので、その時には、お返事ができませんでした。

 私が何も言えずにびっくりした顔をしていると、浩一さんは申し訳なさそうに頭を下げました。

「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。ただ、ハナさんに僕の気持ちを知っていただきたくて……。勝手なことを言って、すみませんでした」


 私は、どうしてよいかわからないまま、ただ申し訳なさそうにしている浩一さんに気にしないで欲しいと思って、思いついたままのことを口に出しました。

「あの、すみません。こちらこそ、ごめんなさい。ああ、どうすればよいのかわかりませんので、今日のところは、もう帰らせていただいてもよいでしょうか……」


 浩一さんは、きっとこの時、私がプロポーズを拒んだと思ったのでしょう。すうっと冷静な表情になって、改めて私に詫び、ぎこちない笑顔を浮かべながら、暗くなる前に帰りましょう、と言って私を車で送ってくれました。


 私は、お家に帰ってから、夜のお手伝いを茫然としたままやっていました。何とかお茶碗を割らずにお夕食の後片付けまで済ませた後、旦那様と奥様に、どうしたものかご相談をしたのです。そうしましたら、旦那様は、奥様と顔を見合わせてからにっこり笑って仰ったのです。

「やっと言いおったかね、あのお坊ちゃんは。いつ言うか、いつ言うかと、私らは首を長くしておったんだがね」

 私は、どういうことか飲み込めず、旦那様にお尋ねしました。

「あの……、どういうことなんでしょう」


「結構な前から、あのお坊ちゃんはお前を連れ出しては、あちこち行ったりしていただろう?」

 旦那様の代わりに、奥様が仰いました。

「ええ、ご親切にも。きっと、何の趣味もない私を気遣ってくださったんですね、優しい方です」

 私がそう答えますと、今度は旦那様が仰ったのです。

「ああ、お前がそういうんなら、きっとお坊ちゃんは優しい男なんだろうよ。ただね、お坊ちゃんは、単に親切心でお前をあちこち連れまわしていたのではなかったということさ」


「すみません、私にはよく……」

 やっぱりお話が飲み込めない私がそう申し上げますと、奥様が旦那様の後を続けて仰ったのです。

「きっと、あのお坊ちゃんは、お屋敷に行ったお前を一目で見初めて、結婚を前提としたお付き合いをするためにお前を連れ出していたってわけさ」

「結婚を前提に……、私、そんなことちっとも知りませんでした……」

 私がそう言うと、旦那様がクスリと笑って仰ったのです。

「私らにだって、はっきりそう言ったわけじゃないさ。まあ、とにかく重要なのは、お前の気持ちなんだが、お前はどうしたい? 嫌なら断っていいんだよ」


 旦那様にそう言われても、私はどう考えてよいか、考えが纏まりませんでした。

「わからないんです。浩一さんは、とてもよい方だと思いますが、急に結婚なんて言われても、どう考えればよいものか、見当もつかなくて……」


「ほぉらご覧、あたしが言ったとおりだろ?」

 奥様が勝ち誇ったように仰いました。

「ふぅむ、やっぱり女のことは、女の方がよくわかるものなのかね」

 旦那様もそんなことを仰いました。私がどういうお話か掴みかねていますと、奥様が続けて仰いました。

「お前はさ、義理堅い女だから、この家を出て、他の男と結婚して生活するなんて、そんな簡単に割り切って考えられないんじゃないかって、この人に言ってたんだよ。きっと、お前はまだ混乱してるのさ。すぐに答えを出さなくてもいいんじゃないか? ゆっくり考えなよ」


 そう言っていただいて、私は随分ほっとしましたが、顔にも出ていたようです。

「ふふ、安心できたようだね。でも一応、お坊ちゃんにもそのことは話しておいた方がいいだろう。きっとお坊ちゃんは、お前に結婚を断られたと考えているだろうからね」

 そう奥様が仰いました。

「そうですね、明日、村長さんのお屋敷へ行って、浩一さんにそうお話してきます」

 私は、このことについてすぐに答えを出さなくてよいということに安心して、そう言いました。

 奥様と旦那様もそれがいいと仰ったので、私は翌日、村長さんのお屋敷を訪ねることにしたのです。


 でも、いざ浩一さんにそのことをお伝えしようとしたときの私は、それはそれは緊張してしまって、とてもしどろもどろになってしまったのです。

 私が、村長さんのお屋敷に伺って、お手伝いさんに浩一さんにお話があるとお伝えすると、そのお手伝いさんは、私を客間に通してくださったので、私はそこで浩一さんを待ちました。


 少しして、浩一さんは少し暗い表情で、でも努めて笑顔にしていると言った様子で客間に入ってきました。

「今日は、よく来てくださいました。きっと、先日のお話について、ご丁寧にご返事を下さるおつもりなのですね」

 俯き加減にそういう浩一さんは、何だかとても気の毒な感じがしました。


「あのですね……、先日いただいたお話なのですが、その……、私としましては……」

 私は、のどが詰まったようになってしまって、言葉が中々出てこないのです。この時になって、やっと私は、私に結婚のお話をしようとしている浩一さんのお気持ちが少しわかったような気がしたのです。


 浩一さんは、下を向いたまま、黙って聞いていました。

「すぐに……、その……お返事をすることは……、中々……」

 つっかえつっかえ、そんなことを言うと、浩一さんは、耐えかねると言った様子で顔を上げて言ったのです。

「本当に申し訳ありません。そんな風に、あなたに辛い思いをさせるつもりなどはなかったのです。皆まで仰らずとも、お気持ちはわかっているつもりです」


 前回はあんなにつっかえつっかえだったのに、この日は不思議なくらいすらすらと浩一さんが仰ったので、私はなんだか、少し腹が立ってきてしまって……、おかしいですね。なぜかわかりませんが、とにかく、腹が立ってしまったので、続く言葉をちゃんと言えるようになったのです。

「あら、きっとわかっていらっしゃいません。私は、お返事をするのに時間をいただきたいと、そう申し上げたいだけなのです。お断りしたわけではありません」


 そう私が言うと、浩一さんはびっくりしたような顔になって、こう言いました。

「すみません、仰っていることがよくわかりませんでした。断ったわけではないと……、そう仰ったんですか?」

「はい。浩一さんは、随分前から私を連れ出して、あちこち連れて行ってくださいましたが、その頃から私との結婚を考えていらしたということでよいですか?」

 先ほどまでのしどろもどろが嘘のように、私が浩一さんにそう聞きましたら、浩一さんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、「はい、その通りです」と答えたのです。


「でしたら、初めからそのように仰ってくださればよかったのです。そうすれば、私もきちんと気持ちの準備ができて、きっとすぐにお返事もできました。でも、突然結婚のお話などをされましても、お世話になっているお家のこともございますし、とてもすぐにお返事などできるものではありません」


 私が、少し怒ったような口調でそういうと、浩一さんは少しの間、ポカンとした顔をした後、突然笑いだして、こう言ったのです。

「ははははははは! そうだ、全く仰る通りです。僕としたことが……、あはははははは!」

「うふふふふふ、あははははは!」

 私もつられて、笑いだしてしまいました。


 そして浩一さんは、やっといつもの浩一さんに戻って、こう言ったのです。

「いくらでもお待ちしますよ、あなたのお返事を。何年でも、何十年でも」

「あら、きっと何十年もかかりません。私、おばあちゃんになってしまいます」

 私がそういうと、また二人とも顔を見合わせて笑ってしまいました。


 そうして浩一さんは、またしばらく、時々お家に来ては私を連れ出し、あちこち連れまわしてくれるようになりました。


 私は、落ち着いて浩一さんとの結婚について考えることができるようになりましたが、そこで大事なことに気が付きました。

 私は、おたなをお手伝いするようになってお給金をいただいてはおりましたが、とても花嫁衣装や嫁入り道具などを揃えるほどのお金は貯まっていなかったのです。


 それで恐る恐る、奥様に花嫁衣装や、嫁入り道具を揃えるには、どのくらいの金子きんすが必要になるのか聞いてみましたところ、奥様は嬉しそうな顔をなさって、こう仰ってくださいました。

「気持ちが決まったんだね、めでたいことだ。何、何も心配はいらないんだよ。花嫁衣裳やら、嫁入り道具やら、結婚に必要な細々したものは、全て私らが用意するから」


 私は驚いて、こう申し上げました。

「奥様、そんなことまでしていただくわけには……」

「お前は長いことこの家に仕えてきてくれた、それにね、私らはあんたの親代わりのつもりでもあるんだ。親なら子供の嫁入り道具くらい、用意するのが当たり前だろう?」

 奥様にそう言われて、私は胸がいっぱいになって答えました。

「そうなんでしょうか、私の……両親は……」

 そう言いながら、目からは涙が溢れていました。

「そうさ。きっとお前のご両親は、お前のことが心配で堪らなかっただろう。だから、お前のご両親に安心してもらうためにも、私らがお前の嫁入りをしっかり助けてやるのさ。そうさせてくれるね?」

 もう私は何も言葉を口にすることができず、ただ頷くばかりでした。


 浩一さんから結婚を申し込まれて、2年近く月日が経っていました。私は、村長さんのお屋敷に伺って、以前伺ったときと同じように、お手伝いさんに浩一さんにお話があるとお伝えすると、以前と同様に、お手伝いさんは、私を客間に通してくださいましたが、なぜか今度は奥へ去られる前に私にウィンクをなさっていきました。

 私が客間でお待ちしていると、落ち着いた様子で浩一さんが入ってきて、私の前に座りました。


 私は、浩一さんにお話ししました。

「長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ありませんでした。もし、浩一さんのお気持ちに変わりがなければ、以前いただいた結婚のお申込みを、お受けしたく存じます」


 浩一さんは、それまで平静を保っていましたが、もう耐えられないと言った様子で立ち上がり、テーブルを回って私の前までやってきました。私は驚いて立ち上がってしまいましたが、そんな私を浩一さんはいきなり抱きしめてしまったのです。

「どうか謝らないでください、ハナさん。僕の気持ちが変わることなんてないんですよ!」


 私はさすがに、他所様よそさまのお宅で、こんな状況になってしまって困りましたが、かといって突き放すこともできず、ただ浩一さんに抱きしめられるままになっていました。すると、少し開いた客間の扉から覗いていたさっちゃんと、浩一さんの肩越しに目が合ました。さっちゃんは、くすりと笑って、こちらに手を振ってきました。私は、浩一さんに気づかれないようにそっと手を振り返して、さっちゃんと同じように、くすりと笑ってしまいました。


 そんなときです。夕方になって薄暗くなっているのに、坊ちゃんのお姿が見えないことがありました。ご夫婦に伺うと、どうも山に行ったらしい、何、心配はいらないさ、と仰いました。


 私は、こと山のこととなると、どうしても両親のことを思い出して、心配になってしまうところがありました。悠然と構えてらっしゃるご夫婦のようにはなれず、ただおろおろとして、おたなの外にある門のところから、山に通じる道の方を眺めていることしかできませんでした。


 そうしますと、遠くから、小さな影がこちらに向かってくるのが見えました。その小さな、頼りなさげな影を見て、私がどれ程ほっとしたか……、言葉では言い表せないくらいです。坊ちゃんが門のところまでいらしたとき、私は思わず言ってしまったのです。

「坊ちゃん! ご無事で……、もう、心配したんですから……」

 坊ちゃんは、ちょっと下を向いてから、こちらに花を持った手を突き出して、「あげる」と仰いました。私の好きな、リンドウの花でした。私は、驚いて言いました。

「まあ、私にですか? 坊ちゃんが、わざわざ私のために?」

 坊ちゃんは、何も言わずに頷きました。


 私は、両親が坊ちゃんを守ってくれて、これから新しい生活を始める私を祝福して、坊ちゃんにリンドウの花を持たせてくれたようにも思えて、涙が止まらなくなってしまいました。そして、なんとか言葉に出して、坊ちゃんにお礼を申し上げたのです。

「ありがとうございます、坊ちゃん。ハナは、とてもうれしいですよ。このお花、押し花にして、ずっと大切にしますね」

 坊ちゃんは、何度も頷いていらっしゃいました。


 数日後、浩一さんがご両親を伴って、結納に見えられました。その日は、おたなもお休みにして、ささやかな酒宴が催されました。村長さんは、旦那様と古くからのご友人でいらっしゃるようで、随分話し込まれていらっしゃいました。


 そして、お嫁入の日がやってきました。私は、ご夫婦が用意してくださった白無垢を着ました。村長さんのお家は、それほど離れていなかったので、私は、私のお世話をしてくださる奥様と歩いて村長さんのお家に伺いました。


 そして、村長さんのお家で祝言が行われました。三々九度の夫婦の杯、浩一さんのご両親との親子の杯を交わしますと、浩一さんのお母様が、「これでハナさんもわたしらの家族だね。まあ、難しく考えることはない、気楽にやっていこうじゃないか」と仰ってくださいました。私は、お母様のお気遣いがうれしくて、涙が止まりませんでした。


 to be continued...

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