第27話 香り爪弾く仮面劇

 レモンバームにカモマイル、フェンネル、リンデン、ラベンダー、夏の朝咲く稀なローズも惜しみなく、クローブは蕾の儘に床へ撒かれて踏まれゆく。

 王の寝室に香の満ちた後、モードは寛ぎ座る人の足元へ跪いた。


「陛下、今、<王の香り爪弾く乙女>のことをお話してもよろしゅうございますか?」

「それどころではないのは判っているな」

「はい。であればこそでございます。今暫くはロスシー公のご様子をお見守りするだけで、娘は待たせてよろしいのでは、と申し上げたくて」


 慎ましく目を伏せるモードに王は目をやり、促すように顎と指先をもたげる。それに笑みを結ぶ彼女の眸は揺らめき輝いた。


「わたくしは今回、あの子が陛下への忠誠を示す機会と考えておりました。彼女はロスシー公のご好意を手放す覚悟をお見せし、それをなしたと存じます。陛下も少しご安心召されませ。お体に障りますわ」


 口にしながらモードは王の手を取ると、それを大切そうに両手で包み、また目を閉じる。睫毛は祈るように静かに影を作った。

 国王は目線を遠く、飾りを落とした声を零す。


「野心がないのか、賢いのかは判らないが」

「野心があっても賢くても話が通りやすいだけでございましょう」

「そなたのようにか」


 軽く笑う王の気配にモードは瞼を上げ、柔らかに微笑む。


「わたくしのは野心という程では。拙い趣味に過ぎません」

「国を旅したい、とは詩人にでもなるかと思ったが、そのような情緒とは縁遠いな。私の目として役立つから許すが、そうそう離れられては困る」

「陛下のお望みの儘、お仕えしてもう十年を過ぎました」


 モードは静々と立ち上がると、傍らでワインに瑠璃苣ボリジの葉を入れ、その美しく青い花を浮かべる。王の眼前でそれを器に垂らして飲むと、再び酒を王の杯へと注いだ。


「その十年、そなたに不満があるとしたら夏のない年の<土産物>くらいなのだがな」

「どうぞほんの一花いっかと思し召せ」

「五年が一花か?」

「わたくしはその倍も咲いております」


 火灯りを受け、嫣然と笑みかける彼女に王は苦笑する。


「あれが二十五で私に孫が四人もいれば好きにしろ、と言えるが、やっと十六だ。異論なく王位を継げる者は他にいないというのに」


 恭しく置かれた儘であった杯を王は手に取った。それを掌の中で傾け戻しを繰り返す。緑の葉も瑠璃の花も蜜色に揺られ溺れて行った。


「ルイーズに続く国外の継承権者に今、出て来られるわけにはいかない。国が揺らぐ」

「ロスシー公はこの一点のお気紛れ以外は素晴らしいお世継ぎと伺いますが」

「その一点が問題過ぎる。あの娘を使えばリチャードを動かせる。手に入れて利用したい者など幾らもおる。いっそ盾に取られても今のあれは見捨てられまい」

「それもあり、お手元に置かれているのかと存じます」

「宮殿も出入りはある。害するには充分だ。手元で害される以上に痛恨なこともなかろう。人が変わるやもしれん。国の者は大概そちらを恐れるだろうが、試す価値のある者はいる。リチャードに道を外させるのに娘一人、害して済むなら安い」


 承知している内容にモードは心痛める表情を浮かべ、首を傾げる。

 彼女に届いた手紙はジェーンが自ら<王の香り爪弾く乙女>になろうとする、とは言い難かった。彼女に恐らく志はある。モードの<趣味>まで引き継いで、消えゆこうとする役目に明かりを点せるとしたらジェーン以外、彼女は思いつかなかった。

 しかし、志と才だけでは内の反感、外の思惑を渡り歩くことは難しい。それを誰よりモードは知っていた。香草に長けた者が宮廷を生きる術にも優れるとは限らない。彼女のレッスンを覚えることはできても心に宿すことはできずにいた子供の姿をモードは思う。

 戴冠式の役目をもってジェーンを「新たな」<王の香り爪弾く乙女>ではない、と強弁する膳立ては済み、自分の後を引き継がせる準備も整えた。今、モードが進行を止めることはできても、王の意思で話は再び進めることもできる。彼女はその道を断つ今ある唯一の手段を思いながら少し迷った。


「クラレンドン伯爵様には事態をお引き取りになる意がおありでしょう。ご継嗣が結婚を申し込まれたのですから。<王の香り爪弾く乙女>に任じるより陛下のご名声もみ手も汚れずに済むと存じますが、そちらは?」

「その儘、夫婦で十年も領地に下がっていたら恩賞を与えたい程だが、リチャードが……あれはその申し込みで決闘擬きをしたそうだ。結婚したら何をする気だ?」


 古い宮殿の、限られた者しか見聞きしない領域の話ながら、何やらあったらしき噂は薄らとモードにも聞こえている。だが、それを王の口から伝えられることは重みが違った。


「私が后を迎えて済む話ならば余程、簡単だった」

「詮ないことを仰いませんように。お体に障ります」


 モードは水差しを手に取ると盤に湯を注ぐ。ガラスの瓶を開けるとジャスミンが匂い立ち、針五加木エレウテロと濃淡異なる二つの浸漬酒を水盆に落として布を浸した。


「あのお年頃は失う方が拗れましょう。ご婚約のお話は恙ないのでしたら、ロスシー公の落ち着かれるのをお待ちすることもできますのでは」

「落ち着くのであれば、だがな」


 零す王の首元に彼女は布を当て、静かに声を紡ぐ。


「殿下にはご自身に寄らない者が珍しいだけやもしれません」

「……ルイーズもその娘が月桂樹を身につけていなかったのを見ている。確かに娘の方はリチャードに固執はしないのだろう。今はその儘にしても良い。そなたの変心は気にかかるがな」

「陛下の乙女の地位が惜しくないはずがございません」


 モードは微笑み、布を替える。

 宮廷の仮面劇マスクで仮面は王の前でこそ彼女は外さない。譬えそれと知られていても、外せば役者失格だ。それができるから自分が王に用いられることを彼女は承知している。


「そなたを置いた儘の方が、私に后を迎えよ、という話の出る隙を作らずに済むだろう。それで良しとしよう。これまで通り、上手く務めよ」


 モードは傅いて王に再び布を当てた。

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風はハーブをささやく 小余綾香 @koyurugi

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